10 積み上げられた砂の城、崩れ落ちる白の砂
アスール貝というものがある。暖かい季節の砂浜で稀に取れる貝だ。希少価値はないが、暗闇で青く幻想的に光る事から恋人に贈る男性が多い。セレディナを守る結界石が青なのに合わせて、「貴方を守ります」といった意味を込めるのである。
「セオっ」
急いでこちらに駆け寄ってくる彼女を見て、セオドリークは頬を緩める。どうやら今回は何事もなく合流出来たようだ。いつもこうだったら良いのに、と考えつつ自身も待ち合わせ場所の噴水を離れ彼女との距離を縮める。
「うう……ごめんなさい、またわたしの方が遅かったのです」
「いえ、たまたま私の方が早かっただけですよ。それにお師匠さま、まだ待ち合わせの時間前です」
正確に言うなら、丁度三分前だった。恐らく彼女はセオドリークを待たせないようにと五分、もしくは十分前行動を心がけていたのだろうけど、叶っていない辺りが実に彼女らしい。なんて口に出そうものなら落ち込ませてしまうのは目に見えているので思うのみに留め、彼女が持っていた袋を受け取る。息を整えていたエイレンティアはやや遅れて気付き、「あっ!」と抗議の声を上げはしたものの、セオドリークは微笑み返すだけだった。
「あ、ありがとうです。セオ」
「はい」
空いている方の手で繋ぎ、彼女の歩幅に合わせて歩き出す。いつセオドリークに話しかけようか虎視眈々とチャンスを狙っていた女性達は、残念そうに散っていった。エイレンティアとセオドリークは二人だけの世界を作っており、とてもではないが声をかけられる雰囲気にはなかったからだ。
一ヶ月に一度の買い物の日。今日も二人は、普段通りだった。
「今年はアスール貝の輝きが例年より増しているそうですよ。街中その話題でもちきりです」
「わあっ、そうなのです?」
「よろしければ見に行きませんか。お師匠さま、そういったものお好きでしょう?」
「はいっ好きです!」
屈託なく笑って答えるエイレンティアに、その言葉を自分に向けてくれないだろうか、とセオドリークの心中に芽生える。意味合いさえ考えなければ、望みはすぐにでも叶うのだと知っていた。しかし、彼女が言う好きはセオドリークが求めているものとは違う。自分が彼女に恋焦がれているように、彼女にもそうであってほしい。彼女の隣にいるのは未来永劫自分一人でいい。――――これ以上を願う自分は、或いはひどく我侭なのかもしれなかったけれど。
「すっごく楽しみですっ」
「私もです、お師匠さま」
それでもどうしようもない。簡単に捨てられる想いならば、始めから抱きはしなかった。
赤と青の二つの月が淡く照らす中、ざあざあと波の音が響く。わざわざ辺境の地を選んでいるのもあって周囲には人影もなく、エイレンティアは子供のようにはしゃぎながら砂浜を踏んだ。その度、彼女のポニーテールも揺れる。
「夜の海も素敵ですねっ」
「そうですね、今日は月も星もよく出ていますし」
やや間を空けてエイレンティアの後ろを歩くセオドリークは、柔らかな眼差しで彼女を見つめる。他のどんなものよりも、彼女の方が眩しく輝いていた。どんなに美しいものも、彼女を引き立てる飾りでしかない。
「このへんでいいでしょうか? セオもおいでっ」
にっこにこと上機嫌で手招きするエイレンティアは、無邪気な子供そのものだ。きっと友達を誘っているようなものなんでしょうねえ、と苦々しい気持ちを覚えてしまう。悟られないよう注意して、彼女の傍に座り込む。セオドリークもエイレンティアも汚れてもいい軽装で訪れたため、服を気にかける必要はなかった。
「そういえば、セオがちっちゃかった頃にも海に遊びに来ましたね」
エイレンティアは砂を掘り起こして貝を探しながら、懐かしそうに零す。
「覚えておりますよ、お師匠さま」
