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第八話 社交界の噂には温度がある

 温室館に移って五日目、兄のセドリックが訪ねてきた。


 ヴァイス伯爵家の現当主である兄は、昔から表情があまり変わらない。だが、その日は玄関に入るなり、私の顔を見て深く息を吐いた。


「生きているな」


「第一声がそれなの?」


「馬車を出した時点では、怒りで倒れているか、悲しみで倒れているか、リュシーを抱いたまま無理をして倒れているかの三択だと思っていた」


「信用がないわね」


「お前は自分の限界を信用しすぎる」


 兄はそう言って、隣で布兎を持っているリュシーに視線を落とした。


「リュシー。伯父だ」


「おじ?」


「そうだ。母の兄だ」


 リュシーは少し考え、私を見上げた。


「おかあさまの、おにいさま?」


「そうよ」


「じゃあ、えらい?」


 兄が珍しく言葉に詰まった。


「偉いかどうかは分からないが、君と君の母を守る責任はある」


「まもる?」


「嫌なことをされたら、私に言いなさい」


 リュシーは真面目な顔で頷いた。


「リュシー、さむいの、いや」


「分かった。それは最優先で守る」


 兄は本気の声で答えた。


 その後、リュシーをマーサに任せ、私たちは応接室で話をした。兄は社交界の噂をまとめた紙を机に置いた。


「すでに三種類出ている。一つ、病弱な幼馴染に嫉妬した妻が娘を連れて出奔した。二つ、侯爵家が妻の持参金を濫用したため、ヴァイス家が娘を引き揚げた。三つ、リリア嬢が侯爵夫人の部屋を奪った」


「三つ目は早いわね」


「使用人は口が軽い。特に、自分が悪者にされそうな時は」


 私は紙に目を落とした。


 噂は温度に似ている。


 放っておけば、冷たい場所へ流れていく。人が面白がる方向、誰かを悪く言いやすい方向、強い者の都合がよい方向へ。


 けれど、完全には制御できなくても、風向きを変えることはできる。


「兄様。私は社交界で泣きません」


「泣く予定だったのか」


「いいえ。でも、泣く妻を見たい人たちがいるでしょう」


 夫に捨てられた、あるいは夫を捨てた女が、悲劇の顔をしていれば社交界は喜ぶ。哀れみも批判も、どちらも消費しやすい。


 私はそれに付き合うつもりはなかった。


「小規模なお茶会を開きます。リュシーの療養を支えてくださった医師、法院関係者、母と親しかった奥方を数名。目的は、温室館の療養環境を見ていただくことです」


「攻めるのか」


「防御です」


「お前の防御は、昔から少し前に出る」


 兄はため息をついたが、反対はしなかった。


「レーヴェルト侯爵家からは、面会申請が出ている」


「聞いています」


「ギルベルト本人が署名した。理由は娘の健康確認」


 私は少しだけ目を閉じた。


 健康確認。


 父親として心配している、と読めなくもない。けれど、その言葉の中にリュシーへの謝罪はない。


「リュシーに聞いてから決めます」


「三歳の子に決めさせるのか」


「決定権を丸投げするわけではありません。ただ、あの子の嫌だという声は無視しません」


 兄はしばらく黙り、それから頷いた。


「母が聞いたら喜ぶだろうな」


「母が?」


「お前は子どもの頃、嫌なことを嫌と言うのが下手だった。母はずっと心配していた」


 私は少し驚いた。


 記憶の中の母は、いつも穏やかで、私に強く何かを求めることはなかった。けれど、見ていないわけではなかったのだ。


「兄様」


「何だ」


「私は、リュシーに私と同じ我慢を教えたくありません」


「なら、まずお前が我慢をやめろ」


 即答だった。


 私は思わず笑ってしまった。


 その日の夕方、私はお茶会の招待状を書いた。華美な言葉は避け、リュシーの療養環境確認と、旧温室館の冬鈴草についての小さな集まりだと記した。


 差出人は、ノエリア・ヴァイス。


 まだ正式にはレーヴェルト姓を離れていない。だが、この招待状は実家の館から出すものだ。私は久しぶりに、自分の生家の名を書いた。


 手が少しだけ震えた。


 それは不安ではなく、自分の手でドアを開ける時の震えだった。

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