プロローグ
わたしは、あの日を一生涯忘れないだろう。わたしの運命が大きく動いた日。あの日の出会いがなければ、今のわたしはいなかった。
***
真っ白な光が視界を覆った。目を閉じて、もう一度開くと、普段と変わらない書庫の風景。わたしが落とした一冊の本が、床に転がっている。
周囲をキョロキョロ見回すと曲がり角に置かれている、鏡の中の自分と目が合った。お母様とお揃いの赤色の髪と、お父様の紫の瞳の、いつも通りのわたしの顔だ。
『おーい!!』
突然、わたしの頭に大きな声が響き渡った。聞き覚えのない、男の人の声だ。周囲に人影はない。
「ど、どちら様ですの!? 姿が見えないのですが!」
『姿が? 俺は目の前にいるけど?』
「わたしの前には鏡しかありませんわよ!?」
『え!? だって、確かに目の前に小さな女の子、が……』
声が不自然に途切れた。何事かと耳を澄ましていたら、震えた声で再び話しかけてくる。
『……俺の目の前にあるのも鏡だね。で、さっきから身体の自由が利かないんだけど、ちょっと片手を挙げてみてくれる?』
言われた通りに右手を挙げてみると絶望そのもののような声でこう告げられた。
『右手が勝手に挙がった……。確認だけど、君が挙げたの、右手だよね??』
「は、はい」
『……どうやら俺は、君の中にいるみたい。身体は君が動かしてるから俺は動けないし、視界がチカチカ点滅してるのはまばたき、かな?』
言葉の意味が理解できない。だって、わたしの身体はわたしの身体で、他の人がいるなんてあり得ない。
「知らない殿方がいるなんて嫌ですわ! 早く出ていってください!」
『そう言われても俺だってわけがわからないんだ! そもそも俺は……』
「お嬢様? どなたとお話になっているんですか?」
耳から入ってくる声。当たり前なのに、さっきまで頭で聞いていたから驚いてしまう。
「な、なんでもないの!」
慌ててそう言って、落とした本をそのままに、メイドの横をすり抜ける。
「お嬢様!?」
声を振り切って全力で走る。廊下を曲がって、階段を下って、扉を抜けて、気付けば中庭まで来ていた。
『止まってくれ! 酔う!』
声が頭に響いて、意識が体から引きはがされるような感覚に襲われた。わたしの足が不自然にピタリと止まる。しかし、上半身の勢いは急に止まらない。バランスが崩れて、身体が傾く。
「うわっ」
泥水に頭から突っ込んだ。ドレスが茶色に染まる。すぐに立ち上がりたいのに、なぜか腕を動かせない。
『何ですか!?』
大声で叫ぼうとしたのに、口が開かない。代わりに、頭にわたしの声が響いた。
「痛た……。もしかして、今は俺の方が身体動かしてるのか? なんか、思ったように動くんだけど」
『わたしは逆に全く動けませんよ。話をしているのに、口を動かすことすらできません!』
睨みつけるつもりで言ってみる。目はやっぱり動かない。
「ごめんな、入れ替わると思ってなかった。えーっと、とりあえず、入れ替わっておかしなところとかないか?」
『身体を動かせないことそのものがおかしいですわ! 昨日までこんなことありませんでした!』
「はは、そりゃそうだな。まあ、そんなこと言えるなら平気……か?」
『本気で言っているのですが!?』
早くわたしの身体を返してほしい。けれど、心配してくれるような相手に文句を言うのは失礼だ。そんなことをマナーの授業で言われた気がする。……あれ? だから心配を装った嫌味に同じように返す話だったかもしれない。
でも、やっぱり心から心配してくる人に文句を言うのは失礼だと思う。
『……あなたは、大丈夫なのですか?』
少しむくれて言ってしまったが、彼は気にしていないように軽く返してくる。
「ん? ああ、心配ありがとな。俺は3D酔いしただけだ。自分の意志とは無関係に視界ぶん回されたからな」
『すりー……?』
言葉の意味はよくわからないけれど、「酔い」ということはお酒だろうか? わたしが言葉を尋ねる前に、彼が再び話し出した。
「えっと、急に動いてびっくりしただけだから大丈夫だ。……で、これはどうしたらいい?」
ドレスを摘まむ指先が視界に入った。自分の意志とは無関係に見せつけられるドレスは泥にまみれていた。お気に入りのものだったのに、泣きたくても涙すら流れない。
『あ、メイドに頼めば! ……いいえ、こんなに汚れたものは捨てられてしまいますね』
うっかりジュースをこぼしてしまったドレスも、新しいものを買うからと捨てられてしまった。このドレスも母の耳に入れば捨てられてしまう。
「うーん、泥汚れって乾かせば取りやすくなるって聞くけど……ドライヤーとかないのか?」
『どらい……というのはわかりませんが、乾かすなら魔法ではいけませんか?』
「魔法? 魔法があるのか?」
『はい! わたしが使えるのは【炎】ですから、乾かせると思います! ただ、わたしは身体を動かせないので……』
「まさか、俺が……?」
わたしは無理だからやってもらうしかない。芝生を焼くくらいの低威力ならわたしも初めての時に使ったから、平気だと思う。
『えっと、わたしが唱える呪文を復唱してください。簡単な魔法は呪文と適性で使えます! 多分!』
「ああ、うん。わかった」
これは、わたしが初めて魔法の先生に習った魔法。だから、きっと大丈夫。
『【フレア】』
「……フレア」
何も起きない。わたしがやったときはすぐに赤い魔法陣が出てきて炎が使えたのだけど……。あの時と同じようにやったはずなのに、なぜだろう?
