深き孔の底で(4)
二人の少女は息をするのも忘れて壁一面に彫られたレリーフを見上げていた。
壁面の中央には所狭しと異形の怪物たちが彫られていた。おびただしい数の獣の姿をした魔物。手に禍々しい形の武器を持つ醜怪な姿の人型の魔物や巨人。翼の生えた獣や、空を飛び火を吐く竜。言葉では言い表せないような醜い姿の、見たこともない魔物も数多く彫られていた。
一方、壁面の端の方には逃げ惑う人間たちが彫られている。人間たちは竜の吐く火で焼かれたり、人型の魔物が持つ刺々しい形の槍の様な武器で串刺しにされたり、獣の姿の魔物に嚙み千切られたりと、様々な方法で魔物達に虐殺されていた。
「隣の壁も見てみよう」
サキの言葉にマリーは頷く。サキはマリーの手を引いて、右隣の壁へ走って行って壁を見上げた。
今度は先ほどと一変し、画面の中央には空から下りて来たと思われる人物が、人間に手を差し伸べている。背中に後光が指しているところを見ると、神なのだろう。壁面の端では異形の魔物たちが神の使いと思われる鎧を着込んだ者たちに圧倒されていた。
今度は声をかけることもなく、二人はもう一つ右隣の壁の前へ移動した。
これまでの中央と端で分かれている構図とは違い、今度の壁は左と右に構図が分かれていた。左側には、手に盾や剣、弓などを持った無数の人間たちが描かれている。中には巨大な甲冑を纏ったものもいた。それに対峙するように、右側にはおびただしい数の怪物たち。どうやら人間と魔物たちが戦っているらしい。
「戦争、してるのかな?」
尋ねるマリーにサキは頷く。
「うん、古代の戦争だろうね。おそらく神話に登場する秩序の神と混沌の魔神の戦いじゃないかな」
秩序の神と混沌の魔神の戦いは、神話として大陸全土に伝わっている。年端の行かぬ子供から老人まで、知らぬ者を探す方が難しいだろう。時代や地域によって、神話の中身は若干異なるのだが、神話が伝える神々の戦いは概ね次の様な内容だ。
かつて、混沌の神は人間たちを根絶やしにすることを企図した。彼が――あるいは彼女が、何故そうしようとしたのかは分からない。やむを得ない事情があったのかもしれないし、ただの気まぐれだったのかもしれない。神の考えを人間が理解するという事が、そもそも無理な話なのだという者もいる。いずれにせよ、混沌の神は人間を絶滅させるために、多くの異形の魔物たちを生み出した。人を襲い、その肉体を食らうためだけに生み出された、巨大な怪物たちである。
混沌の軍勢によって人間たちは瞬く間にその数を半減させるに至った。そのころは魔動鎧も無く、人間たちは混沌の軍勢に立ち向かう術を持たなかったのだ。
だが、人間たちの様子を天空から見守っていた秩序の神は、人間たちが死に絶えることを良しとしなかった。光る甲冑に身を固めた神兵たちの大軍を派遣し、人間たちを守った。それだけではない。人間たちに混沌の軍勢と戦うための術を伝授し、その見返りとして古き盟約を結ばせたのだ。
こうして、秩序の軍勢と混沌の軍勢による戦いが長く続いた。短い休戦期間をはさんで、二度に渡る血みどろの戦いの末に、ついに秩序の軍勢は混沌の軍勢を撃破した。力を失った混沌の魔神は秩序の神によって世界の果てに封印されたという。だが、混沌の魔神の強大な力の一部は今なお健在で、魔物たちを使役して秩序の神によって構築された現在の人間の世界を転覆させることを目論んでいるという。
「子供のころ、大人たちによく驚かされたわ。良い子にしてないと、混沌の魔神の使いが来るよって」
「アタシも覚えがあるな」
「実際に魔物の軍勢が村に現れたら大変な事になるのにね」
