第1話:入学の日
四月の風は、思っていたより少し冷たかった。
道の脇に並んだ桜は満開を少し過ぎていて、風が吹くたびに薄桃色の花びらを落としている。
舗装された坂道の端にはそれがいくつも重なり、ところどころ小さな吹き溜まりを作っていた。
その坂を、俺と千咲は並んで歩いていた。
千咲と俺は幼なじみで、幼稚園、小学校、中学校とずっと一緒だった。
そして、今日からは同じ高校に入学する。
「ねえ、まもるん」
「ん?」
「ちゃんと聞いてる?」
隣を歩いていた千咲が、じっと俺の顔を覗き込んでくる。
少し茶色がかった髪が風に揺れ、その一本が頬に張りついた。
千咲はそれを指先で払いながら、疑うように目を細めた。
「聞いてるって」
「じゃあ、今なんの話してた?」
「……この坂、長いなって話」
「全然違う!」
千咲が即座に声を上げ、俺の腕をぺしっと叩いた。
「暴力反対」
「人の話を聞かない方が悪いんですー」
口を尖らせながらも、千咲は少し楽しそうだった。
まあ、実際この坂は長い。
星見坂。
今日から俺たちが通うことになる、国立星詠魔法高等学園――通称、星詠学園へと続く坂道だ。
坂の下からでも、学園の校舎は見えていた。
白を基調とした大きな建物。その奥には実技訓練に使うらしい広い敷地があり、少し離れた場所には学生寮もある――らしい。
坂を登れば見えるだろうか。
星詠学園は原則全寮制。
これから三年間、授業を受けるだけじゃなく、生活の大部分をあそこで過ごすことになる。
そう考えれば、もう少し緊張していてもよさそうなものだけど、不思議と今のところ実感は薄かった。
隣にいるのが、いつもの顔だからかもしれない。
「それで?」
俺が聞くと、千咲はまだ少しむくれたままこちらを振り返る。
「何が?」
「さっきの話。何だったんだよ」
「やっぱり聞いてなかったじゃん」
「だから聞き直してるんだろ」
「威張るところじゃないよ!」
少し前を歩いていた千咲は、呆れたように息を吐いてから、俺の隣へ並び直した。
「この坂の名前の話をしてたの」
「星見坂だっけ」
「そう。なんでそう呼ばれてるか知ってる?って」
問われて、俺は坂の先へ目を向けた。
「星がよく見えるから?」
「あ、惜しい」
「惜しいんだ」
「ちゃんと由来があるの」
千咲はそう言うと、少し先を指差した。
「ほら、あれ」
その指の先を追う。
坂の頂上近くに、大きな一本の木が立っていた。
「……でかいな」
「でしょ?」
遠目からでも分かるくらい大きい。
枝は左右へ広く伸び、周囲の木々より頭ひとつどころか、ずっと高い位置まで伸びている。
坂を登りきって近づいてみると、想像していた以上だった。
太い幹と、地面から張り出した大きな根。
何年ここに立っているのか分からないけど、少なくとも俺たちが生まれるよりずっと前からあるのは間違いなさそうだ。
千咲が足を少し緩め、木を見上げた。
「星見の大樹っていうんだって」
「星見の大樹?」
「この辺じゃちょっと有名らしいよ」
俺も一緒に見上げる。
名前だけ聞けば、ずいぶん大層だ。だけど。
「星要素なくない?」
そう。星要素は全く感じられない。
すごく大きな木。
それだけに見える。
すると、千咲は待ってましたとばかりに得意げに鼻を鳴らした。
「よくぞ聞いてくれました」
そして、一度大きく息を吸い込んで大樹を仰ぐ。
「この木のてっぺんに登って流れ星を見つけると、願いが叶うって話があるの」
すごいことを言い出しそうな雰囲気があるから何かと思えば。
おとぎ話の話が始まったらしい。
「流れ星なんてどこから見ても同じだろ」
「まもるんはすぐにそういうこと言わないの」
むっとした千咲に睨まれて、俺は肩をすくめた。
千咲は再び大樹へ顔を向ける。
「願いが叶う時、この大樹がきらきら光ったなんて話もあるんだから!」
「へえ」
「…………」
千咲の不満そうな視線を浴びながら、俺はもう一度、目の前の大樹を見た。
やっぱり、ただの古い木にしか見えない。
もちろん綺麗なおとぎ話だとは思うけど。
「迷信だろ」
「もう!」
千咲が近づいてくる。
「少しくらい信じてくれてもいいじゃん!」
「魔法がある世界だからって、木が願いまで叶えるのはさすがに夢物語だろ」
「木じゃないし!星が願いを叶えるの!」
「どっちでも同じだよ。ファンタジーに違いない」
千咲はしばらく唸っていたが、ふと何かを思いついた様子でくるりと大樹に向き直った。
「私もお願いしてみようかな」
