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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章 ふたつの情動の終着点 【伊藤編】
46/54

29(伊藤編end)

 頭が重い。目蓋まぶたが重い。目を開けたくない。

 しかし外は明るく、枕元の携帯電話は何度も鳴っている。

 誰からだろう。

 ……そうだ、これはきっと伊藤からだ。

 そう気付いた途端、依子の意識は覚醒した。

 がばりと起き上がり、携帯電話をつかむ。


「ごめん伊藤君! 今起きました!」


 電話をとってすぐに依子は叫んだ。叫んだと言っても寝起きの声なのでたかが知れている。かなりかすれていると一瞬遅れて自覚すれば、顔が少し熱くなった。


「あ……おはようございます」


 遠くから、戸惑ったような伊藤の声が聞こえてくる。確認すれば、時刻は十時十分。待ち合わせ時刻から十分過ぎたところだった。


「本当にごめんなさい!」


 今日は伊藤と池袋にある水族館に行く予定だった。遅刻なんてものじゃない。今伊藤は入口にて一人依子を待っているのだと思うと、血の気が引いた。


「俺は大丈夫です。蓮見さんは今から来れそうですか?」

「あ……うん……」


 言いかけて、依子は首を振った。


「……いや、ごめん。ちょっと体調悪いから、キャンセルさせてもらっても良い? 本当にごめんね。この埋め合わせは絶対するから」


 頭が痛い。目蓋が重く、視界が半分程しかない。そして何より、気力がない。

 依子はベッドの上でうなだれた体勢のまま、伊藤の反応を待った。


「……わかりました」


 平坦な声での返答では、彼がどう思っているかを読みとれない。怒っているのか、ガッカリしているのか、悲しんでいるのか、それとも気にしていないのか。何もわからないまま、依子は何度も謝った後で電話を切った。


 そして再びベッドに倒れ込む。

 これで良かったのだろうか。伊藤は傷ついていないだろうか。……よくわからない。

 鈍い頭痛が深く考えることを放棄させる。

 そもそも昨晩、自分がどうやってベッドまで行ったのかも覚えていない。ただ記憶にあるのは、藤代の儚い笑みと自分がひどく泣いていたことだけだった。







 とりあえずシャワーを浴びようと洗面所に行けば、ちょうど香織が化粧をしているところだった。


「あ、おはよう依ちゃん。ごめん、今終わるから」


 鏡越しに目を合わせた後、がたがたと化粧道具をしまいだす香織に、依子はゆったりと笑った。


「いいよいいよ。わたし別に急いでないから」

「でも、伊藤さんと会うでしょ?」

「……ううん。今日はキャンセルしてもらった」

「なんで?」


 最後にマスカラをポーチにしまって、香織は依子を振り向いた。その拍子に依子は鏡で自分の顔を確認する。そして苦笑しながら、自分の目を指さした。


「だってすごい顔してるし」


 一晩中泣いた代償として、目蓋はひどく腫れていた。あれだけ泣けばこうなるよなぁと自嘲気味に思う。


「そんなの伊藤さん気にしないよ」

「伊藤君は良くてもわたしはやだよ。……それにさ、ちょっと落ち着きたいというか、心を鎮めたいというか……」


 依子の言葉に、香織は押し黙った。

 昨晩の様子をそばで見ていた香織だから、藤代との決別が依子にとって相当大きな喪失だったことを感じていないわけがない。香織は依子の気持ちを推し量るように気遣う視線を向けた後、「そっか」と声を落とした。


「……依ちゃん、後悔してないよね?」


 香織の問いは、核心をついていた。依子は内心で鋭いなぁと思いながら、うなずいてみせる。


「大丈夫。してないよ。……でも今日は伊藤君には会えない」


 きっぱりと言ったので、香織もそれ以上は何も言わなかった。香織が立ち去った後の洗面所で、もう一度自分の顔を鏡に映す。

 腫れぼったい目だから、会いたくないわけじゃない。

 藤代の面影を追いかけている自分が消えるまで、少しの猶予が欲しかった。

 






 その後しばらくして、香織はいつも通り圭吾とのデートに出かけて行った。浅草に行くと言っていたので、人形焼きをお土産にリクエストすれば、香織は少し嬉しそうに親指をたてて出かけて行った。

