26
その夜、依子は久しぶりに湯をためてお風呂に入ることにした。夏はつい簡単だからとシャワーで済ませがちなので、それは本当に一カ月ぶりくらいのことだった。入浴剤が溶けた青色のお湯に身体を沈ませれば、独特の浮遊感と包まれる温かさが心地いい。
依子は一瞬目を閉じて、先ほどきていた伊藤からのメールを思い出していた。
『お元気ですか』というどこかよそよそしい件名の本文はこうだ。
『ご無沙汰してます。実家でのんびり過ごしていますか? こちらは毎日相変わらず暑いです。戻ってきたら、また映画でも行きませんか?』
そのメールへの返事を放棄して、依子はここにいる。
「……ごめんね、伊藤君」
小さくつぶやき、お湯に鼻の下まで潜る。小さく息を吹き出して、その泡が消えていくのを見つめながら、依子はまた目を閉じた。
あの朝帰りをした日、涙をこぼした依子を見て、香織は『一緒に帰省しよう』と彼女を誘った。お盆の週丸々夏休みなのだから、一週間まとめて帰ろうと。伊藤からも藤代からも少し離れて考える時間があった方が良いと言われた。
それは魅力的な誘いだったが、結局依子は断った。
けれど、香織が言うように二人から離れることは必要かもしれない。そう思って、伊藤と藤代には帰省していると嘘をつくことにしたのだ。
『嘘つくくらいなら帰ろうよ』
と香織は不満そうにしていたが、一人になって考えたいと言えば渋々うなずき、口裏あわせのためのお土産を買うことも請け負ってくれた。
そして香織が帰省して五日目。依子の夏休みも五日目である。土曜日から次の週の日曜日までの九日間なので、ちょうど折り返しというところだ。
この五日間、依子は考えていた。
藤代と伊藤と、どちらを好きなのだろうかと。
二人が並ぶ姿を思い浮かべてみる。
スーツ姿の藤代はゆるんだ口元で弧を描き、依子に手を振っている。私服姿の伊藤は、真面目な表情で依子に会釈する。
なんて滑稽な想像だろう。
依子は笑うこともできず、その二人の姿を打ち消した。
藤代が彼女と別れたと聞いて感じたのは、喜びだった。自分を選んでくれて、嬉しかった。
けれど伊藤に想われることも心地が良いもので、彼の優しさに包まれれば、これも嬉しかった。
どうすればどちらか一方を選べるのだろう。
どうして二人とも、自分を想ってくれるのだろう。
堂々巡りの思考は出口を見いだせず、依子を悩ませる一方だ。
こんな贅沢な悩みを抱えられるほど、自分は魅力があるわけでもないのに……。
膝を抱え縮こまる。お湯であたたまる身体とは裏腹に、心はどんどんと冷えていくようだった。
◆
早田との電話を切った後、悠季は電話帳で依子の名前を出して、しばし考えた。
依子と前に会ったのは、ゴールデンウィーク最終日である。早田と伊藤とともに四人でランニングしたあの日。気をきかせて依子と伊藤を二人きりにして、その後の七月の三連休もデートのお膳立てをした。その後何かあったのだろうか。そう言えば何も聞いていない。
たかがデートの報告であれば次に会う時でかまわないのだが、伊藤が思いつめているという言葉が気になった。一体二人の間に何があったのだろう。
電話をしようかと思ったが、考えた結果メールで送ることにした。電話で話すよりも直接会って聞いた方が良い。そう思ったし、悠季自身久しぶりに依子と会いたかった。
『土曜日ひま? 飲みに行こうよ』
普段の調子の誘いに、依子からの返事も『いいよー』と簡潔で、いつもと同じだった。それにどこか安心している自分を感じながら、悠季はてきぱきと待ち合わせを決めていった。
何かを考えるのも、判断するのも、全ては会ってからすれば良いことだ。
そして土曜日。新宿のイタリアンで、悠季は依子と向かい合っていた。
そこは以前に早田・伊藤とともに行った店で、入った時に依子は懐かしそうに笑みを浮かべた。そこに少し陰りがあるように見えたのが気のせいであって欲しい。そう願いながら、悠季も笑顔で応じる。
店員にすすめられたワインをちびちびと楽しみながら、悠季は依子の様子をうかがっていた。彼女が少し顔を赤らめはじめ、ワインが少しずつまわってきたなという頃、いよいよ悠季は依子に言った。
「最近どう? 昨日も藤代と飲んでたの?」
急に飛び出した名前に依子は驚いたようだが、すぐに落ち着いた表情で首を横に振った。