「今から?」
「せっかくだし」
そう言って、千咲は大樹の前で両手を合わせた。
てっきり冗談かと思ったけど、千咲は持っていたカバンをいつの間にか地面に置いている上に、目まで閉じている。
「…………」
大樹のてっぺんで流れ星に願うって話じゃなかったっけ。
地べただし、流れ星もないけど。
まあ、これで気が済むならいいか。
そういえば、星見坂の名前の由来について話していた気がする。
きっと、星見の大樹に続く坂だから、とかそんなところだろう。
俺は少し離れた場所に座って待つことにした。
坂を登っていく他の新入生たちの声が聞こえる。
遠くでは誰かが親だか親族だかに写真を撮られていて、少し照れくさそうに笑っていた。
風が吹くたび、頭上の枝がざわざわと鳴る。
遅いなと思って千咲の方を見ると、ちょうど目を開けたところだった。
「終わった?」
「うん、ばっちり」
そう言ってウインクまでして見せる。
「何お願いしたの?」
千咲は一瞬だけ目を丸くして、それから、にやっと笑う。
「秘密」
「何だよそれ」
「人に言ったら叶わなくなるんだよ」
千咲は大真面目だ。
この手の勝負は分が悪い。
オカルトだの奇跡だのと正面からやりあうのは疲れるからだ。
「早く行くぞ」
俺がズボンについた草を軽く叩いて立ち上がると、千咲も「はーい」と返事をして鞄を拾い上げた。
そして、俺たちは大樹を離れ、再び学園へ向かって歩き始めた。
「ねえ、そういえばさ」
少しして、千咲が口を開いた。
「クラス、一緒だといいね」
「まあ、三クラスしかないしな」
「三分の一かぁ」
「別に会おうと思えば会えるだろ。クラス違っても」
俺がそう言うと、千咲は横からちらっとこちらを見る。
「分かってないな〜」
「どういうこと?」
「分かってません。なーんにも」
「何だそれ」
質問には答えず、千咲はくすくす笑っていた。
小学校も中学校も同じだったけれど、毎年同じクラスだったわけじゃない。別々だった年だってある。
だから俺としては、そこまで大した違いではないと思う。
ただ、今までと変わることがひとつある。
今日からは寮生活だ。
「帰り道、一緒じゃなくなるんだな」
ふと口にすると、今度は千咲がこちらを向いた。
「今気づいたの?」
「高校同じだし、考えもしなかった」
「だけど寮は男女別だからね、当たり前に」
「そりゃそうだ」
「今までみたいに、『帰ろー』って一緒に家まで歩くことはなくなるんだよ」
そう言われると、少しだけ変な感じがした。
学校が終わったら、一緒に途中まで帰る。
昔から普通にやってきたことだ。それがなくなるというのは、ほんの少し寂しいような気がする。
だけど。
「まあ、寮までは一緒に帰れるだろ」
「すぐそこじゃん!」
「帰り道ではある」
千咲は大袈裟にため息をついて、まるでどこかのコメディアンみたいに、やれやれと首を振った。
「屁理屈ばっか言って、ほんと情緒のない人だなぁ」
「さっきから俺に求めすぎじゃない?」
俺が言うと、千咲はにっこりと笑って、さも当然のような顔をして答えた。
「幼なじみだからね」
「理由になってない」
「なります」
きっぱり言い切られた。
全くもって納得できないが、これ以上はたぶん平行線だ。
そうこうしているうちに、正門が近づいてきた。
皺ひとつない新しい制服に身を包んだ生徒たちが、次々と門をくぐっていく。
一人で歩いているやつもいれば、隣の誰かと楽しそうに話しているやつも、保護者と一緒に来ているやつもいた。
それを見ていると、ようやく少しだけ実感が湧いてくる。
今日から高校生。
しかも、普通の高校ではない。
星詠学園。
ここは、魔法を学ぶための学校だ。
「なんか緊張してきたかも」
千咲が小さく呟いた。
「珍しいな。千咲が?」
聞き返すと、千咲は俺を見上げた。
「まもるんは緊張してないの?」
「ちょっとだけな」
「なんだ。余裕そうな顔してたのに」
「顔に出ないだけ」
俺がそう言うと、千咲は首を傾げた。
「そうかなあ。まもるんっていつも、結構分かりやすいと思うけど」
「十五年くらい見てる奴の意見は参考にならない」
「たしかに」
千咲が笑った。
そのまま少し歩いて、俺たちは正門の前まで来る。
「友達できるかな」
今度は千咲が不安そうに呟いた。
「できるだろ」
「即答だね。なんで?」
「普通に誰とでも喋れそうじゃん」
「うーん、まあ、そうだったかも」
そうだったかもってなんだ。自分のことなのに。
そんなことを考えながら横顔を見ていたら、千咲が急にこちらを向いた。
「まもるんは?」
「俺が、なに?」
「友達できる?」
「……たぶん」
「急に自信ないじゃん」
「うるさい」
いざ言われると、自信はないかもしれない。なんだか急に胸がどきどきしてきた。
千咲はそんな俺を見て楽しそうに笑ってから、胸を張った。
「大丈夫!もし友達できなかったら、私が遊んであげるから!」
「遊んであげるってなんだよ」
「幼なじみなので」
そう言って、にっこりと笑う。
「またそれか」
「事実なので」
そんなことを言い合いながら、二人で門をくぐった。
校舎は、坂の下から見ていた時よりずっと大きく感じた。
広い正面玄関の前には案内役らしい上級生や教師のような人たちが立っていて、新入生へ声をかけている。
「あ、クラス分け出てるっぽい!」
近くの新入生の声に、千咲がすぐ反応した。
「まもるん、あっち!」
「走るなって」
「早く見たい!」
千咲はもう掲示板へ向かっている。
仕方なく、俺も小走りでその後を追った。
正面玄関の脇には大きな掲示板が設置され、すでにかなりの人だかりができていた。
「み、見えない」
人の隙間から何とか覗き込もうとしていた千咲が、早々に諦める。
「だめだぁ」
「俺もあんまり見えない」
「私より背高いんだから頑張ってよ」
「何をどう頑張るんだよ」
「ジャンプするとか」
「絶対に嫌だ」
即答すると、千咲が「えー」とぼやいた。
それと同時に、人が少し動き、隙間から掲示板が見える。
一年A組。
一年B組。
一年C組。
それぞれの下に、名前がずらりと並んでいた。
「あ」
自分の名字を見つける。
「俺、A組だ」
「ほんと?」
千咲がすぐに身を寄せてきた。
「天野護……ほら、ここ」
「どこどこ?」
「近いって」
「見えないんだもん」
大苦戦中の千咲はさておき、俺はそのままA組の名簿を下へ追っていく。
「桐原……桐原……」
何人かの名前を飛ばす。A組にいるとしたらこのあたりだ。
「あった」
「え?」
「桐原千咲」
「ほんと!?」
「ほら」
俺たちの名前を交互に指差すと、千咲はその先を目で追った。
一年A組。
天野護。
桐原千咲。
二人の名前が、同じ列の中にある。
千咲の顔が一気に明るくなった。
「やった!」
「そんなに喜ぶ?」
「だって嬉しいじゃん!」
「小学校から何回目だよ」
「何回目でもいいの!」
千咲は嬉しそうに、もう一度名簿を見ている。
俺も周囲の名前へ目を移した。
知らない名字ばかりだ。
今日から、こいつらと同じクラスになるらしい。
「どんな人たちかな」
千咲が名簿を眺めながら言った。
「知らないやつばっかりだな」
「仲良くなれるといいね」
「そうだな」
「担任の先生、怖くないといいなぁ」
俺は思わず千咲を見る。
「そっち?」
「大事だよ」
「まあ、分からなくはないけど」
「宿題少ない先生がいい」
「さっきの木に、それお願いすればよかったじゃん」
冗談で言うと、千咲が「あっ」と声を上げた。
「ほんとだ」
「本気かよ」
「帰りにもう一回お願いしよっかな」
どうやら本気らしい。
「とりあえず教室行こう」
「うん!」
掲示板から離れ、昇降口へ向かう。
そこから先は、ほとんど知らない顔ばかりだった。
これから授業が始まる。
魔法の授業も、実技もある。
寮での生活も始まる。
どんなやつと仲良くなるのか。
授業はどれくらい難しいのか。
そして、自分はこの学園で、どれほど魔法を理解することができるのか。
考え始めると、少しだけ楽しみになってきた。
「まもるん、A組こっちだって」
少し先を歩いていた千咲が振り返り、廊下の案内表示を指差した。
「早く早く」
千咲は待ちきれないといった様子で体をもぞもぞさせている。
「だから走るなって」
「走ってないよ」
「今走りかけてただろ」
俺がそう言うと、千咲は笑いながら歩調を緩めた。
そして俺が追いつくのを待って、また隣に並ぶ。
「ねえ、まもるん」
「聞いてるよ」
「まだ何も言ってないよ」
「また聞いてないって言われるから、今度は先に言っといた」
「なにそれ」
千咲が笑う。
俺も少し笑った。
そうして二人並んだまま、一年A組の教室へ向かう。
知らない名前ばかりの新しいクラス。
初めての寮生活。
初めての実技訓練。
これから始まる学園生活。
まだ何一つ分からないけれど、悪くない三年間になればいいと思う。
俺たちの高校生活は、こうして始まった。




