2. 木剣と三杯
帰り着いたのは三日目。馬から降ろしたカレルが、邸の門を見上げる。口が半分開いたまま、閉じない。馬の汗が乾きかけた手で子の背を促すと、老執事と門番の間から、叔父のゲープハルトが進み出た。
整った姿勢を崩して厚い胴を屈めると、撫でつけた焦茶の髪が日に光る。肉のある頬、その柔らかな口元が緩む。
「朝の食事も取らず北へ向かったと聞いて、案じていたよ。君は父上が療養中なのに、無茶をするね。無事に戻ってくれてよかった」
俺はカレルを門の内へ寄せる。
「叔父上、心配をかけた。この子は俺の従者だ。剣も教える」
叔父は中背をさらにかがめ、子にも聞こえる声で続けた。
「ほう……。それなら、庭を稽古に使えるようにしよう」
老執事が、引きずる俺の左脚を見てから庭へ向く。
「木剣と場所を整えてまいります。若様のお脚には椅子も必要でございましょう。どうぞ、立ったまま教えようとなさいませんよう」
叔父の赤茶色の目が、俺の返事を待つ。
「ほかに要る物はあるかい? 私が用意する方がよければ、遠慮はいらないよ」
俺は引きずった脚を揃えた。
「今はそれで十分だ。礼を言う、叔父上」
叔父を門で見送り、戻った老執事に続こうとする。門番がカレルの前へ綱を垂らす。
「若様、孤児はいずれ盗みをいたします。邸に置くなら、夜は縛っておくべきでは?」
一度目、この門へ来た焼け出された子らを、俺は追い返した。飯を乞う声に、帰れと命じたのは俺だ。閉まる門の向こうで、声が途切れたのを覚えている。
俺は門番へ向き直った。
「まだ何もしていない者を、俺は裁かない」
カレルが門番を見上げて肩を怒らせる。
「まだ取ってもいねえ! 取った物があるなら言ってみろよ! 寝てる間まで縛られたら、火が来たって動けねえだろ!」
門番は大きく息をつくと、鍵を差し出す。
「では、こちらを。部屋へ案内します。内側から閉められますので、夜も休めます。鍵は本人に持たせましょう」
案内される途中、木剣を見つけたカレルは足を止めた。そちらを見たまま、受け取った鍵を握り直す。
◇
俺は自室の箱を開けた。本物の印と命令書の印。灯りを寄せて並べても、同じ形に見える。誰が使ったのかは、まだ分からん。
命令書と前金の袋を箱へ収め、本物の印は紐に通して懐へ。寝台に入ってからも、胸に当たる小さな重みを手で確かめる。
夜――。
戸口で木の擦れる音がした。カレルが庭の木剣を握り、寝台へ迫る。
「殺される前に、俺がやる!」
俺は上体を起こし、カレルの手首を押さえる。細い。木剣の先が寝台を外れたところで、押さえる力を緩めた。
「手元を見ろ。その握りでは、殴る前に剣を落とす。振り回すだけでは当たらん」
カレルは押さえられた手より、木剣の方を睨んでいる。
「だったら、なんで折らねえんだよ? 取り上げちまえば、俺はあんたに向けられねえのに。分かってんだろ、それくらい!」
答えかけて、喉の奥で止める。俺は木剣を子へ返した。左脚は寝台の上から動かせない。
「朝、庭へ持ってこい。教えると言っただろう。今は戸を閉めて寝ろ」
カレルが木剣を体へ引き寄せる。
「……寝られるかよ、こんなとこで。目を閉じたら、あんたが何するか見えねえだろ?」
俺は戸口へ目を向けた。
「部屋の鍵をかけろ。朝は、自分で開けて出てこい」
カレルは木剣を握り直す。戸口へ下がっても、その先は俺へ向いている。
「勝手に入ってくるなよ。剣も、俺が持ってく。朝になって、教えねえなんて言うなよ!」
戸が閉まる。あれほど声を張ったのに、木の触れ合う音は静かだった。
これが世界の復元力というものかもしれない。やはり世界はカレルに俺を殺させようとしているようだ。
本当に剣を教えてしまってよいのだろうか――?
