翼
リティシアたちは早足で崖に向かっていた。青年を先頭に、シリル、その他の面々の順だ。歩幅が小さい双子は、ほとんど走っている状態に等しい。
エリセは少し表情が強ばっているものの、ゴーレムの時とは違い、震えてはいなかった。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
リティシアの問いにも、エリセは小さくだが頷き返す。アーシャはリティシアの後ろをついてきているため、彼の様子は窺えない。
「あそこです!」
青年が一点を指さす。それを目で辿ったアリスが悲鳴のようなものを上げる。
「うわぁぁ、蜘蛛! ワタシ蜘蛛嫌い!」
毒々しい、赤みを帯びた色合いの大きな蜘蛛。それが魔法陣を中心として、至る場所に張り付いていた。それを都民とおぼしき2、3人の人たちが、町の方に来ないように留めている。魔力を持たないため、棒を振り回すなどの手段だが、幸い怪我人は出ていないようだ。
「蜘蛛は虫を食べてくれるよ?」
「この場合は人間を食べそうでもっと嫌!」
双子の騒がしい会話が聞こえたのか、蜘蛛を留めていた人々がリティシアたちを振り返る。彼らは一様に、安堵の表情を浮かべていた。
「もういい、下がれ。安全な場所まで逃げろ!」
シリルの言葉に、青年を含めた人々が頷く。ひたすら礼を言う彼らに、シリルは小さく首を振り、逃げるように促した。人々の影が小さくなっていく。
「……油断するなよ」
シリルは蜘蛛の形をとった魔物に向き直る。魔物たちは魔力を察知したのか、じりじりとリティシアたちを囲みにかかっていた。
「……、来ないでよおぉ!」
これに耐えきれなくなったのはアリスだった。彼女の怒声とともに、地面が隆起する。1匹の蜘蛛が、それに引っ掛かってひっくり返る。
「アリス! ボクと一緒にやらなきゃ、効果半減だよっ」
「だって蜘蛛! 蜘蛛がこっち来るんだもん!」
アリスは涙目になりながら、ひっくり返った蜘蛛を指さした。
「落ち着きなって。ボクらは二人でひとり、二人で一人前でしょ?」
ひとりじゃ半人前なんだからさ、とクリスは自分の姉へと手を伸ばす。アリスはぶつぶつ文句を言いながらも、頷いてクリスと手を繋いだ。
「――今ので、怒らせちゃったみたいだね」
蜘蛛の動向を観察していたらしいアーシャが、小さく呟く。蜘蛛たちは今や、リティシアたちを完全に囲っていた。
「そうみたいね……」
リティシアは蜘蛛を注視しつつ、炎を呼び出した。蜘蛛たちの攻撃に備えてのことだ。エリセの周りにも、風が渦巻く。彼女は少し緊張した面持ちではあるものの、怯えの色は一切見せていなかった。
「――来るよ!」
アーシャが鋭く叫ぶ。蜘蛛たちは、一斉にリティシアたちに飛びかかった。
「来ないでってばあぁぁ!」
アリスの怒声が再び響く。アリスは右手を、クリスは左手を前へと突き出した。それと同時に、地響きが聞こえ始める。
次の瞬間―――地面のある一点から、おびただしい量の茨が飛び出した。 それは見事、蜘蛛を1匹捕らえた。もがく蜘蛛に、容赦なく茨の刺が突き刺さる。
「……すごい威力ね」
ひとりごちるリティシアにも、蜘蛛が飛び掛かる。リティシアは動じずに、それに炎をぶつけた。炎を喰らった蜘蛛はのたうち回り、しかしそれでも立ち上がろうとする。
今度はそれに、風の刃が命中した。
「さすがね、エリセ」
「ううん…っ」
エリセは首を振り、再び風を呼び出そうとする。その彼女に、違う蜘蛛が飛び掛かってきていた。
「エリセっ」
彼女の魔法が間に合いそうにないことを悟り、リティシアが手を伸ばす。しかし、リティシアもまだ魔法を放てる状態ではなかった。エリセは咄嗟に動けず、固く目を閉じる。
「落ち着け。大丈夫だ」
そのとき、低く落ち着いた声が響いた。エリセに飛び掛かろうとしていた蜘蛛が、水に捕らえられる。
エリセが、恐る恐る目を開ける。
「相手の動きをよく見ろ。そうすれば避けられる」
言いつつも、シリルは水に捕らえられた蜘蛛から目を離さない。水は段々と氷に変わっていき――蜘蛛を完全に閉じ込めた。リティシアはそれにほっと息をつく。
それからようやく、シリルはエリセを見た。
「エリセ?」
「……うん。分かった」
彼女の返事に、彼は小さく頷く。その間にも、蜘蛛はリティシアたちにじりじりと近寄ってきていた。
「……きりがないね。ちょっと、みんな下がってて!」