マリーの言葉を聞いて、サキはミノカの村が魔物の大群に狙われている事を思い出した。今この状況でそれをわざわざマリーに伝えて心配事を増やすのも躊躇われたが、黙っているわけにもいかなかった。
「マリー、落ち着いて聞いてね。さっき上で見たのと同じ魔物たちが、今ミノカの村の傍にも来ているの」
「えっ? 村にまで⁉」
「うん。だけど、心配しなくて良いよ。ドグが必ずみんなを守ってくれるから」
サキはそう言って、何の心配もいらないことを証明するようにマリーに微笑んで見せた。胸中では白髪の老兵の姿を思い浮かべて、彼の活躍と無事を祈った。
――きっとドグならうまくやってくれるはず。信じてるよ……。
「最後の壁も見てみよう」
頷きあって二人は最後の壁に向かった。
これまでのレリーフは内容に繋がりがあったため、次もそうなのだろうという予感が二人にはあった。戦争に勝利して凱歌を揚げ神を讃える人間たち、そんな図柄が頭に浮かんでいた。
だが、二人の予想は裏切られた。
見上げた壁には、神や人間はおろか魔物たちすら彫られてはいなかった。
彫られていたのは何処かの風景である。疎らに樹木が生えた平原には草一つ生えていない。遠くには海が彫られていて、海には大きな岩の様な塊が浮かんでいた。
「これは一体……?」
口を小さく開けてレリーフを見上げるサキの袖を引いて、マリーは「あれを見て」と海に浮かぶ何かを指さした。
「あれって、もしかして氷山じゃないかしら?」
「たしかに、色がないから分かりづらいけど、そんな風にも見えるね……とすると、手前の平原のような所は雪原なのかもしれないね」
「きっとそうだわ」
二人は改めて壁を見直した。雪原の風景だと思って見直すと、そうであるに違いない様に思えた。よく見れば、疎らに生えた樹木にも雪がかかっているのが分かった。
「これは何処の風景なのかしら。ハーケンかな……それとも、もしかして……」
言葉を途中で止めたマリーに、サキは頷いて続きを代わりに口にした。
「もしかすると、大雪原かも知れないね」
「やっぱり? どうしてここだけ今までと関係がない絵が彫られてるのかしら?」
「分からない……でも」
話しながらサキは壁に近寄って、壁面の浮彫を指で撫でた。
「ここだけ線が違うね」
「線?」
「うん。今までのレリーフは力強くて男性的な線で彫られていたけど、この壁だけは柔らかくて女性的な線だね」
「彫った人が違うってこと?」
「そもそもこの固い壁にどうやってレリーフを彫ったのか分からないけど、少なくとも図柄を考えた人は違うんじゃないかな」
サキの言葉に、マリーは「ふーん」と頷きながら、サキと同じように壁の表面をそっと撫でた。
右手で壁を撫でるサキとその隣で左手で壁を撫でるマリーは、ちょうどお互いに向かい合うような形になった。
その時、キンと耳鳴りのような高い音が鳴り響いた。それは実際に部屋の中に鳴った音ではなく、壁に触れていた二人にだけ聞こえた音の様だった。壁の二人の手が触れた場所がそれぞれ青く光り、その二つ場所から青い光の波紋が幾つも壁を伝って広がる。二つの波紋は交じり合って干渉縞を壁全体に描いた。
「これって……!?」
「……大丈夫。危険な物じゃ無さそうだよ」
驚いて壁から離れようとしたマリーをサキが制止する。
二人の見ている前で、指先から広がり続ける無数の波紋が描く複雑な干渉縞の一部が強く光を放った。それはちょうど扉のような形だった。やがて指先から広がる波紋が収まったが、扉の形の線だけは残り続けた。
その扉が、眼も開けてい慣れないほどの眩い光を発すると、巨大な部屋全体が光に包まれた。
あまりの眩さにサキは目を瞑った。おそらくマリーもそうであろう。光の中で、互いの息遣いだけが聞こえた。
次回は8/7(日)に更新します。




