第1話 琥珀の森の霧
――十二星神教神話・断章
はじめに無があり、静けさのみがあった。
主神セラハに導かれし星理の神々は、果てなき闇へ星々を浮かべ、天と地へ灯と秩序を配した。
海は命を運ぶ道となり、山は大地を支える礎となった。
風は季節を巡らせ、その恵みを受けた草木と獣が、星明かりの下へ広がっていった。
星理の神々は、そこを『星の座』と名づけた。
祈りと灯を載せ、幾つもの大陸と海、数え切れぬ命を抱く世界そのもの。
そのすべてが、星の座だった。
されど、深き暗霧に棲まう神々は、光を欲した。
暗霧の神々が星々を啜るたび、天の灯は失われ、命の巡りは乱れた。
彼らは偽りの命を持つ霧の先兵を幾万と生み出し、星の座を覆い尽くそうとした。
対して星理の神々は、自らの姿を模した最初の人々を創造した。
かくして、星理の神々と暗霧の神々との、長き戦いが始まった。
幾つもの星が墜ち、海が割れ、大地が霧へ沈んだ。
長い戦いの果て、暗霧の神々は星の座の底へ封じられた。
されど、その力が完全に失われることはなかった。
暗霧の神々が遺した呪いは、今も世界の底から溢れ続けている。
それは大地と命を穢し、星の座を再び深い霧の底へ引きずり込もうとしていた。
星理の神々は、世界を霧の上へ留めるため、星の座の底へ一つの神器を据えた。
神器は絶えず光を巡らせ、幾つもの大陸と海、そこに生きるすべての命を載せた星の座を、今も支え続けている。
世界が今も、深い霧の上に在り続けるように。
* * *
陽は西へ傾き、森の緑が琥珀色を含みはじめていた。
葉の縁に残った雫が、斜めに差す光の筋を横切るたび、星屑のように細かく煌めく。
草むらには長い影が幾重にも重なり、梢を渡る風は昼よりひんやりと、湿った土と青葉の匂いに夜の気配を一摘み混ぜて運んでいた。
踏み慣らされていない獣道は細く、足を下ろすたびに柔らかな土がわずかに沈む。
背の高いシダが肩をかすめ、白い苔に覆われた倒木の上を、夕陽がぬるりと滑っていった。
ここは、冒険者の町アルテナから程近い琥珀の森。
町の者や冒険者が薬草や茸を採りに入ることもあるが、奥へ進むほど人の気配は薄くなる。
その細い獣道を、二人の少女が歩いていた。
先を行く赤髪の少女が、腰の二振りの剣を揺らしながら、道を塞ぐ枝を片手で持ち上げる。緩やかなウェーブの髪をサイドでまとめ、振り返るたびにふわりと揺れた。
ぱっちりとした赤い瞳が光をよく拾い、表情がくるくる変わる。
「キサラ、足元気をつけてね。そこ、ちょっと滑るから」
「分かってるわ。フレアこそ、よそ見してたら枝に頭をぶつけるわよ」
後ろを歩く少女は、青い魔女帽子のつばを押さえ、露出した木の根を慎重にまたいだ。
まっすぐな金髪が肩を流れ、夕陽を淡く弾く。
杖の先で足元の草をよけながら、猫のような切れ長の金色の瞳を、道の両側へ巡らせていた。
先を歩く少女の名は、フレア・アーシュリー。
アルテナ冒険者ギルドに所属する、双剣使いの冒険者だった。
その後ろを歩く魔導士の少女は、キサラ・ブランシュ。
冒険者として登録はしていないが、薬草や魔法薬に関する豊富な知識を持ち、魔術の扱いにも長けている。
フレアは道の端に群生する茸を見つけると、その場にしゃがみ込んだ。
灰がかった青い笠を指の腹でそっと支え、周囲の土を崩さないよう、根元から丁寧に捻って外す。
笠の裏に並ぶ細かなひだに傷がないか確かめ、香りを嗅いでから、腰のポーチに収めた。
「……よし。依頼のアーケインマッシュは、これで足りるかな〜。今日、けっこう採れたし」
ポーチを持ち上げると、十分な重みが手に返ってくる。
少し離れた場所で、キサラが細長い葉を一枚ずつ確かめていた。
「こっちも、ミカヅキソウの葉は必要な分が揃ったわ。森の奥の群生地まで来られてよかった」
採った葉を布で包み、鞄に丁寧にしまう。
「やっぱり奥地に入るなら、冒険者さんについていくに限るわね」
「それって、護衛ってこと?」
フレアは立ち上がり、腰に両手を当てた。
「むぅ〜……なんかアタシ、冒険者としてタダ働きさせられてない?」
「帰ったら、採った薬草で疲労止めを作ってあげてもいいわよ」
