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ここからは【伊藤編】のもう一つのアナザーストーリーです。
第2章終わりで本編から分岐した形なので、伊藤編24話の続きとして読んでいただくと話がつながります。
こちらの原案は竹野きひめ様からのものです。
依子と伊藤と藤代の関係が、本編とはまるで違う方向に走ります!
自分では考えつかない展開を出していただき、竹野さまには本当に感謝です♪
※今回は早田視点となっていますが、この章では各話で視点が変わることをご了承ください。
夏という季節は、ランナーにとっては試練の時である。日中ずっと続く暑さと日差しの強さに、いつも以上に気を配って走らなくてはならないからだ。
元々面倒くさがりの気質を持つ早田は、夏の練習が嫌いだった。
水分補給と紫外線ばかりを気にして走るくらいなら、室内プールでも行った方が百倍ましだ。事実、現役時代はそう言ってはサークルの練習への出席率も悪かった。
だから最初伊藤を飲みに誘った時に「走ろう」と言われた時は、携帯電話の画面を見ながら露骨に顔をしかめてしまった。飲みに誘っただけなのに何故走るのだ。嫌だ、面倒くさい。その思いをそのまま返事にのせれば、伊藤からはこう返ってくる。
『じゃあ夜に軽く走った後、飲みに行こう。日が暮れれば楽だろ』
「……めげないねぇ」
早田は苦笑する。そしてふと大学時代のことを思い出した。
そう言えば、伊藤は何かに悩むと必ず走っていた。サークル練習が終わってからも一人黙々と走る姿を何度も見たのは、同じゼミの彼女と別れることを決める直前のことだった。
もしかしたら今も何かに悩んでいるのかもしれない。
だとしたら、現在の彼の想い人に関することとしか考えられない。
むくむくと好奇心がわきおこり、早田は『しょうがないなー。じゃあそれで』と、渋々伊藤の案に乗る振りをした。その時にはもう、面倒くさいなどという考えは消えていた。
伊藤と会う日は、お盆の週の水曜日になった。水曜日は元々休みのことが多く、その週も例外ではない。仕事が終わった後の伊藤と待ち合わせて、原宿にあるランステへ。二人で五キロほどを走って、再び着替えて居酒屋へ。大学時代によく行っていた沖縄料理屋は、平日ということもあってすぐに席に案内してもらえた。
独特のテンポとメロディーの沖縄民謡が流れる店内は、夏らしい活気に満ちている。シーサー柄のかりゆしを着た店員に、まずは地ビールを頼む。そして乾杯してすぐに早田は伊藤に聞いてみることにした。
「で? よっちゃん、どうしたの?」
再びワイシャツを着て、いささか暑苦しい伊藤は「どうしたって、何がだ?」と不思議そうに言った。
自覚がないのが、早田には意外だった。
今日の伊藤は、いつもの伊藤ではなかった。走るペースが若干遅かったし、普段よりもフォームがおざなりだった。きびきびした手の振りは鳴りをひそめ、指先まで神経を注いでいないのが、隣で走っていてもわかるほどだった。彼にしては珍しく、走りながら別のことに思考がとらわれているんだろうなとぼんやり早田は感じたものだ。
「今日、走り方変だったでしょ。足も動いてない感じだったし」
「仕事帰りだからだろう」
「いや違うね。あれでしょ。蓮見さん絡みでしょ」
ずばりと指摘すれば、伊藤はビールを飲む手を止めて早田を見返した。眉根を寄せて不機嫌そうな表情になっているところを見ると、図星だったらしい。
わかりやすいんだから、と早田は苦笑して「進展あったの?」と重ねて聞いた。
「ない」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない」
憮然と返す伊藤に、もうちょっと酒が入らないと口を割らないなと早田は察する。そうなれば、飲ませるだけだ。
海ぶどうをつまみながら、早田は伊藤の表情を観察した。伊藤をよく知らない人間は彼をポーカーフェイスだと言うことが多いが、それは違う。伊藤はかなりわかりやすい部類に入るタイプである。感情に合わせて細かく動く表情に、長年の付き合いで早田は気付けるようになってきた。
今、伊藤はビールを飲みながら、憂い顔をしている。
少しだけ眉が下がっているところを見ると、あまり本人にとっては望ましくない状況なのかもしれない。浮かれている時の伊藤ならば、口角がわずかに上がっているはずだから。
「お前はどうなんだ」
早田の不躾な視線に耐えきれなくなったのか、伊藤が逆に早田に質問してきた。挑まれるような目つきをされても、早田は慣れたものである。にこりと笑ってみせると「現状維持だよ」と返す。