アーシャが一歩前に出て、両手を前に出す。
「アーシャ、加減はちゃんと――」
シリルの言葉は、何かが爆ぜるような音に掻き消された。アーシャの周りを、雷のようなものが取り巻く。リティシアは息を呑んでそれを見守った。光の魔法だ。
アーシャに蜘蛛が数匹飛び掛かる。アーシャはその数匹を含めたすべての蜘蛛に向かって、魔力を解き放った。
雷が落ちるときの轟音が響く。
リティシアは咄嗟に耳を塞いだ。
「……加減しろと言っただろう」
シリルがそう呟いたのは、すべての蜘蛛が動かなくなってからだった。蜘蛛のあちこちに、焦げ跡がある。
感電したのだ。
大層痛かっただろう、と、リティシアはほんの少し蜘蛛たちに同情した。
ほとんどの蜘蛛は、それでも生きていたのだろう。ほとんどの蜘蛛が光に包まれ、姿を消した。魔界に帰ったのだ。
「もう、終わり――?」
「……いや。まだだ」
首を傾げたアリスに、シリルがそう答える。
「……親玉のお出ましね」
リティシアは崖の方を見据える。先ほどの蜘蛛たちより、一回り大きい蜘蛛がそこにいた。アリスが再び悲鳴を上げる。
「1匹だけみたいだけど――」
リティシアがそう言い掛けたとき、その蜘蛛が動いた。糸のように細い影を、リティシアの方に伸ばしたのだ。
「なっ……!?」
闇の魔法。魔界の生き物である以上、それを使うのは当然とも言える。だが、いかんせん、それは唐突すぎた。
糸のような影がリティシアの右手首に絡まる。
「リティシア!」
アーシャが叫ぶと同時に、リティシアの体は蜘蛛へと引き寄せられ始めた。エリセが悲鳴を上げるのが聞こえる。アーシャが駆け寄ろうとしているのが目に入った。双子とシリルは、魔法を放とうにも放てずにいた。
だが、一方のリティシアは冷静だった。
「……あたしに逆らおうなんて、いい度胸じゃないの」
エーデルフェルト家の者に、逆らおうなどと。彼女は真っ直ぐに蜘蛛を見据え、猛火を呼び出した。
魔法は、その主を攻撃することはない。 どれだけ至近距離で蜘蛛を燃やそうとも、リティシアがやけどを負うことはないのだ。周りに味方がいないのなら、容赦なく焼き払ってしまえる。
リティシアは空を飛ぶように引き寄せられつつも、的確な狙いで炎を放った。蜘蛛から一瞬火柱が上がり―――あっという間に燃え尽きる。
「――!?」
そこで、予想外のことが起きた。
蜘蛛がいなくなり、リティシアと崖の間に障害物はなくなった。そして――リティシアを引き寄せていた魔法は消えたが、彼女の動きそのものは衰えなかったのだ。
「リティシア!」
アーシャが再び叫ぶ。
リティシアは体勢を整える間もなく、崖の向こうへ体を投げ出された。
頭が真っ白になる。エリセの悲鳴が聞こえた。崖の方に向かって、リティシアは手を伸ばす。その手が空を切り―――しかし、手首を誰かが掴んだ。
目の前が白に染まる。そして、柔らかい金色。誰かに抱き寄せられた感覚。
「――アーシャ!?」
アーシャと一緒に落下している、そのことを理解するまでにそう時間はかからなかった。
「もう大丈夫――大丈夫だからね!」
その柔らかい声と同時に、また視界が白く染まった。柔らかくも、混じりけのない色。力強く羽ばたくもの。
「羽、根……?」
リティシアが小さく呟く。それと同時に、落下していたはずの体が上昇へと転じた。アーシャはリティシアを抱きかかえるようにして、崖の上へと『飛んでいく』。
リティシアは呆然として、何も言えなかった。少し予想はしていたものの―――さすがに目の当たりにすると言葉が出てこなかったのだ。
アーシャはリティシアを抱えたまま、ふわりと着地した。シリルと双子は、安堵の表情でそれを迎える。その面持ちから、彼らはアーシャのことについてすべて知っていたのだと理解する。
一方エリセは、驚愕の表情を浮かべていた。
その視線は、翼――紛れもなくアーシャの背から生えている翼に注がれていた。彼に抱えられたままのリティシアも、改めて彼の翼を見る。
「……あれ、驚かせちゃったかな?そういえば二人には言ってなかったね。隠すつもりはなかったんだけど……」
その二対の眼差しに、アーシャは困ったように眉を下げて笑った。
純白の翼。世界で唯一、それを持つ種族。
「――天使……」
「うん。そうなるね」
エリセの呟きに、アーシャはいつもの柔らかい微笑みを浮かべた。