「えっ、ほんと?」
「割引価格で」
「いや、お金とるの!?」
フレアは頬を膨らませた。
けれどすぐに小さく笑って、肩をすくめる。
「まあ、ついてくるのがキサラなら別にいいけどさ」
「はいはい、ありがと」
キサラは素っ気なく答えたが、その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
フレアが再び歩き出そうとした、その時だった。
森を抜けていた風が、ふっと止んだ。
梢のざわめきが消え、遠くの鳥の声も、虫の羽音も、何かを恐れるように途絶える。
「……あれ?」
フレアは足を止めた。
頬に触れる空気が、一段と冷たい。土と青葉の匂いに混じって、湿った鉄のような臭いが鼻の奥をかすめた。
先ほどまでの笑みが、フレアの顔から消える。
「……キサラ」
「ええ」
キサラも杖を構え、金色の瞳で周囲を見渡した。
「霧が来るわ」
獣道の先、低い茂みの下から、黒ずんだ霧が滲み出していた。
風に流される霧とは違う。粘つくように地面を這い、草の間を縫いながら、ゆっくりとこちらへ広がってくる。
その奥で、何かが動いた。
四本の脚を持つ、大型の獣。
狼に似た輪郭をしているが、黒い体表は絶えず形を揺らしている。
皮膚と毛の隙間から霧が溢れ、地面に落ちる前にまた身体へ吸い込まれていく。
歪んだ頭がもたげられ、二つの目が、霧の中で赤く光った。
「……ヴェノム」
フレアは腰に手を回し、二振りの剣の柄を握った。
神話の時代、暗霧の神々が生んだ霧の先兵とは違う。
神々が封じられた後も地上に残った霧の呪いに、人や獣、草木が蝕まれ、元の姿を失ったもの。
それが、ヴェノムと呼ばれる魔物だった。
その身体の奥から、赤い光が幾筋も伸びている。
脚から胴へ。胴から首へ。
脈打つように明滅する光の流れは、黒い霧に隠されているはずの身体の動きまで、フレアの目に鮮明に映し出していた。
そして赤い線は、目の前の一体だけではない。
右手の茂み、そのさらに奥にも、同じ光が潜んでいる。
「正面に一体。右の奥に、もう一体いる」
キサラがわずかに目を見開いた。
茂みに目を凝らしても、彼女には二体目の姿までは見えない。
「見えるの?」
「うん。霧の中を流れてる魔力が、赤い線みたいに見えるの」
フレアにも、その理由は分からなかった。幼い頃から、ほかの人には見えないものが見えることがあった。
土地に溜まった霧。ヴェノムの身体を巡る魔力。
そして、その奥で脈打つ核。
今も黒い霧の向こうで、濁った光が小さく鼓動している。
「キサラ。アタシが前に出る。魔装をお願い」
「分かったわ。二体目にも気をつけて」
キサラが杖を掲げ、短い詠唱に入ろうとした、その瞬間。
正面のヴェノムが、大きく地面を蹴った。
湿った土が跳ね上がる。
巨体からは想像できない速さで、黒い獣が二人へ迫った。
「来る!」
フレアは二振りの剣を抜き放ち、獣の正面に踏み込んだ。
ヴェノムが大口を開ける。牙の間から、黒い霧が噴き出した。
噛みつきを横にかわし、すれ違いざまに右手の剣を振るう。首筋へ刃が走った。
鈍い手応えが腕に返る。
ヴェノムを包む霧が重なり合って分厚い膜となり、刃を阻んでいた。
斬った跡も、溢れた霧がすぐに覆い隠していく。
「やっぱり、普通に斬っただけじゃ浅い!」
獣が身体をひねり、太い前脚を振り上げた。
爪の軌道をなぞって、赤い線が鋭く走る。
フレアはその光を追い、身体を低く沈めた。
頭上を爪が通り過ぎ、風圧に髪が激しく揺れる。
「フレア! そのまま伏せてて!」
キサラの杖から、青白い雷が迸った。
乾いた破裂音とともに、雷がヴェノムの前脚を撃つ。
黒い霧が弾け、獣の体勢が崩れた。
「ナイス、キサラ! さっすが!」
「おしゃべりは後よ! 今度こそ魔装を完成させるから、時間を稼いで!」
「りょーかい!」
キサラが、再び詠唱に入る。
魔装は、術者が魔力を圧縮し、前衛の武器へ短い間だけ宿らせる戦闘技術だ。
術式の完成には数秒かかり、その間、術者は自分の身を守れない。
だから、前衛はその数秒を稼ぐ。