彼女との大切な思い出を、セオドリークが忘れるわけもない。彼女と同じ行動を取りつつ、記憶を探った。
「子供が家に篭りっぱなしは良くないと、連れて来てくださったんでしたよね」
あれは確か、セオドリークが七歳の時だ。彼女との暮らしにも慣れてきた頃だった。エイレンティアは用がない限り外には出ようとしなかったため、必然的にセオドリークもそうなり、その状況に気付いたエイレンティアが「このままじゃよくないのです!」と慌ててセオドリークを連れ出したのである。他にも花畑巡りや流行りの舞台を見に行ったりもした。しかし人が多いところは当時二人揃って向かなかったせいで内容が頭に入って来ず、最終的には劇の題材になった小説を買い、家で読んでもらったのも振り返ればいい思い出の一つだ。
「でも、もっと早く気付いていればよかったのです。わたしが小さい頃はずっと家にいるように言われて絵を描いたりしてたから、それが普通なんだと思ってて……他の人は違うなんて知らなくて」
「私は家にいるのも好きでしたよ。貴方と一緒ならどこでもよかったんです」
場所は関係なかった。彼女と一緒にいられるなら、それだけで充分だった。あの頃はまだ、今よりも穏やかで優しい気持ちだったけれど。
「むう……」
「お師匠さま?」
不満げに漏らしたエイレンティアに、セオドリークは思わず聞き返す。引っかかるような事を言ったつもりはなかった。
「セオは、わたしにもっと怒るべきなのです!」
「私がお師匠さまに? 何故ですか?」
……怒られそうな事ならいくつかありますが。過去に自分がした事はこの際棚に上げ、彼女に尋ねる。
「セオにはセオの自由があるのです。それはわたしが奪っていいものじゃない。なのに主張出来なくしてしまったのは、わたしの落ち度なのです……」
俯いてしまった彼女を見て、やはり責任感の強い人なのだとセオドリークは改めて実感する。何の力もない、死にかけた子供なんて放っておけばよかった。帰る場所がないと駄々をこねても突き放して孤児院にでも預ければよかった。彼女の名を使えば、容易に行えたはずだ。だが彼女はどちらも選ばなかった。快く引き取って、実の息子のように弟のように深い愛情を注いでくれた。そして、今も。――まるでそれ以外の感情は知らないとでもいう風に、どこか頑なに。
「お師匠さま、私は……」
自分の人生も全ての幸福も貴方の隣にあるのだと、隣にしかないのだと、どうやったら何も傷つけずに伝えられるのだろうか。誰に強制されるでもなく自分で道を選択したのだと、どうしたら信じてくれるのだろうか。ぐるぐると思案していると、きら、と光るものが視界に入った。
「……お師匠さま、手をお貸しください」
「う? こうです?」
不思議そうに差し出された右手に、見つけたばかりのそれを握らせる。
「あ、これ……」
彼女がじっと見つめて確かめている隙に簡単な魔法をかければ、ぽつりぽつりと青い光が二人の周りに浮かび上がっていく。小さな青はやがて他の色を飲み込み、満天の星の下、蝶々が舞うかのように、透き通った海の中、魚が踊るかのように、安らぎで包まれた空間を作り出す。
「わあ……!」
「周囲にある貝全ての光を集めてみました。本来アスール貝の光は仄かなものですので、少し増幅させてはいますが」
「すごいすごいっ! セオの瞳とおんなじ色できれい!」
エイレンティアは大喜びで視線をあちこちにやりながら、指でつついたりして遊ぶ。その姿はなんとも可愛らしく、何時間眺めていたって飽きはしないだろう。あっさりと放れた言葉がどれほどセオドリークを惹きつけるのか、彼女は知らぬまま。
「あの時も、そう仰っていましたね」
「あのとき?」
「私の瞳の色と似て綺麗だと、お師匠さまはそう言って貝をくださいました。褒めてもらえたようで、私には堪らなく嬉しい贈り物だったんですよ」
