《第3話 君を忘れる夢》
六月の雨が降っていた。
桜咲学園の中庭は、すでに緑の葉が覆っている。
花のない桜の木の下に立つと、まるで誰かがそこから消えた跡のように、空気が透けて見えた。
桐原桔梗は、もう一週間も学校に来ていない。
教師は何も知らないふりをして、「長期の休養」とだけ言った。
だが、朋広にはわかっていた。
“夢の中”でもう彼女の姿を見なくなってから、同時に“現実”からもその存在が薄れていったことを。
放課後の図書館。
彼は桔梗の席に残されたノートを見つけた。
表紙の隅に、細い文字でこう書かれていた。
『夢が消える前に、君に伝えたいこと』
ページを開くと、そこには誰かの記録のような日付が並んでいた。
『4月14日――夢で彼に会った』
『4月22日――彼の“昨日”を見た』
『5月2日――もう一つの夢が始まった』
『5月16日――未来を見てしまった』
未来。
その一行だけ、文字が涙で滲んでいた。
その瞬間、朋広の中に浮かんだのは、あの夜の言葉――
「見えるのは、どちらかがいなくなった後の夢」
あれは、ただの予感ではなかった。
桔梗は“消える未来”を見ていたのだ。
雨の音が静かに響く。
彼はページの最後に挟まれた封筒を見つけた。
宛名は「月城朋広へ」。
震える指で封を切る。
――『夢の中で、私はもう一度だけあなたに会います。
その時、私の記憶は風になるでしょう。
でも、それでも、あなたに伝えたい言葉がある。
“忘れても、心は覚えていて”』
手紙を握る掌が、微かに震えた。
桜霊の伝承――“夢を通じて記憶が風に散る”。
それはただの言い伝えではなく、今まさに目の前で起きている現象だった。
その夜、朋広は眠れなかった。
夢に入ることが、恐ろしかった。
もし今夜、彼女が“消える夢”を見てしまったら――もう二度と戻れない気がしたから。
だが、目を閉じた瞬間、世界が反転した。
桜の木が、光の粒となって流れていく。
そこに桔梗が立っていた。
「朋広くん」
彼女の声は、雨に濡れた花びらのように儚かった。
「私ね、もうすぐ“夢”から出られなくなるの」
「どういうことだ」
「この夢は記憶の世界。私は今、その中に溶けていく途中なの」
「そんな……戻る方法は?」
「ひとつだけ。あなたが、私の“昨日”を全部覚えていてくれたら」
桜の花びらが風に舞う。
触れようとすると、指の先をすり抜ける。
夢は、彼女の輪郭ごと崩れ始めていた。
「やめろよ……桔梗!」
叫んでも、彼女の声はもう届かない。
夢の中の空気が波紋のように歪み、記憶が剥がれ落ちていく。
桔梗の姿が淡く滲む。
「ねえ、朋広くん。あなたの夢の中で、私はまだ生きてますか?」
「当たり前だ、ここにいるじゃないか!」
「ふふ……でも、明日になったら、きっと忘れます」
「忘れない! 俺は絶対に――」
「……それでも、ありがとう。私の“昨日”を見つけてくれて」
彼女が微笑んだ瞬間、夢が崩壊した。
光が一気に溶け、桜の花びらが無限に舞い上がる。
その中心に、桔梗の影が静かに溶けていった。
目覚めると、頬は涙で濡れていた。
枕元には、昨夜の手紙の封筒が開いたまま置かれていた。
だが、その中の便箋は空白になっていた。
文字が――消えていた。
その日を境に、桐原桔梗という名前は、学園から完全に消えた。
出席簿にも、クラス写真にも、彼女の存在はどこにも残っていない。
友人たちに尋ねても、「そんな生徒いたっけ?」と笑うばかり。
彼だけが、確かに覚えていた。
夢の中で泣いて、笑って、そして消えた少女のことを。
しかし、その記憶もまた、少しずつ薄れていくのがわかった。
まるで、花びらが指の間から滑り落ちるように。
放課後。
朋広は古桜の下に立った。
風が吹くたび、空気の中に微かな声が混じる。
――“忘れても、心は覚えていて”
その声を追って空を見上げたとき、雨雲の切れ間から一筋の光が差した。
その光の中、花びらがひとつ、ゆっくりと落ちてくる。
掌に受け取ると、それは一瞬だけ温かかった。
まるで、彼女の心そのものがまだそこにあるかのように。
朋広は静かに呟いた。
「桔梗。俺は、お前を絶対に忘れない。」
けれどその声は、もう誰にも届かない。
ただ、桜の葉の間で、風が優しく答えた。
――ひとひらの夢は、まだ散っていない。