フレアはキサラを背に庇うように前へ立ち、間合いを詰めた。
斬りかかると見せて、直前で身体を外へ滑らせる。獣の視線がフレアを追った。
その隙に左の剣を前脚へ叩きつけ、すぐさま大きく後ろへ跳ぶ。
ヴェノムが低い咆哮を上げた。
怒りに応じるように、霧が大きく膨れ上がる。
その奥、腹部へ集まった赤い線が、一点へ収束していた。
濁った光が、脈を打つ。
「見つけた。核は腹の奥!」
フレアは地面を蹴った。
振り下ろされた爪とすれ違い、斜め下から獣の腹へ刃を突き込む。
分厚い真綿に刃を叩きつけたような、鈍い抵抗。霧の膜が重く絡みつき、深くは届かない。
それでも霧の流れが乱れ、獣の動きが一瞬止まった。
「今よ! 合わせて!」
キサラの術式が完成する。杖の先から、青白い糸が伸びた。
糸は空気を震わせながらフレアの右手へ吸い込まれ、握る剣の表面へ雷の筋を走らせる。
キィン、と空気の密度が変わった。刃の輪郭が薄く光り、柄から切っ先へ、規則的な脈動が駆け抜ける。
触れてもいないのに、フレアの髪がふわりと持ち上がった。
「魔装・雷光!」
金色の雷光が、刃の内側に一本の筋を通す。
「——行くよ!」
一歩。
踏み込んだ瞬間、刃が唸りを置き去りにした。
雷をまとった剣が、黒い霧の膜を裂き飛ばす。金色の光が、獣を覆う霧を内側から吹き払った。
黒い霧が四方へ散り、隠されていた腹部が露わになる。その奥で、赤黒い霊核が鼓動していた。
——だが、剣の上で激しく明滅する雷光は、すでに弱まり始めている。
「キサラ!」
フレアは左の剣で獣の牙を受け流し、身体を横へ滑らせた。
射線が開く。キサラの真正面に、剥き出しの核があった。
「雷の矢よ――」
杖先に光が集中する。
「――貫けッ!!」
杖先で束ねられた雷が、一本の矢となって空気を裂く。
青白い光が、露わになった霊核を正確に射抜いた。
獣の咆哮が、森を震わせる。
核に亀裂が走り、次の瞬間、甲高い音とともに砕け散った。
四肢が崩れ、地面に落ちる前に輪郭がほどけていく。黒い霧は宙に溶け、夕暮れの森に消えていった。
「一体目!」
フレアは体勢を立て直し、すぐさま右奥の茂みへ顔を向けた。
「キサラ、もう一体来る!」
黒い影が、茂みを突き破った。
二体目は、最初の個体より小さい。
その分、速かった。
地面すれすれを駆け抜け、フレアには目もくれず、その後方——キサラへ一直線に向かっていく。
「くっ……!」
キサラは杖を向けた。だが、直前に雷の矢を放ったばかりだ。
新たな術式を組み上げるには、時間が足りない。
フレアの剣に残っていた雷光が、細かな火花となって消えた。
(——間に合わない!)
キサラは杖を両手で構え、迫る爪を受け止めようとする。
「キサラ!!」
胸の奥で、何かが強く脈打った。
フレアの体が、そして瞳が、うっすらと赤く灯る。
その刹那、周囲の動きが、急激に引き延ばされた。
視界の端で、キサラの驚いた横顔が、切り絵みたいに静止している。
宙を舞う木の葉は空中で凍り、迫る黒い爪も、その隙間から溢れる霧も、水の中で足掻くように遅い。
赤い線の明滅さえ、間延びしていた。
熱が、全身を駆け巡る。
心臓が激しく脈打ち、脚に異常なほどの力が満ちた。
フレアは、その止まった世界の中を駆けた。
湿った土が、踏み込みの衝撃で弾ける。一歩で距離を潰し、キサラとヴェノムの間へ滑り込む。
赤い瞳は、霧の流れも、腹部に浮かぶ霊核も、それを幾重にも覆う呪いの層も、余さず捉えていた。
魔装は、もう消えている。
それでも、全身を巡る赤い力が、刃の先まで流れ込んでいくのを感じた。
その力に任せて、剣を振り抜く。
一閃。
刃は霧に触れ、そのまま抵抗ごと斬り裂いた。
剣閃が霧の層を裂き飛ばし、赤い線が弾け散る。
剥き出しになった霊核が、夕光を一滴だけ返して——両断された。
遅れていた世界が、一気に動きを取り戻す。
ヴェノムの身体は空中で上下に分かれ、キサラの手前へ届くことなく、黒い霧になって散っていった。
そこで、加速がふっと切れた。
足元が大きく揺れる。
「わっ……!」
着地に失敗し、フレアは湿った地面を派手に転がった。
「いったぁ〜い……!」