ですからお返しです、と付け加える。彼女はきょとん、とした顔をして、しばらくして思い出したのか「ああっ!」と納得がいったように声を上げた。
「思い出して頂けましたか?」
「はいっ。あ、ち、ちがうのですっ! 忘れてたわけじゃないのです!」
「いえ、いいんですよ。随分と前の話ですしね」
エイレンティアとセオドリークは長い間共に暮らしている。師弟として、家族として、慈しみ合いながら日々を重ねてきた。その現状にエイレンティアが安心しているのも、心の拠り所にしているのも、セオドリークは痛いほどに分かっている。関係性が変化すれば、ぎりぎりのラインでかろうじて「自分」を保っている彼女を修復不可能なまでに壊しかねない事も――――
「ティア」
一呼吸置いて、セオドリークは彼女の名を呼ぶ。ざあ、と波の音が一際大きく響いた。
「貴方を守ります。この貝に誓って」
心から愛しているのだと、本当は伝えたい。けれどまだ早い。彼女達と未来を生きるためには、まだ。
ぱちん、と指を鳴らして光を消す。すうっと戻ってくる暗闇は、現実を知らせるかのようだった。普段と異なるセオドリークの雰囲気に飲まれてしまったのかぼうっと見つめ返していたエイレンティアも、我に返ったように口を開く。
「わ、わたしもっ。わたしもセオを守るのです!」
「有難うございます、お師匠さま」
「ぜ、絶対なのです。……絶対に、守ります」
低く囁く彼女の顔は、真剣だった。その表情はどちらかといえばもう一人の彼女が作るものに近く、セオドリークは戸惑いを覚える。……見間違い、だろうか。それとも一瞬だけ彼女が外に出たのか。いや、間違いなく基本人格のエイレンティアだったはずだ。考え込んでいる間にエイレンティアはぱっと空気を変え、先程までと変わりない楽しそうな笑みを見せた。
「セオっ。砂のお城つくりましょう!」
「え? あ、はい」
「魔法は使っちゃだめですよ。手で作るのです」
「はい、お師匠さま」
漠然とした違和感を残しつつも、彼女に付き合って砂を盛っていく。途中エイレンティアの不注意で崩してしまう箇所もあったが、セオドリークがしっかりとフォローし、立派な城を作り上げていった。
「ねえ、セオ」
「何でしょう?」
「彼女は……こういった遊びはするのでしょうか?」
この場合の「彼女」は交代人格の女性を指しているのだろう。とすぐに見当はついたが、しかしセオドリークは返答に悩んだ。交代人格の彼女は、基本人格が自分を意識せずに日常を送る事を望んでいる。恐らく今も起きて聞いているし、自分について語られるのを良しとはしないはずだ。
「そうですね……もしこの場にいらっしゃったらきっと、参加されてはいないと思いますよ」
だが敢えて、セオドリークはごまかさなかった。
「そうなのです? こういう子供っぽいのは嫌なのでしょうか」
「いえ嫌いというよりは、単純に苦手なんだと思います。縁がないといいますか……慣れていらっしゃらないようなので」
「ふむふむっ」
今頃眉を顰めているんでしょうねえ、と彼女の姿を思い浮かべる。余計な事を話すな、と怒っているかもしれない。分かってはいても、話題を変える事はしなかった。もう一人の自分を知りたい、と願う気持ちも尊重されるべきものだと思ったからだ。
「参加はされないかもしれませんが、見守ってはくださると思いますよ」
「わあ、なんだかお母さんみたいなのです! 落ち着いた人なのですねっ」
「落ち着いた……そうですね」
お母さん。予想外の単語に、零れ落ちそうになる笑いを堪える。これは後でお小言を食らうのは間違いないな、とセオドリークはこっそり覚悟した。
「でもどうして、彼女と話せないのかなあ……」