「悠季さん、ガード硬いんだもん。相変わらずの飲み友達」
「そうか」
伊藤はそれ以上のコメントを控えた。フォローも何もないのが彼らしい。まだ早いかもしれないけど……と思いながら、早田は一石を投じることにした。
「悠季さんも蓮見さんみたいに素直だったら良いのになぁ。そしたらもっと簡単に落とせると思うんだけど」
さぁ、どう出る。
面白がる視線を受けて、伊藤はわかりやすく赤面した。恥ずかしがっているわけではなく、彼の中で瞬時に怒りのメーターが振り切れたのだ。
きたきた、内心ほくそ笑みながら早田は伊藤の言葉を待つ。
「……蓮見さんを侮辱するな」
ほんと扱いやすい。
早田は表情を崩さないまま「だってそうでしょ」と更に伊藤に追い打ちをかける。
「蓮見さんて押しに弱そうだから、ちょっと頑張ったら流されてくれそうじゃん」
「違う! 蓮見さんは優しいだけだ! だから俺の……」
ボリュームは控えめだったが、叫ぶようなヒリヒリした声で伊藤が言う。早田をにらみつけ、そこでらんらんと輝かせた早田の目を見るなり、はっとした表情になった。
「俺の? 何? よっちゃん、俺の、なに?」
にこにこと聞いてみれば、今度は伊藤はもう一方の意味で赤面して、顔を背けた。
「言うか! 俺をはめたな!」
もう気付いちゃった。あっと言う間に我に返っちゃうんだからと早田は少しだけ不満を持つ。スイッチでもあるかのように、伊藤はこうやって感情的になってもすぐに頭を切り替えて冷静になってしまう。もっと暴走すれば面白いのにと常々思う。
「はめてないよ~。よっちゃんが勝手に怒っただけでしょ」
「それはお前が蓮見さんを……」
「だって本当のことでしょ。優しい人って相手に合わせるじゃん。蓮見さんだって、そういう性格だから職場の人につかまってるんでしょ」
伊藤の目の色が変わった。
すっと薄く細められ、そして開いた目には、どこか諦観した色がにじむ。
言い返されると思ったのに、伊藤からの反応はなかった。無表情にも近いそれのままで、ビールを飲み干す。それを見て、早田の背にはひやりと冷たい感覚が走った。
もしかしたら、自分は相当大きな地雷を踏んだのかもしれない。
そう思えば思うほどに、目の前の伊藤が抱える負の何かがふくらんで見えるようで、お調子者を自覚している早田と言えど、その日はそれ以上は突っ込むことはできなかった。
伊藤義人という男は、良くも悪くも損得勘定で決断をする。
自分がとる行動によって起こることを徹底的に予測し、メリットとデメリットを分析する。そして最善と思われる行動を選ぶ。
堅実と言えば聞こえはいいが、つまらないと早田は思っていた。
だから、彼が『将来性のなさ』を理由に『好きだという気持ち』をないがしろにしてゼミの彼女と別れた時には、他人の恋路ながら憤りを感じたものだ。
この冷血漢、と心の中で何度叫んだか分からない。
そのこともあったから、伊藤が蓮見依子に想いを向けた時には少し驚いた。
別の人間に想いをよせる女性を選ぶなんて、伊藤らしくないと思った。
その理由を聞けば『自分が無理せず自分らしくいられるから』というありきたりな返事だったが、それにしたって不思議だった。
伊藤と原宿駅で別れてから、早田は何となく悠季に電話をかけた。夜も更けていたから、おそらく彼女は帰宅しているだろう。お盆も仕事だよと以前飲んでいた時に文句を言っていた顔を思い出す。
「……もしもし」
数コールで悠季は電話に出た。普段より声が低い。しくじったかなぁと一瞬思ったが、もうどうしようもない。気を取り直して、早田はわざと明るく声をあげた。
「あ、こんばんは。急にすみません」
「別にいいけど。どうしたの」
「いきなりな話ですけど、悠季さん、蓮見さんからよっちゃんの話って聞いてます?」
「よっちゃんのこと? 特にきいてないけど……なんで?」
「やー、今日よっちゃんに会って、なんか思いつめてる感じがあるというか……蓮見さんと何かあったのかなって思ったんですよね。それが気になっちゃって」
早田の言葉に、悠季は沈黙を落とした。思い当たることがあるのかないのか、その間からは感じ取ることはできない。
気にしないでくださいと明るく伝えようとしたところで、悠季が答えた。
「じゃあ、あたしからも依子にちょっと聞いてみるよ」
その声は力強く、頼もしい半面、早田に一瞬だけ不安を抱かせた。水面に変化を起こす一滴を落としたことになったのかもしれないと、ぼんやり思った。