「なあ、もしかして魔法って一人一属性しか使えないタイプか?」
『……? 当然ですわ。生まれるずっと前から使える属性は一つに決まっているのです!』
「使える属性は遺伝か?」
『その言葉の意味はわかりませんけど、魔法は魂に結びつきますの。昔に教わりました』
そう伝えると、彼は深いため息をついた。わたしはなにかいけないことを言ってしまった? 聞かれたことを頑張って理解して答えたつもりだけど……。
「なるほどな……そりゃ使えないわけだ。炎の魔法は君の適性で、俺のじゃない」
『えっと? どういうことですか?』
「簡単に言うと、俺らは同じ体にいるだけの別人だから適性が違うってこと。俺に適性のある魔法なら使えるってことだよな? まあ、俺にも何かの適性あるのかなんてわからないけど。とりあえず、他の属性の呪文も教えてくれ」
『……ごめんなさい。わたしも炎以外の呪文は知らないです』
「あーまあ、気にしなくていいよ。呪文は英語っぽいし、数打ちゃ当たるだろ。えっと、思いつくのは……ウォーター、サンダー、ロック、【ウィンド】」
彼が唱えた瞬間、足元の芝が宙に巻き上がった。顔にも直撃して、少し目が痛い。
「俺は【風】の適性があるってことか……。あ、一応ドレスは乾いたぞ。これで叩き落として洗えばきれいになるだろ」
泥がカピカピに乾いて剥がれ落ちている。こんなものが本当に戻るのだろうか。ただぐちゃぐちゃにしただけじゃ……。
「……そこに誰かいるのかい?」
庭の植木の向こう側から声が聞こえてきた。わたしは、そのお顔を拝見した瞬間に言葉を失った。彼はわたしと同じ年ごろでありながら、民からも深く慕われている、この国の王太子殿下。太陽の加護を受けたかのように輝く金の髪と、澄み渡る空のような碧い瞳。背後には雨上がりの虹がかかっていて、神々しささえ感じさせられる。殿下を初めて見た日、わたしは恋に落ちた。
きっと覚えていらっしゃらないと思うけれど、わたしが落としてしまったリボンを拾うために殿下はパレード中の馬車から降りてきてくださった。その時の優しい表情を、今でもわたしは忘れられない。
……わたしが王太子殿下と話せる機会なんて、ほとんどない。それを取られるなんて嫌だ。絶対にわたしが自分で挨拶したい。……何かに意識を押されるような、不思議な感覚がした。
「お初にお目にかかります、王太子殿下。ネフェルティーナ公爵家の長女、ジュリエッタ・ネフェルティーナと申します」
身体が思ったように動いて、礼儀作法で習った通りの綺麗なカーテシーができた。口から出たのも、わたしが思う通りの口上だ。
「挨拶ありがとう、ネフェルティーナ嬢。しかし、僕は君と一度パレードで出会っているのだが、忘れてしまったかな?」
「で、殿下も覚えていらっしゃるのですか……?」
「勿論。僕は今まで出会った全ての人のことを覚えているよ」
そう微笑まれて、顔が熱くなった。見えないけれど、きっと真っ赤になっている。
「失礼、挨拶を返していなかったね。僕はセイラン・ヴィルフォードだ。改めてよろしく」
胸に手をあてて礼をする姿すら様になっている。その姿をぼんやりと眺めていると、殿下はもう一度声をかけてくれた。
「そういえば、ネフェルティーナ嬢はここで何をしていたんだい?」
その言葉に現状を思い出して、熱を持っていた頬から今度は血の気が引いていく。うつむいて、泥まみれのドレスを見た。あまりの恥ずかしさに涙が滲む。殿下はわたしの視線を辿ってしまっていて、もう全てがばれてしまったと思う。
「【クリーン】」
その証拠とでもいうように、殿下が魔法を使った。きっと、あまりにも汚いから見たくもなかったのだ。
展開されているのは金色の魔法陣……【光】属性の魔法だ。とても希少で、国内でも片手で数えるほどしか使い手がいない属性。
「で、殿下?」
「レディに失礼なことを聞いてしまってすまなかった。口に出しにくいことだっただろう。この魔法は僕からの詫びとして受け取ってくれ」
殿下は怒っていなかった。そもそもはわたしが原因なのに、自分が悪いと言ってくれた。その上、処理に困っていると察して助けてくれたのだ。やはり、殿下は素晴らしい方だと思う。
「ところで、君に質問があるのだけど少しいいかな?」
「な、なんでしょうか!? 王太子殿下!」
「君は勉学が好きかい?」
……勉学? 大嫌いだけど、でも、殿下はきっと好きだ。好きに決まっている。だからわたしは、嘘をついてしまった。
「はい、好きです」
「そうか、君はとても勤勉なんだね。では、もう一つ質問だ。十本の薔薇がある。色は赤、白、桃。赤は半分より多く、白は偶数、桃は素数。それぞれ何本か。あ、各一本以上はあるからね」
……全くわからない。こんな難問、わかる人いるのだろうか。というか、素数って何だろう?
