古の塔(3)
サキは暫く無言で手を動かし続けていた。リュードッグは慣れているのか、何も言わずに絵を描き始めたサキを気にする素振りも見せず、宵闇に包まれていく山麓の様子を眺めている。
「ね、ドグ。昨日の話だけどさ」
サキは絵を描く手を止めずに、リュードッグに声をかけた。昨晩、リュードッグはミノカの村長ドグから聞いたマリーの出生の秘密をサキに伝えていた。本人が知らない秘密を伝えるというのは、褒められたものではないのだろうが、リュードッグにしてみれば己の主人に情報を共有することは当然の事であった。
「マリーにはさ、きっと古い血が色濃く流れてるんだと思う」
「古い血、と言いますと?」
「もちろん、古代クレサ人の血さ」
古代クレサ人。それは、神話の時代に大陸全土を支配する大帝国を築いたという民族である。現在では失われてしまった、神の御業にも匹敵するような高度な魔術を用いて、各地に都市を建造し、混沌の軍勢を駆逐し、数百年に及ぶ人類の黄金時代を生み出した人々だと伝えられている。
だが、神のごとき権能をふるったクレサ人の文明も、一度その繁栄に影が差すとわずかな間に瓦解してしまった。今では、サキの目の前の塔のような遺構を各地に残すばかりである。
「ドグも見たでしょ、あの子の眼が光るのを。あの子にはさ、すごい魔術の才能があるよ。たぶん、アタシ以上のね」
「確かにマリー嬢の眼が光るのを見ましたが、サキ様以上となると、にわかには信じがたい話ですな。サキ様は幼き頃より、天賦のごとき魔術の才を示して来られたではありませぬか」
「アタシより才能がある人間だってそりゃいるさ。現に、アタシの隣にいつも居たからね」
「いやいや、サキ様の才も決して負けたものではござりませぬぞ」
リュードッグの言葉にサキは手を動かし続けながら自嘲気味に小さく笑った。
「おべっかはいいよ」
「そんなことはござりませぬが……」
もごもごとそう口にするリュードッグを放っておいて、サキは話をつづける。
「とにかく、マリーがとんでもない魔術の才を誰かから受け継いでいるのは間違いないよ。思い返してみれば、最初にマリーに会った時にマリーだけが魔物に襲われていたのも、それを裏付けてるんじゃないかな?」
「ふむ、確かにそうですな」
リュードッグは口ひげを撫でながら頷いた。
「魔物は高い魔力を持つ人間を喰らうのを好むと言いますからな。戦闘力が低くて魔力の高い乙女ともなれば、格好のご馳走でしょうな」
「そう考えると、マリーの実の父親ってのも、限られてくるんじゃないかな?」
「なるほど。道理でござるな」
魔術を使うことができる人間というのは、皆古代クレサ人の末裔である。クレサ帝国末期の時点でも、クレサ人とそれ以外の人々との間で血筋の混交が進んでいたため、現在ではクレサ人の血を引いているという事自体は珍しくはない。とはいえ、ほとんどの人にとって、クレサ人の血というのは数十分の一程度の割合でしか流れてはいない。それが色濃く流れているということは、特別な家柄の血を引いている可能性が高い。
「マリー嬢に会いたくなりましたか?」
リュードッグの言葉に、サキは手を止めて視線を東に移した。山麓には、マコク山が落とす影に覆われつつあるミノカの村の姿があった。
「まあ、ね。初めて会った時から、あの娘はなんだか他人とは思えなくてさ。自分でもおかしいと思うけど、私とそっくりだなって思ったんだ。ま、アタシはマリーみたいに可愛くはないけどさ」
「そんなことはござりませぬが……」
サキは視線をリュードッグへ移して、小さく微笑む。
「ドグ、この前はありがとね」
「サキ様、急に如何いたした?」
「あの晩のことさ。あの村に泊まった二日目の晩。いくら酒に酔っていたからって、ドグが扉の外にいるマリーに気が付かない訳がないんだ。わざとマリーに聞こえる様にアタシの正体を口にしたんだろう?」
「はて? 何のことでござろうか?」
「アタシは自分からは言えないからさ、代わりに言ってくれたんだろ。アタシ達が打ち解けることができるように。まあ、マリーが飛び出していくのはさすがに予想していなかったんだろうけど」
「ハッハッハ、それは買い被りというものでござる。このリュードッグ、むくつけき武辺者なれば、自慢ではござらぬが花咲く乙女の胸の内など、とんと分かりませぬ。そんな粋なことが出来よう筈もありますまい」
自慢にならないことを自慢げに言って、リュードッグは哄笑した。
「花なんて咲いてないよ」
否定するサキの言葉に、リュードッグはやれやれと首を振る。
「花の命の儚きを、知らぬは乙女ばかりなり、と」
「何を言ってるんだか。……でも、ありがとう」
そう言って、サキはもう一度微笑む。
その微笑みを見てリュードッグは何を思ったのか、ぽかんと口を開けた。
「な、何? アタシが礼を言うのはそんなに珍しい?」
「いや、そういうわけではござりませぬが……近頃母君に似てきましたな?」
「ん? 親子なんだから、そんなの当たり前だろう」
「……いや、忘れてくだされ。老人のたわ言でござる」
「おかしな奴だな……」
サキがもう一度南方に視線を移すと、燃えるような黄昏色に包まれた山麓の風景がが見えた。その様子を眺めるサキの髪を、優しくも冷たい風が撫でて通り過ぎていく。
しばらくそうしていたサキが、口を開いてぽつりと言った。
「静かになったね」
サキの言葉に、リュードッグは黙って頷く。先ほどまで辺りでけたたましく鳴いていたムクドリたちは、どこかへ飛び去ってしまったらしく鳴き声の一つもしない。
「魔物ってやつは、一体どこから来るんだろう。あれほどの巨体なら、目立ってすぐに見つかってしまいそうなものだけど、大雪原から離れたこんな場所にも姿を現す」
「まったく、不思議なものでござりまするな。十六年前のハーケンもそうでござった。軍船ほどの大きさの怪物がゴロゴロと、それこそ数万もおり申した。そんな魔物が死すれば霞のように消えてしまう、というのならば、まだそういう不可思議な存在なのだと納得もできまするが、死した後にも躯を残すのでございますからな。血と肉を持った巨大な怪異、それが人知れず人里近くに現れるというのは、まったく不思議でなりませぬ」
サキは、リュードッグの独白にも似た返事を聞きながら、絵の道具を手早く鞄にしまうと、金の鎖で首から下げた青い石を取り出した。
その石が、脈動するように間をあけて周期的に淡く青い光を周囲に放っている。
夕闇の中に乾いた音が断続的に響いた。複数の木の幹が裂ける音である。
「来ましたぞ……乙種四級。単眼鬼」
リュードッグが視線を向ける低木の森の中で、巨大な人影が立ち上がるのが見えた。