 それからは、依子は家事の鬼となった。

 家事当番の週ではなかったが、洗濯をして、掃除機をかける。夏の終わりとは言えまだまだ日差しも強いので、布団も干した。トイレや風呂場など水回りの掃除もした。

 一連の作業が終われば、時間はとっくにお昼を過ぎている。

 何か作ろうにも冷蔵庫が空だったので、依子は外で食べることにした。目の腫れはまだ多少残っていたが、外を歩けないほどではない。

 駅前のカフェでランチをとり、帰りにスーパーで食材を買う。そうして帰ってくれば、家のドアの前に誰かが寄りかかっていた。


 細身のすらりとした立ち姿には、もちろん覚えがある。

 まさか、と思ったが、陽炎かげろうのわけがない。

 会いたかった。でも会いたくなかった。

 じわりとにじむ涙を閉じ込めて、波打つ胸を必死で落ち着かせ、依子は伊藤に近づいた。伊藤は依子がドアの前までやってきたところで、軽く会釈をして依子に向かい合った。


「急にすみません。香織さんに呼ばれたんです」

「香織に?」


 依子が首をかしげると、伊藤はうなずき「蓮見さんがひどい状態だから来て欲しいって……」と教えてくれた。


「ひどい状態って……香織、伊藤君に何を言ったの?」


 伊藤はその問いには答えなかった。その代わりに、依子の手からスーパーの袋を奪うと、彼女の顔をのぞきこんだ。


「……泣いたんですか?」


 とっさには答えられず、依子は伊藤の視線から逃れるようにうつむく。


「……とりあえず、中で話そうか」


 そう言えば、伊藤も「はい」と答える。今回は部屋へ入ることを遠慮する気はないらしい。時間帯のせいなのか、関係性の変化なのか。どちらだろうとぼんやり考えながら、依子は玄関の鍵を開けた。







 伊藤はお土産にマドレーヌを買ってきてくれた。アイスコーヒーをいれて、それとともに出す。伊藤にはソファをすすめ、依子はその向かいにクッションを敷いて座った。伊藤は最初は恐縮していたが、いいからいいからと言えばあきらめたようで、ソファに浅く腰かけている。


「……わざわざ心配して来てくれたの?」

「そうです。……昨日何があったんですか? 俺に関係することだって聞きました」


 香織め。

 依子はまずそれを思った。

 彼女が依子を心配して伊藤に連絡したのは分かるが、そっとしておいて欲しかった。


「そうだね……」


 依子は言いながら、時間稼ぎのためにマドレーヌを口に入れた。オレンジの爽やかな甘さが口内に広がる。夏らしい爽やかな甘みに、ほっと胸が温まった。


「あの人に、何かされたんですか?」


 重ねられる質問に、依子は一度伊藤に視線を向けた。伊藤は真剣な表情で依子を見ている。

 心配してもらっていることが、嬉しくも苦しい。依子は再びうつむいて、首を横に振った。


「何もされてないよ。……したのは、わたしの方」


 そう、依子が藤代に引導を渡したのだ。藤代は何もしていない。彼は潔いほどに大人だった。最後まで依子を優しく包み、そして離したのだ。

 依子は伊藤を見つめた。視界の向こうの伊藤がぼやけて揺れている。伊藤の視線もそれを受けて、少し揺れた。

 

「……伊藤君を好きになったって言ったの」


 静かに告げた言葉は、伊藤にとって驚くべき内容だったらしい。目を見開き、ぽかんと口を開けたまま静止している。アイスコーヒーをつかんだ手すらそのままで、平素であれば少し笑ってしまっただろう姿だった。


