その十
ぼくは当面の生活費を工面するためにかつて中古で購った車を手放すことにした。最後の洗車を終えて運転をしていると、突然の天球に見舞われた。晴れているのに土砂降りに近い。日差しによる暑いという感覚とは裏腹な雨水を受け容れられなかった。どうしても曇り空でないことが、何かに反比例しているような気がするのだ。先刻洗車したばかりということもあるだろう。でもそれだけではない。一足す一が二になっていないような感じさえある。
それはこの病気も同じだった。病気で随分と大切なものを失った。得たものなんておそらく何もない。病気が原因なのか、ただ単に自分の弱さなのか、今もぼく自身わからずにいた。気付いた時にはこの様だった。車が隧道に入るように、電車や新幹線がそこを潜るように、全速力で走っているのに景色が一向に変わらない。出口がないのだ。
ほんの少しつまずいただけだった。ほんの少しのはずだった。でも負ったのは大怪我だった。全部、心の話だ。心に背負ったものは、目に見えない。だから助けてくれる人もいない。目に見えないから、気付かれないから、理由を挙げればいくらかある。家族や周囲に理解されないだろうこの病は、ぼくをどんどん孤立させ、葬られて行くようだった。
ならばいっそ、唯一生を教えてくれた菱形の宝も葬ってしまおう。すべてを想い出にしてしまえば楽だ。閉じ込めてしまえば、そのままの色褪せない記憶でいられるのだから。変化を見なくて済むのだから。ぼくが一番見たくない変化は、自分自身のそれだろう。そして、その堕落は宝物を失ったことと重なる。変わって行く様を受け容れられないのなら、いっそ消すのだ。離れるのだ。
変化を見ないことは弱さなのだろうか。どこからが弱さで、どこからが強さなのだろうか。それこそ表裏一体なのではないだろうか。若いうちの苦労は買ってでもしろというが、どこからが苦労でどこからが安楽なのか。買ってでもした苦労の先に安楽はあるのだろうか。ただの幻想で終わるのだろうか。この苦しみは一体何であるのか。神でさえも答えは持ち合わせていないだろう。
「ねー、ヘブモンって知ってる?」
「知らなーい。何それ。なんかのキャラクター?」
「違うよ。颯斗が昔やってたヴィジュアル系バンドだよ」
「あっ、聞いたことある。颯斗って確か元々はギタリストだったんだよね。何で解散しちゃったんだろうね」
「噂では確かヴォーカルが、じ––––」
その瞬間、ぼくは急いでイヤホンを付けて耳を塞ぎ、足早に席を立った。その続きは聞きたくなかった。頭がおかしくなりそうだ。記憶から消そうとしたはずの出来事をこうして自分ではない誰かの声によって思い出させられる。何気なく入ったファストフード店でもだ。
おちおち息を吐ける場所さえないのか。もういっそ瑠衣のところへ行ってしまいたいと思った。イヤホンから流れる曲を邪魔して閉店を知らせる音が間隙から入り込んで来る。それが不協和音となって脳内に響き渡り、気分が悪くなりそうだ。塞ぐようにイヤホンの音量を上げながら店を後にした。
何かを振り切るように歩き続けたぼくは、気付くとどこか知らない場所にいた。何なんだ、自分の人生は。一体何なんだ。やり切れない思いを発散しようと白亜の壁を前に拳を握り締めた。血塗れになる拳と血に染まる壁を想像しながら、右拳を渾身の力で叩き付けようとした瞬間だった。
「ヘブモンの曲、練習しとけよ! 約束だぞ」
不意に颯斗の声が聞こえた気がした。
〝あぁ、そうか。右手が使えなくなったら、ベースも弾けなくなるのか〟
思い止まったぼくは壁に左肘を付き、顔を埋めた。握り締めた右拳の向きを変えて、代わりに小指外転筋を数度ぶつけて叩いた。畜生、畜生、畜生––––。
