サミナードの兄弟
「あの、お茶……」
「――お構いなく」
家の居間で、静かに卓についているのはジークと呼ばれた青年と、アーシャの2人。
エリセがそっと置いた紅茶を一瞥し、ジークは先程と同じ静かな声で呟いた。感情の読めない目だけは、じっとアーシャに向けられている。
復興のための手伝いが一段落するまでジークには待ってもらい、その後家に連れてはきたのだが――来てからというもの、ずっとこの調子だった。アーシャの顔は相変わらずどこか強張ったように見える。少なくとも、リティシアの目からは。
リティシアは居間の壁に背中をつけて佇みながら、それとなくアーシャを見ていた。ジークの顔を見てから、彼は仕事をさせても上の空、声を掛けても返事さえ遅れる有り様だった。
どういう知り合いなのかと、リティシアは疑問だったのだが――
「……アーシャに兄がいたとは、知らなかった」
斜め上から、微かに呟く声が降ってくる。
「――シリルも知らなかったの」
アーシャから目を外すことなく、リティシアはぽつりと言葉を吐く。ジークとは兄弟なのだと、リティシアは彼と会った後すぐにアーシャから教えられた。
彼は兄なんだ、と。息とともに吐き出すようなその言葉から窺えた感情は、肉親と会えた喜びとは違っていた。
「聞いたこともなかった」
端的なシリルの言葉からも、「仲のいい兄弟」というものではないのだろうと、何となく予想はつく。天界を飛び出した弟と、それを連れ戻そうという兄――2人の間に何があったのだろうか。
「……何、今さら。俺が出奔するときだって何も言わなかったのに」
長い沈黙を破ったのは、アーシャだった。リティシアがほとんど聞いたこともないような、緊迫した声。
「俺が出ていってからだって、100年近く放っておいて……今さら帰って来いなんて、どういうつもり?」
頑なな彼の声はきっと、天界に帰ることを拒絶している。そんな弟に対して、ジークはあくまでも冷静だった。
「お前が帰らないことで父が文句をつけられているところを見た」
短い言葉を、無表情のまま返す。
「……それ、どういうこと?」
アーシャは机の下で手指を組み合わせ、声に戸惑いを滲ませた。怪訝そうに眉根も寄せられている。
「俺たちの家は分家とはいえ、サミナードに連なる家だ。そこの子供が――たとえ家を継ぐこともない次男だとしても、天界から出ているという事実が気に入らない天使だっている」
サミナード、という姓が記憶のどこかにひっかかり、リティシアは思考を巡らせる。思い出せずに考えこむリティシアを見かねて、そばに来ていたエリセがそっと耳打ちしてくれる。
「確か……天界には政治を司ってる家が4つあって。そのひとつが、サミナードっていうおうち……、だよ」
天界について学んだとき、確かにそんな話を聞いたことがある気がする。天界には人間界や魔界のような王はいない。代わりに、いくつかの家が共同で政治を行うのだと。
アーシャはそこの出なんだね、と呟くエリセに礼を言いつつも、リティシアは思わず額を押さえた。片や、魔界の王女たる自分が平気で人間界に来ている一方で、天使はなかなか厄介なことがあるらしい。
アーシャは何も言わず黙っている。父親のことが気がかりなのだろうか。
「……それに、どうやら今の人間界の情勢とて、いいものではないんだろう」
それに追い立てるように、ジークが言葉を重ねた。
「魔物が出ているそうだな」
「……それは……」
言葉に詰まったように目を泳がせるアーシャを、紫の眼が強く射抜いている。
「魔物がいるところに天使であるお前を置いておくわけにはいかない」
ジークの言葉に、今までどこか遠くを見るようにしていたアーシャの目が、僅かに見開かれた。
「魔族や堕天使とは接触するなと、掟で決められている。忘れたわけではないだろう」
対する彼の兄は、どこまでも冷静だった。