「ううん、会ってない。今夏休みだから会社行ってないし」
「あ、そっかそっか。じゃあよっちゃんとは? 最近会ってるの?」
「……先々週会ったよ」
「へぇ~。で、どうなの? 二人の関係」
依子は悠季の問いに曖昧に微笑むと「どうかな……」と言葉を濁す。
「いやいや、答えになってないから。よっちゃんに告白された?」
「知ってたの!?」
間髪いれずに反応した依子に、悠季は苦笑で応えた。
「いや、告白したとかは知らなかったけど……でもよっちゃんが依子のこと好きなのはわかってたよ」
「……そっか」
「返事したの?」
聞きながら、してないんだろうなと悠季は当たりをつけた。この煮え切らない感じはきっとそうだ。そして予想通り、依子は「まだ」とか細い声で呟いた。
「そっか。まあ待ってくれるって言うなら、待たせといたら良いんだよ。どうせじれたらせかしてくるんだから」
伊藤が思いつめているというのは、きっと告白の返事を保留にされてるからなのだろう。
そう早田に教えてあげよう。
内心で思っていた悠季は、次の瞬間依子が放った言葉に目を丸くした。
「……二人とも好きみたいなの、わたし」
気付けば依子の目には涙がたまっている。それは今にもこぼれおちそうで、悠季は唖然としたまま彼女を見つめた。
思いつめている人間が、ここにも一人。
これは結構こじれてるかもしれない、と悠季の直感が告げていた。
依子の話を聞いて、悠季がまず思ったことは『無理しすぎ』だった。
大学時代一途な恋しかしたことがなかった彼女が、いきなり二股なんて完全にキャパシティオーバーだ。帰省するなんて嘘までついて二人から逃げていることがその証拠である。
「慣れないことしちゃって……」
呆れ声になるのを止められず悠季が呟けば、依子は再び泣きそうになりながら「わかってるよそんなこと……」とうつむく。
理屈じゃどうしようもないのが恋愛だということは、悠季もよく知っている。モラルや立場などのしがらみを振り切ってでも優先したいという強い感情があれば、どんなことだって起こり得る。
依子もそうだったのだろう。
彼女自身の感情か、それとも藤代や伊藤の感情か。その大きな波に飲み込まれた結果、岸に打ちつけられて震えているというところだろうか。
「どっちかを選べばいいのは分かってるけど、どうしても選べないの。藤代さんも伊藤君もそれぞれに良いところがあるし、比べても優劣がつけられない」
二人とも手放したくないなんて、最低。
そう言いながら依子は両手で顔を覆った。泣いてはいないようだが、もれる溜息は相当に深い。
これは結構思いつめてるな、とこれまでの付き合いから悠季は察することができた。同時に自分の行動が遅きに失したことを感じる。
もっと早い段階で話を聞けたら、依子の心持ちもまた違ったかもしれない。悩みをためればためるほどに思考が内向きになるのは、依子の癖だった。
これは何とかしないといけない。
一人で深みにはまってしまっている依子を引き上げなくては。
そのためには、どうしたらいいだろうか。
「大丈夫だよ、依子。そんなに思いつめなくても。別に藤代もよっちゃんも、依子を苦しめたくて好きだって言ってるわけじゃないんだから。どんとかまえて、選んでやればいいんだよ」
「……どうすれば、どっちかを選べるの」
「一緒にいて楽しい方」
「どっちも楽しい」
「安らげる方」
「……どっちもわかんない」
「身体の相性が良い方」
「……」
最後の項目は、依子には刺激が強かったらしい。瞬時に耳まで赤くなって「わ、わかんない……」と呟く。二人と一夜を過ごすなんて豪胆なことをしてのけておいて、恥ずかしがるなんて。おかしな子と悠季は小さく笑って「そこも比べといたら良いよ。男の価値のひとつだから」と冗談を言った。
そしてその後はできるかぎり依子の話を聞き、悠季はいつも以上の親しみをこめて相槌を打った。問題の根本は解決していないが、話したことで少し落ち着いたのか依子の表情はいくぶんか晴れていた。
それに安堵して新宿駅で別れた後、悠季は改札脇で立ち止まった。ホームに向かう前にひとつすることがある。そして思案顔のまま、悠季は携帯電話を取り出した。
◆