それから気の抜けたようにとぼとぼ歩き、時間をかけてアパートに帰った。やはりヘブモンの記憶は一切消してしまおう。これが唯一施せる救済方法であり、ひとつの結末だった。ヘブモンの音を聴くのはこれで最後にしよう。もう二度と蕾が開花することはない。暗い部屋の中でぼくは再びイヤホンを繋ぎ、流れる轟音に目を閉じた。どこの誰ともわからない女の声も、分かり合えなかった父親の怒声も、聞きたくない不快な雑音も、すべて遮断するように。
〝颯斗との約束を叶えることはないだろう〟
自分の心をそう確かめながらぼくは先刻壁に叩き付けようとして止まった無傷の拳を見つめ、終演の儀式を終えた。この時最後に聞いたREMEMBERはぼくの耳の奥深くへと浸透し、どうやら置き土産を置いて行ったらしい。
爾来、ぼくの左耳は妙な音が鳴るようになった。気付くと左からの耳鳴りが止まらない。FAXの受信音のような高音でキーンとした音が鳴り続いている。ライブハウスの後の耳キンにも近い状態だった。夜の静寂の中では特にひどく、ストレスが増した。一方でバンド活動をしていた頃の記憶を鮮明に思い出させた。忘れようとして行った儀式だったにも関わらず、耳鳴りによって慢性的にその行為を意思とは裏腹に遮られている。
「ただの耳鳴りでしょうか。それとも脳に何か異常があるのでしょうか、ネットでそういう可能性も有り得ると目にしたのですが」
「脳の心配はありません。恐らく音響外傷でしょう」
「音響––––外傷?」
「はい。先程、爆音で音楽を聴いてから、と仰っていましたね」
「えぇ」
「それが原因だと思います」
音響外傷。初めて聞く言葉だった。医者が言うには発症直後ならもっと効果的な薬を出せたが、時間が経っているので、神経を和らげて症状の緩和を目指す薬の処方になるとのことだった。確かに病院に来たのは症状が出てからしばらく経ってからだった。
ただの耳キンだと思っていたので、ここまで長引くとも思っていなかった。ましてや病名が付くだなんて微塵も思わなかった。聴力検査を行った時、初めて難聴の危険性も含意するものだと知ったが、聴力に影響はなかった。
処方された薬はトリノシン顆粒一〇%、メバミコラチン錠五〇〇μg「SW」〇.五mgのふたつだった。血液の循環をよくするもので、耳の神経の緩和を目的とするらしい。能書きにも目を通したが、薬がどこでどう効くかなど素人にはわからないし、この際治れば何でもよかった。医者が言うには副作用は特にないらしい。
この時、ぼくは薬に対してなぜか強迫性障害の時とは違う捉え方ができていることに初めて気付いた。月日の流れなのか、薬に対する抵抗がそこまでなかった。
ふと窓外に雨が降っていた。雨の音は厄介なはずだった。然りとて、今だけはこの音が嫌ではない。むしろ都合がいい。雨音が耳鳴りを消してくれ、余計な音を聞かずに済んだからだ。音響外傷を患ってから初めて雨音に救われた気がした。
「ヘブンズモンスターって、何だそれ。どういう意味?」
「直訳すると天国の怪獣、だよな?」
「うん。天に召されたロックスターたちって、きっと天国でも怪獣の如くロックし続けていると思うんだ。雲のずっと上から、その時の機嫌によって晴れだったり、雨を降らせたり、雷だったり雪だったり、曇らせたりしながらさ」
「なるほど、そんなロックスターたちに現世の俺たちの音を届けようってわけだな」
バンド名を決める時にした会話を思い出して微笑った。やっぱり、忘れることなんて出来るはずがない。
薬の効果は特に見られないが、昼間は大して気にならない。翻って夜になり、就中就寝しようとすると露骨に鳴っている。ぼくはふと思った。すべての音が遮断されたら、ロックをどう表現するのだろうか。記憶の中の擬音だけが頼りなのだろうか。もうロックを表現する必要もないのに、そんなことを考えてしまう。仮にそうなっても、頭の中で瑠衣の歌声も、自分たちの演奏も鳴り響いてしまうのだろう。でも、この耳鳴りが止む頃にはきっと––––。