「本当ですか……」


 茫然と呟く伊藤は、信じられないといった表情である。そんな伊藤に、依子は微笑みかけようとした。本当だよ、と言いたかった。

 しかし、口からもれたのは嗚咽だった。

 一瞬で蘇ったのは別れ際の藤代の表情で、それが目の前の伊藤の表情に重なる。

 何故、と思う暇もなく依子は両手で顔を覆った。まずいと心で警鐘が鳴り、あわててテーブルの上のティッシュをとった。しかしそれ一枚で抑えるには、涙の量が多かった。

 続けて何枚もティッシュをつかんで目頭にあてながら、依子はとぎれとぎれに言った。


「ごめん、急に……。……昨日、言ったの……藤代さんにごめんなさいって……」


 そうしている間に伊藤は静かに依子のそばにやってきた。ふわりと空気が動き、ついで温かい腕が自分にまわされる。


「……それで泣いたんですね」


 腕の中で依子は小さくうなずいた。

 伊藤は何も言わなかった。抱きしめる腕の力は柔らかく、彼が自分に遠慮しているように感じられて依子は不安になる。

 腕の中で、他の男を想って泣いている。そんな自分を見て、伊藤は何を感じるのだろうか。

 早く涙を止めなければと、思えば思うほどに止まらない。焦りに支配されはじめた依子に、伊藤の優しい声が響いた。


「……無理しないでください」


 そう言われてしまうと、涙の止めようがない。

 伊藤の優しさに甘えて、依子は昨晩のように大きく泣いた。

 どうしてこんなに、と自分で思うほどに、涙は枯れることなくあふれてくる。

 その間、伊藤はずっと依子を抱きしめていた。時に背中をさすり、時にティッシュをくれて、依子が落ち着くまでそれを繰り返す。

 ようやく嗚咽がしゃっくりに変わり、涙も止まって落ち着いてきた頃、伊藤はぽつりとつぶやいた。


「……蓮見さんは、本当にあの人を好きだったんですね」


 その諦めがにじむ声音に、依子ははっと顔を上げた。見れば伊藤は微笑んでいるが、そこに寂しさが浮かんでいる。それは昨晩の藤代を彷彿とさせる笑みで、彼が誤解を受けていることを瞬時に悟った。

 伊藤はきっと、依子が藤代を振ったことを後悔して泣いていると思っているのだ。


「違う! 違うの!」


 依子は大きくかぶりを振って、伊藤に抱きついた。両手を背中にまわしてきつく抱き締めれば、伊藤が戸惑い依子を呼ぶ声が聞こえる。


「伊藤君が好きなの……。確かに藤代さんのことをすごく好きだったけど……だけど……それでも、伊藤君が好きだって……ようやくわかったの」


 藤代との別れが身をちぎられるような辛さを伴ったのは事実である。

 けれど、それでも伊藤を選ぶと決めたのは自分だ。

 この腕に包まれるために、一緒に笑い合うために、藤代の手を離した。

 どうすれば伝えられるのだろう。

 藤代ではなく、伊藤が好きなのだと。

 不安にも恐れにも似た激情に突き動かされ、依子は必死で「好き」と繰り返した。


「お願い、信じて……本当に、伊藤君を……」


 言いかけているところで、不意に肩をつかまれ、向かい合わされる。伊藤の顔が突然目の前にあり、あわてて目を閉じたのと同時に唇が合わさった。それは、依子の言葉の全てを飲みこむほどの荒々しいものだった。

 思えば伊藤はいつだって優しくて、前にホテルに行った時も、たとえ激しくなったとしても優しかった。

 こんなふうに嵐のような口づけは、伊藤のイメージにはない。

 しばらくして唇が離れた時の、伊藤の荒い吐息も初めて聞いた。そう思った途端にまた強く抱きしめられる。


「信じるに決まってます」


 伊藤は深く息をつき、腕の力を強めた。締め付けられる強さに、彼の想いが感じられる。自分の気持ちが伝わったことに依子は安堵し、手に力をこめた。


「……好きです。俺と付き合ってください」


 伊藤の低い声が耳から全身に巡り、身体と心を満たす。依子は「はい」とうなずいた。


「これから宜しくお願いします」


 そう伝えれば、伊藤は少し身体を離した。視線の先には、嬉しそうに笑う伊藤の顔がある。その笑顔に心が満たされ、愛しさがこみあげる。

 依子はそっとその頬に触れて微笑んだ。


「好き。本当に、好き」


 伊藤は返事の代わりにキスをした。触れるだけの柔らかなキスは、二人の始まりにふさわしい軽やかさに満ちている。


「ありがとうございます。俺も好きです」


 そう言い微笑む伊藤の手に、自分の手を重ねて軽く握る。この手を選んだのだ、と実感をこめて指をからませれば、伊藤からも同じだけの力が返ってきた。

これで【伊藤編】は終了です。


ただ、ようやくスタートラインに立っただけの二人なので、もしかしたらその後の話を書くかもしれません。

でもその前に、伊藤編の半ばから分岐する別ルートの話かな……。


とにもかくにも、本編を終了させることができてほっとしています。

読んでくださった皆様には本当に感謝の気持ちしかありません。

本当にありがとうございました!

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