だが、カレルを殺したって、世界はまた別の刺客を送ってくるに違いない。
「くそったれが!」
俺は大きくため息をつき、毛布をかぶった。
◇
朝の庭で、俺は椅子に座る。門番は傍らで見張り、老執事は字の支度を抱えている。朝露の匂いに、土の湿りが混じる。座り直すと、椅子の脚がわずかに沈んだ。
鍔のない木剣は手元が軽い。半身で受けると、カレルの打ち込みが横へ流れる。丸い頬を膨らませ、擦り傷のある細い脚で踏ん張る子の肘を、俺は木剣で示した。
「肘を下げろ。振るなら最後まで見ろ」
カレルは木剣を突き出す。
「最後までって、あんた、座ってんじゃねえか! そんなので教えたつもりになるなよ! 俺にはちゃんと振れって言うくせに!」
俺は受ける角度を変えた。体重を移そうとすると、左脚に鋭い痛みが走る。
「立たせたければ、今の打ち込みを通せ。椅子より先に剣を見ろ。狙う所を決めろ」
カレルが木剣を引き戻した。握りも足も、さっきとは違う。
「じゃあ教えろよ。俺が、あんたより強くなるまで!」
俺は木剣を差し出し、打たせる所を定めた。
「よし、剣から目を逸らすな。ここへ打て。叩いた後も見ていろ。途中で止めるな」
狙わせた所で木剣が鳴る。乾いて澄んだ音だ。カレルは弾かれずに押し切った。
「見たか! 今のは届いたぞ! 座ってるからだって言うなよ、そこへ打てって言ったのはあんただ! ちゃんと見てたよな?」
掌に残る痺れが、妙に心地いい。腰を浮かせかけ、左脚に止められた。剣は受けられても、立ち上がるだけで負ける。
老執事が紙と筆を運んできた。
「カレル、剣を置いてこちらを。これがあなたの名の字です。書いた順に、声に出して読んでみましょう。ゆっくりで構いません」
カレルが筆を持ち直す。紙には、妙に太い線が走った。
「剣より曲がるぞ、これ! 俺の名なのに、なんで俺の言うことを聞かねえんだよ! 押さえたら、余計に太くなりやがる!」
俺はずれかけた紙を押さえる。
「握り潰すな。紙まで押すな。剣と同じ力で扱うな。先だけを動かせ」
筆の先が軽くなった。カレルは書いた字へ顔を寄せ、そこから俺を見上げる。
「カレル……読めるか? なあ、あんたにも読めるだろ? 曲がってても、俺の名だって分かるよな?」
老執事が字を示す。
「はい、カレルと読めます。曲がっていても、あなたの名です。ご自分で書けましたね。乾くまで待ちましょう」
俺は紙を押さえた手を、乾いた端へずらした。曲がった線を、こすってしまわないように。
◇
食事の席へ移る――。
俺は汁の湯気の向こうにある子の肘を見た。
「今朝の構えを忘れるな。食ったら、まず肘を――」
カレルがその肘を上げ、空の鉢を突きつける。
「飯が先だ! 忘れてねえよ、肘だろ! ほら、こっちはもう空だぞ! 剣は待てても、腹は待てねえんだよ!」
鉢を差し出され、口が止まった。老執事が盛り直す。俺の鉢にはまだ飯があるのに、向こうではもう匙が底を擦り、カレルが顔を上げる。
「まだ食う! 待てって言ったって、腹の方は聞いてくれねえからな! もうちょっと、盛ってくれよ!」
俺は自分の鉢を置いた。
「食べ終わるまで待つ。こぼすな。字を書いた紙を濡らしたら読めん。鉢は紙から離せ」
カレルは鉢を寄せながら、俺の匙を見る。
「待つって、あんたは食わねえのか? 冷めるぞ!」
教える口を閉じ、匙を持ち直した。盛り直された三杯目も、やがてきれいに空になる。カレルは鉢を傾け、残っていないと確かめた。
一度目、玉座で俺を斬ったカレルの声は低く、何かをねだる響きなどない。
俺はカレルの書いた紙の端を押さえた。曲がった線が、空の鉢の隣で乾いていく。
弟子は師匠を睨みながら、剣を覚え、字を覚え、飯を三杯食べる。
老執事が食器を下げる前に俺へ向いた。
「本日午後は茶会へお出かけです。お召し物を用意いたしますが、こちらの紙はお部屋へ?」
俺は子の書いた紙を、乾いた所へ移す。
「紙はそこへ置け。カレルも連れていく。給仕を覚えさせる」
カレルが空の鉢と俺を見比べた。
「給仕って運ぶやつだろ? 菓子を運んだら食えるのか? 落とさなかったら、俺にもくれよ! 見るだけなんて嫌だからな!」
俺はためいきをついて首を振る。
「食う前に、皿を置くことから覚えろ。運びながら食うな」