「……だからって、放置して帰れって? 街がこんな状態になって困ってる人たちを」
微かにだが気色ばんだアーシャの声。それにもジークの表情が揺らぐことはない。
「――魔樹に街を破壊されたからと、人間に同情する必要があるのか? 確かにお前らしいと言えばそうだが。お前はまず何より天使だろう。忘れたのか。我々の――」
「……『純白の翼と天使の血の誇りを』、とでも言う? 笑わせないでよ、ジーク。そんな陳腐な、使い古された文句で動く俺じゃない。知ってるでしょ。昔から」
兄の言葉を遮り、まるで吐き捨てるように言うアーシャの姿は、普段からすれば異質だった。
リティシアのその思いは、シリルとエリセと同じものであったらしい。2人も不安そうにアーシャを見ている。
2階の自室に追いやったはずの双子が、階段の辺りで息を潜めている気配もした。
「お前が陳腐と言おうが、こちらだとて変わるものか。……やはり、他の種族と関わる前に止めておくべきだったのかもしれない」
淡々と紡がれた言葉に、リティシアはふと思い出す。最近関わっていた天使が、アーシャのような『変わり者』だったから。いちばん身近にいた堕天使が、魔族とよく馴染んでくれたから。人間界では優しく受け入れてもらったから。
だから忘れていたのだ。圧倒的に多かったはずの存在を。
ジークの目は、堕天して魔界にやってきた多くの天使たちと同じなのだ。天使の誇りを捨てられず、かといって感情的に振る舞って怒りを露にすることもできずにいた、堕天使たちと。
「魔族だけじゃない……異種族を、ときには魔族さえ受け入れている人間たちと関わらせることも、確かにあのとき止めておくべきだった」
「……何、それ」
他の種のために怒り、そのあまり声が震えている、アーシャのような存在の方が、『異質』なのだ。
「何だよ、それ! ジークは……兄さんは、いつもそうだ。いや、父さんだって、他の天使たちだって、いつもそうだった!」
アーシャが急に立ち上がったことで椅子が倒れ、派手な音を立てて転がった。
彼の怒るところを、シリルでさえ驚いたように見つめている。
「俺たちに、他の種族をそうやって見下せるような、どんな根拠があるって言うんだよ! 何で天使に生まれたってだけで、他の種と仲良くしちゃ駄目だなんて言えるんだよ!?」
机に両手をつき、必死に訴えるアーシャ。そんな弟を表情の浮かばない顔で見つめるジークの方が、リティシアにとっては異質で、どうにも不気味だった。
何を考えているのか、まったく読めない。
「血の誇りって何。そんなに大切なものだなんて思えない! そんな変な選民意識がどれだけの天使を追い込んだと思ってるのさ! まるで軍隊か何かみたいに厳しく掟で縛りつけて、規範だ秩序だってうるさく言って、感情的になるのは馬鹿のすることだなんて言って、そんな世界誰が帰りたいと思うんだよ!」
アーシャの長年の不満が、今爆発していた。あまりの剣幕に、リティシアや仲間の誰も口を挟めずにいる。
「あんな窮屈な……鳥籠みたいな世界でどれだけ――どれだけ、母さんやエミルや、他の天使たちが苦しんだと――それに兄さんだって、」
「お前がどれだけ嫌おうが、天使である限りは天使の法で裁かれる。当たり前だろう!」
聞き覚えのある名前にリティシアが顔を上げたとき、僅かに張り上げられたジークの声がアーシャの声を掻き消した。
「お前が我を通そうとするなら、その分だけ俺も法でお前を縛るほかない。それでも理屈が通ってないと言えるのか?」
先ほどまでの勢いが嘘のように、アーシャは立ち尽くしている。
「アーシャ。お前……何で、魔王の一族なんかと一緒にいる」
リティシアは思わず一瞬息を止め、ゆっくりと瞳を動かす。
冷たい紫色の瞳と、視線が交わった。
――エーデルフェルトのことを知られていたのか、と理解すると同時に、彼女の鼓動が微かに速まる。
いちばん起こってほしくなかったことが、起こった。