頭を押さえ、どうにか身体を起こそうとする。
その瞬間、急激な眩暈が襲い、視界が傾いた。
「うっ……」
「フレア!」
キサラが駆け寄り、倒れかけた身体を支える。
「大丈夫!?」
「うん……ちょっと、ふらついただけ……」
キサラはフレアの腕を肩に回し、ゆっくりと立たせた。
フレアの身体は、全力で走り続けた後のように熱を持ち、芯から力が抜けていた。
キサラは、ヴェノムのいた場所を振り返る。
彼女の目には、フレアの姿が一瞬、掻き消えたように見えていた。
次に捉えた時には、フレアはヴェノムの向こう側に立っていて、その直後に獣の身体が上下に分かれたのだ。
「今の力……やっぱり不思議ね」
キサラは肩を貸したまま、フレアの顔を覗き込む。
「一瞬、目が燃えるみたいに赤く光って……身体の周りにも、赤い光が走ってた」
眉が寄る。
「それに、魔装もなしに霧ごと斬るなんて。魔法だとしても、あんな動きは聞いたことがないわ。……なんなのかしら」
フレアは視線を落とし、真剣な顔で考え込んだ。
やがて顎に指を当て、ハッと何かに気づいたように顔を上げる。
「もしや……アタシが天才だか——」
「真面目に聞いてるんだけど」
キサラが、呆れたように睨んだ。
「あはは……ごめんってば」
フレアは困ったように笑う。
「前にも言ったけど、アタシにもよく分かんないんだよね。誰かを助けなきゃって思った時とか、気持ちがすっごく昂った時に、急に何もかもが遅く見えるの」
「周りが遅く?」
「うん。身体も勝手に動くっていうか、いつもよりずっと速く動けるっていうか……」
フレアは胸元に手を当てた。
鼓動は、まだ速い。
「でも、終わった後は毎回こんな感じ。身体中から、どっと力が抜けるんだよね」
「よく分からない力だけど……負担が大きすぎるみたいね」
キサラはフレアを支えたまま、周囲へ視線を向けた。
「何なのか分かるまでは、なるべく使わない方がいいわ」
「でも、使おうと思って使うわけでもないんだけどね〜……」
「……まぁ、それでも助かったわ。ありがとう」
「にひひ」
フレアは明るく笑うと、キサラの肩を借りたまま、ゆっくりと周囲に目と耳を配った。
さっきまで森にまとわりついていた黒い霧は、少しずつ薄れはじめている。湿った鉄の臭いも、風に剥がされるように遠のいていった。
鳥の声が、一本ずつ戻ってくる。
葉擦れは素の音だけになり、止まっていた森の時間が、再び流れ出した。
夕方の静けさが、地面に沈むように広がっていく。
フレアの目にも、もう赤い線は見えなかった。
「……今のところ、ほかの気配はないみたい」
フレアはキサラから身体を離し、自分の足で立った。まだ少しふらつくが、歩けないほどではない。
落としていた鞘を拾い、二振りの剣についた土を布で拭ってから、腰へ戻した。
「それにしても、こんなところにまでヴェノムが出るなんてね」
森の奥を振り返る。
琥珀の森は、アルテナからそれほど離れていない。
奥地とはいえ、薬草や茸を求めて、町の者や経験の浅い冒険者が入ることもある場所だった。
「急いでギルドに報告しないと。しばらく、この辺りに警報を出してもらった方がいいかも」
「そうね。霧が残っている可能性もあるし、調査もお願いした方がよさそうだわ」
空は、茜色から葡萄色へ、境目をにじませ始めていた。
木々の影が長く伸び、獣道の先に暗がりが広がっていく。
「歩ける?」
「いけるいける」
フレアは元気を示すように腕を上げた。
けれど次の一歩で身体が傾き、キサラが無言でその腕を掴む。
「……帰り道くらい、肩を貸してあげるわ」
「ありがと。あと、甘いもの食べたい〜」
「まずはギルドへの報告でしょ。冒険者さん?」
「ちぇ……こんな時ばっかりさぁ」
二人は肩を並べ、夕暮れの獣道を歩き出した。
細道の先には、アルテナを囲む石壁と、鉄の帯金を打った城門が見えている。
茜色に縁取られた城壁の向こうで、町の灯りが一つ、また一つと点りはじめていた。
森には、さっきまでの戦いが嘘のような静かな風が吹き抜け、葉先に残った雫は、もう光を失って、土の上へ音もなく落ちていった。