『赤が六、白と桃は二本ずつだな』
「赤が六本と白、桃が二本ずつ……?」
答えたわけじゃない。なんでそうなるのか尋ねようとしていた。けれど、口から出た言葉は殿下の耳に届く。
「正解だよ。君は本当に頭が良いのだね」
「あの、殿下! 今のは……」
「試してしまってすまない」
「……え?」
「実は僕が推薦する妃候補の選定でね、最低基準を満たす年齢と家柄のレディを訪ねていた。全てのレディに良さはあったが、これから国のために必要になるのは知性だと、僕は思っている。君には是非とも推薦を受けてもらいたい」
これは提案の形をとっているけれど、断れない。本当は自分の実力がいいけれど、わたしは回答してしまった。わたしの答えではないといっても、信じてもらえないと思う。
何より、殿下のお隣にいられる可能性があるのなら。
「謹んでお受けさせていただけますわ、殿下」
わたしの返事を聞いて、殿下は帰って行った。
……それからすぐ、上機嫌な両親がわたしをお父様の書斎へと呼び出した。その口から語られる内容は一つしかない。
「やったじゃないか、ジュリ!」
「これで将来は心配ないわね!」
胸がチクチクする。わたしは、突然現れた男の助言で推薦を手に入れた。もし、明日には自分一人になっていたら。水の中にいるかのように、外の声が遠くなっていく。
「……失礼いたしますわ」
「あ、ああ。殿下と急に出会って疲れただろう。しっかり休め」
限界。だけど、せっかく選ばれた妃候補の名前を汚したくない。きれいなお辞儀を両親にして、背筋を伸ばして廊下を歩いた。
自室にたどり着いてすぐ、ドレッサーの前に座った。別に鏡の中にいるわけではないけど、ちゃんと目を見て話をしたい。
「ねえ。貴方は、いつまでいるの?」
『……わからない。ただ、今日明日で消えたりはしないと思う。俺も何が何だかだし、ただの感覚でしかないけど』
今すぐにはいなくならない。昼間は怖いだけだったのに、今はむしろその言葉で安堵した。最低だと思うけど、でも、わたしには今、この人の助力が必要だ。
「わたしのなかに、長くいても構いません。その代わり、わたしが妃になるために手を貸してください」
『いやいや、今日のことは答えを教えちゃった俺も悪いけどさ、そういうのは自分で……』
「わかっています。いずれは一人でできるようになります。……でも、妃候補は選ばれるだけで名誉なことで、王宮で教育を受け、多額の褒賞金を授かる立場です。期待外れなことはできません。両親を、何より殿下を失望させたくないです! だから、わたしがあなたに追いつくまで、手を貸してください! お願いします!」
『なるほどね。うーん、まあ、確かに長期間離れられずに暮らすなら利害関係でもなんでも円満に限るか……。良いよ、協力してあげる』
その返事を聞いて、鏡に向かって片手を突き出した。声に決意を込める。
「改めて、ジュリエッタ・ネフェルティーナですわ。親しいものはジュリと呼びます。……よろしくお願いいたします」
『俺のことはユズキと呼んでくれ。……よろしく』
こうして、わたし達の共同生活が始まった。三日月が、窓の外で静かに浮かぶ夜のことだった。
***
『ジュリ、どうしたんだ? 手が止まってる』
『少し、昔を思い出していましたの。それと、もう課題は終わっていますから心配不要ですわ。今は自習中です』
この八年で、わたしはずいぶんと変わった。あの日はユズキと会話をするたびに声に出していたのに、今は頭の中だけで完結できる。それは八年経ってもユズキと離れられなかったということでもあるけど。
『それと、もう寝る時間だぞ。睡眠不足は素肌の大敵らしいからな』
『ユズキの知識は本当にどこから来ていますの?』
文句を言いながらも、わたしは布団にもぐりこんだ。明日はいよいよ、殿下の誕生を祝う誕生祭。きっと、わたしの運命も動き出す。