小さく呟かれた一言には、彼女の切実な想いが込められていた。エイレンティアは自分の中にもう一人いるのだと気付いてはいても、はっきり認識出来ているわけではない。やり取りも出来ないでいれば、交代人格に代わっている間彼女が何をしているのかもほとんど知らずにいる。交代人格の彼女が接触を避けているせいもあるのだろう。が、それを正直に告げるのは躊躇われた。
「お師匠さま……」
「あっ、あった!」
嬉しそうに声を張り上げ、丁寧に掘り起こす。満面の笑みでセオドリークに手渡した。
「さっきのお返しなのですっ」
彼女の言動の一つ一つがどれほどセオドリークを揺さぶるのか、彼女は知らない。愛おしさは日々募っていく。
「有難うございます、大切にしますね」
「はいっ。わたしも大切にします!」
◇◇◇
「できたっ」
しばらくして出来上がったのは、一種の芸術と言っても差し支えないほど精巧に作られた砂の城だった。屋根や窓、城門に積み上げられた岩まで、細部に拘って作りこまれている。エイレンティアもセオドリークも手先が器用であり、加えてエイレンティアは芸術的センスに恵まれた故の結果だ。
「お疲れ様です、お師匠さま」
「セオもお疲れさまなのですっ。これ、崩れちゃうのもったいないですね……」
「形を保たせましょうか?」
「ううん。いいのです。波が来るのは当たり前のことなのですよ」
ね、と笑いかけた後立ち上がり、靴を脱いで海の中に入っていく。
「わっつめたい!」
「お師匠さま、深いところへは行かないでくださいね」
「わかってます。わたし、泳げませんもん……」
彼女はセオドリークに背を向けてはいたが、頬を膨らませて拗ねているのだろうとは容易に想像がついた。
「昔はセオも泳げなかったのにっ」
「泳ぐ環境になかったですしね。お師匠さまも練習さえすれば大丈夫だと思いますよ」
「……ほんとに? しずまなくなる?」
「はい。それにいざとなれば浮き具がありますよ」
腕や腰に巻きつける事で浮かぶ事が出来る、水よりも軽い特別な水晶玉だ。それなりの値段はするものの、念のためにとセオドリークも一つ所持している。
「慰めになってません~~……」
「そうですか? そんなつもりはなかったのですが」
「ぬうう……セオわらってるううっ」
うわーん! と涙目になりながら、ばしゃばしゃと音を立て奥へ進んでいくエイレンティア。勿論、危なくはない深さまでだ。楽しげに眺めていたセオドリークは、彼女を追って自身も海に入った。
「どうか機嫌を直してください、お師匠さま」
「いいんです、どうせわたしはカナヅチですもん……」
「人には誰しも欠点があるものですよ」
「わたしセオの欠点なんてしりませんっ」
「攻撃魔法が全くといっていいほど使えませんよ? 他の魔法を使用しなければ、身を守れるかも怪しいレベルです」
「あ……でもセオには剣があるのです」
「それですよ、お師匠さま」
うん? と首を傾げた彼女の前に回り込み目線を合わせる。
「出来ない事があるのなら、出来る事で補えばいいんです。自分では無理なら、別の誰かでもいい。ですから、貴方が溺れたら……いえ、そうなる前に必ず私が助けます」
諭す風な物言いが、途中で誓いに変わる。エイレンティアはぱちぱちと瞬きを繰り返して、次には控えめに微笑んだ。
「ありがとう、セオ」
幸せを噛み締めるような、どこか泣きそうな、そんな笑顔だった。
「はい、どういたしまして。後少し遊んでいきましょうか」
「うんっ」
水を掛け合って、波がきたら逃げて。どこにでもいる普通の青年と少女のように、二人は久しぶりの海を満喫した。彼女は無理にはしゃいでいる気がしてならなかったが、言及はしなかった。触れられたくないと訴えられている気がして、セオドリークに聞けるはずもなかったのだ。
帰る頃には砂の城は波にさらわれ、完全に崩れ落ちてしまっていた。三人の記憶の中にだけ、形を残して。