遺跡へ(2)
リュードッグは闇の中で目を覚ました。
椅子に腰かけて剣を抱いたまま眠っていたのだ。場所はミノカの村の南にあるマゴダ村の村長の家で、その一室を一時借り受けていた。
前日の夜から休眠を取っていないサキをリュードッグは説き伏せて、このマゴダの村で小休止を取らせたのである。初めのうちは大丈夫だと意地を張っていたサキであったが、寝台に横になると十も数えないうちに眠りに落ちてしまった。
そのサキの寝顔を見ているうちにリュードッグも眠ってしまっていたようである。薄く開けた窓の外は暗く、昼頃から降り出した雨が強く降り続けていた。眠る前にはまだ僅かに外が明るかったが、眠っている間に太陽は完全に沈んでしまったらしい。だが、おそらく眠っていたのは二十分くらいの僅かな時間に違いない。常人ならばほんの居眠りにすぎない時間だったが、彼にとってはそれで十分だった。
リュードッグの鍛え抜かれた肉体と精神そして魔術の技量は、彼から人並みの休息を取る必要性を奪っていた。
寝台に入ることも無ければ、長時間眠ることもない。彼はかれこれ四半世紀以上もそんな生活を続けて来ていた。椅子に座ったまま、場合によっては立ったまま、十数分も眠れば充分なのである。今となっては寝台に横になるとかえって落ち着かず、寝付くことが出来ないほどだ。あまりに眠る必要がないので寝酒を試してみた事もあったが、ただ酒量が増えるばかりで何の効果も無かった。
そんな彼にしてみればいつの間にか二十分近くも眠っていたという事実は、寧ろ驚くべき事だった。前日の夜から殆ど走り通しだったことが原因だろう。若いころならば、丸一日走ったくらいで疲れを覚えることなどなかった。だが老境にさしかかった昨今、体力の衰えを彼自身も感じるようになってきていた。もっとも、衰えてもなお、並みの人間とは比較にならぬほどの体力を有していることには変わらないのだが。
――夢を見ていたようだ。
夢を見ることなど久しぶりであった。最後に夢を見たのがいつだったか、思い出すことすら難しい。ハーケン王国とクマシロ王国の国境沿いにある廃城で、彼の元の主人とその子供たちと過ごした穏やかな日々、その中にあってさえ数えるほどしか夢など見なかったはずである。
夢の内容は殆ど覚えていない。
目が覚めた時には確かにハッキリと覚えていたはずの夢の内容は、指の間から砂が零れ落ちていくようにサラサラと何処かに去って行き、残ったのはほんの一握りの記憶だけである。
だが僅かに残った記憶だけで、どんな夢だったかを知るには十分だった。
――己の胸の内に巣食う女々しさが見せた都合の良い幻想よ。
彼の人生においてもっとも幸せだった日々、もしその日々が続いたならばどうであっただろうか。そういう甘美で心地よくて、永遠に見続けていたくなるような夢だったのだ。
――だが、何の役にも立たぬ。
心の弱い者にとっては、そういう夢はあるいは救済になるのかも知れない。だが、リュードッグの鍛え上げられた心は鋼で覆われたように強靭で、そういった甘い幻想を必要とはしていなかった。
――しかし、久方ぶりにあの方のお顔を思い出すことが出来た事だけは、幸運だった。
彼が生涯を賭して守ると誓った人。
絶対に守らねばならなかった人。
そして、守ることが出来なかった人。
その人の記憶だけが忘れえぬ悔恨となって、抜くことが出来ない棘のように、鋼で覆われた心の内側で、いつまでもチクリと痛んでは彼を苛むのだ。
人間の記憶とは残酷な物で、そんな大切な人の記憶ですら容赦なく風化していってしまう。
その大切な人の顔を久しぶりに彼はハッキリと思い出していた。
――やはり、よく似ていらっしゃる。
リュードッグは闇の中で、己が腰かけた椅子の傍らの寝台で寝息を立てる少女の顔を見た。
僅かに幼さの残る少女の寝顔は、彼にとって最も大切であった人、その人の若かりし頃と瓜二つであった。
――初めてお会いしたのは、あの方がちょうど今のサキ様くらいの歳の頃であったか。
リュードッグ・アルドネアはかつては傭兵であった。
幼き頃は孤児であったが、今となってはそのころの記憶は曖昧模糊としてはっきりとしない。両親がどんな人物であったかも全く分からないが、顔も知らぬ両親を恨めしく思う事などはなかった。ただ、彼が肉体面でも魔術面でも人より優れたものを持って生まれてきた事を、会ったことも無い両親に感謝していた。彼がその恵まれているとは言えない出自に関わらず、根っからの楽天家で陽性の気質を持っているのはその優れた資質に裏付けられた自信によるものだったのだろう。
リュードッグが若いころは、混沌の軍勢の攻勢が比較的弱かった時期でもあった。魔物という天敵から解放された人間たちが、平和を享受し隣人を愛するのかと言えば、そうはならない事は歴史が伝える通りである。リュードッグが傭兵として活躍出来たのも、人間同士の争いが激しさを増して各国の王侯貴族がこぞって傭兵を雇い入れ戦った為である。その戦いが故郷を失った男や両親を失った子供を生み出し、そう言う連中が傭兵となって戦場に渡世の手段を求めるのだ。それ故か、不思議なことに戦場でいくら血が流れても、次の戦場に立つ者がいなくなるという事は無かった。
リュードッグは腕の立つ傭兵として、各地の戦場を渡り歩いた。名の通った傭兵団から勧誘を受けることも一度ならずあったが、彼は群れることを好まなかった。孤高を気取っていたわけではない。ただ己の剣の腕と魔術の技量、それだけを頼りに生きて行こうと決めていた。たとえその結果命を落とすことになろうとも、惜しいとも思わなかった。元より、死したとしても誰が悲しむという事もない命なのだから、と。
時には北方の国に雇われて、領内に出没した魔物と戦う事もあった。本来、生身の兵では魔物を討伐するのには力不足だが、彼は例外であった。手にした刃を縦横に振るって彼は何体もの魔物を膾切りにしてきた。
そういったことを何度か繰り返すうちに、次第に人間と戦うより魔物と戦う方が自分の性に合っていると思い始めた。人間相手に戦うことにも飽いていた。戦場において彼の手に負えぬのは、量産型ミスリル銀に覆われた魔動鎧を着こんだ装甲魔動機兵だけなのだから、無理も無いだろう。彼自身もまた、魔動鎧を使ってみたいという気持ちもあった。それを着こんだならば、自分がどれほど戦えるのかを知りたかった。魔動鎧を着こみ、腕試しの相手として出来るだけ大物と戦ってみたかった。例えば竜のような、である。
彼が傭兵稼業から足を洗って、仕官の為に各地を放浪したのは三十を過ぎてからだった。名の通った傭兵であった彼を雇い入れたいという国は数多あったが、彼が魔動鎧が欲しいと言うと何処も掌を返した。魔動鎧というのはどの国にとっても貴重な戦力であり、大事な資産であるのだ。いくら腕が立つからと言って、信用のおけぬ傭兵上がりの男に使わせようと考える国は無かった。
だが、彼は粘り強く仕官先を求めて旅を続け、その放浪の旅が足かけ八年に及んだ時、遂に彼は望みを叶えた。東方の国、クマシロに仕官することが出来たのだ。
きっかけは、ひょんなことから当時のクマシロの第二王女と知己となったことである。彼女の強い推薦を得て、リュードッグはクマシロの王国軍に迎えられ、そこで魔動鎧の使い方を覚えた。
放浪の旅を始めたころ、リュードッグの胸の内に有ったのは、己がどこまで強く成れるかを知りたいという欲求だった。だが、各地を旅する間に、その心境にも変化が訪れていた。旅が終わるころには、己の培った武をただ己のために使うのではなく、誰かの為に使うことを欲するようになっていたのである。
彼がその武を捧げる相手として選んだのは、彼を引き立ててくれたクマシロの第二王女であった。正式な誓いを立てたわけではないが、生涯をかけて王女の剣となり盾となることを己に課した。
その王女が若きハーケン王に嫁ぐことになった時、リュードッグの胸に一抹の寂寥感が沸き起こったのは否定できない。親子ほども歳の離れた王女に己が密かに恋心を抱いていたと自覚して、彼は愕然とした。だが同時に、決して彼の手の届くことがない王女が他の者の妻になると決まった時、奇妙な安心を覚えたのも事実である。
リュードッグは、ハーケンへ嫁ぐ王女の護衛として彼女に随行することを熱望した。王女の傍に仕え続けるためだが、同時にクマシロに居ては叶わぬ、大物と一線交えたいというかつての夢が、ハーケンならば叶うのではないかという希望もあった。運よく、尚武の気風を好むハーケン王が若き日のリュードッグの武名を知っていたことで話はとんとん拍子に進み、王女と共にハーケンへ赴いたリュードッグはハーケン王国軍に客人として迎え入れられた。
そうして、北の最果ての国での穏やかな日々がしばらく続き、その寒さや風俗にも慣れたころ、王女が懐妊したことが判明した。リュードッグはそれを自分の事のように喜んだのを、今でも鮮明に覚えている。
だが、その数日後にあの混沌の軍勢の大攻勢が起こり、ハーケン戦役が始まるのである。
「ドグ、起きているの?」
闇の中で一人、昔の事を思い出していたリュードッグに、先ほどまで眠っていた少女が声をかけた。青い瞳が闇の中で美しく輝いていた。
「どうしましたサキ様? 怖い夢でも見られましたか?」
リュードッグはおどけた声でそう言って、闇の中で小さく笑った。
「夢なんて見る暇も無かったよ」
「まだほんの四半時程しか眠っておられませぬからな。もう少しお眠りなされ。それがしが子守歌でも歌って差し上げましょうかな?」
「子供じゃないんだから……」
少女は寝返りを打って向こうを向いた。そのままもう一度眠るのかと思われたが、リュードッグに後頭部を向けたまま言った。
「ドグ、アタシはここに居るよ。だから、お前ももう少し休みな」
そう言ってから暫くすると、彼女はまた寝息を立て始めた。
老兵の心のうちに起こった小さなさざ波のような感情の揺れを、少女は感じ取っていたのだろう。
――普段は軽口を叩いていらっしゃるが、根はお優しい方だ。
今、母親の面影を強く受け継いだこの心優しき少女に仕えられる事こそ、かつて自身に課した誓いを果たせなかったリュードッグにとっての最大の救いだった。
――この方をお守りせねばならぬ。今度こそ。
そのためにはどんな犠牲をも厭わぬつもりだった。