携帯電話が鳴っているのに気付いた時、伊藤はきっと依子から返事がきたのだと思った。水曜日に送ったメールの返事が、土曜日の今になっても返ってこない。正直言って、とても心配していた。さっきだって『何かありましたか?』という内容のメールを送ろうか、それとも電話をかけようか散々悩んだばかりだ。
だから、携帯の長い鳴動が着信であることを暗に示した時、返事が遅くなったから電話をくれたんだと思った。喜びいさんでそれを取りに行けば、示されているのは『松本悠季』という名前。伊藤は一気に肩を落とす。
「……伊藤です」
落胆が声に出ないように気をつけながら電話をとれば、賑やかな雑音を背景に悠季の少々ハスキーな声が聞こえてくる。
「あ、よっちゃん? 今あたし依子に会ってきたんだけど」
まずここで伊藤の思考に『?』が生まれた。
悠季が依子と会う? 彼女の実家でだろうか。一緒に帰省するという話も、悠季が遊びにくる予定だということも聞いていない。
「今びっくりしてるでしょ」
「……蓮見さんの実家にいるんですか?」
「ぶぶー。新宿です」
「は?」
けらけらと笑う悠季の声がいつになく耳につく。まるで馬鹿にされているような気がして、伊藤の声は知らず低くなった。
「どういうことですか。蓮見さんは帰省しているはずでしょう」
「してないよ。夏休みは夏休みだけど、ずっとこっちにいる」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
今週はずっと実家でのんびりすると微笑んでいた依子の顔が浮かんではじける。あれは嘘だったのか……。
「なんでか分かる?」
伊藤の思考を邪魔するかのように、悠季の声が耳に響く。そう言えば電話をしていたんだったと思い出して、伊藤は「わかりません」と答えた。
実際、依子が自分に嘘をつく理由がわからない。
が、しばらくしてひとつの可能性にいきついて、おそるおそる口にする。
「……もしかして、あの人と会うためですか」
「あの人って藤代のこと? 違う違う。藤代も依子は帰省してるって思ってるはずだよ」
「……じゃあ、なんでですか」
最悪の可能性をつぶされてホッとしたのは良いが、疑問は消えない。悠季は伊藤の問いには答えるつもりがないのか、「ねぇよっちゃん」と話題を変えることを示唆した。
「よっちゃんは、依子のこと好きなんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ何で大事にしないの?」
「……大事にしてるつもりですけど」
「本当に大事だったら、依子の気持ちが追い付くまで待っててあげるのが男ってもんじゃない?」
ああそういうことか、と伊藤は思う。
悠季はおそらく依子から二人の最近の関係について聞いたのだろう。そして、伊藤が依子を抱いたことを、悠季は非難したいのだ。それによって依子が傷ついたと遠まわしに伝えてきている。
「……蓮見さんは傷ついてましたか」
「そうは言わなかった。でも悩んでる」
そして悠季は唐突に電話を切った。別れの挨拶も何もない、ぶった切りだった。
伊藤はしばらく携帯電話を眺めていたが、とても折り返す気になれず、それをベッドに放り投げた。
伊藤が依子を意識するきっかけとなった感情は、彼女を救いたいという思いだった。
会社の先輩に片思いをしていると告げた時の彼女は、苦しさをひた隠しにしようと努力していた。そんなふうに無理をして恋をして、何が幸せだろうかと思った。だから救いたかった。
それはいつしか親愛から恋慕の情に変わり、気付けば彼女を手に入れたくなっていた。
だから告白もしたし、試して欲しいと訴え、その延長線上で彼女の身体も欲した。
一緒に過ごす時間の中で、彼女が笑う程、優しくされる程、自分に向けられる淡い想いを感じていた。それはうぬぼれではないと信じたい。だからこそ彼女は自分に身体を預けてくれたのだと考えていた。
彼女は今、何を悩んでいるのだろう。
今すぐ電話をして、声を聞きたい。
部屋へと会いに行って、顔を見たい。
けれど、それはしてはならないことだと理性が訴える。大事にしたいと思うならば、彼女の嘘を守らなくてはならない。
伊藤は静かに息を吐いた。震える吐息は、そのまま自分の困惑をあらわしている。
自分に会いたくないならば、正直にそう言ってくれた方が良かった。
嘘をつかれることのつらさを、この日伊藤は初めて知った。




