序章:結社の跡地にて〔一九〇三年、フルクオール十五日〕
「……君には何者にも劣らぬ、たった一つの優れた才能がある」
ふと、聞こえてきた男の声に意識を取り戻す。数時間だったのか一日だったのか、気を失っていたのか眠っていたのか――いずれにしても人の声は久々に聞いた気がする。
しかし、まだはっきりとしない混濁した意識の中、真っ黒に染まった己の両手を呆然と見つめていると、こちらの状況などお構いなしといった様子で、なおも男の声は頭上から響いてくる。
「それは、如何なる異界の瘴気に当てられても、自我を保つことができるという、類まれな能力だ」
「セレスタ……」
男の言葉を中断するように、もう一つの声が聞こえる。それが自分の喉から出た音だったと気づくのに少しの時間が必要だった。こちらに語りかけていた声の主も一瞬驚いたように言葉を中断して小さく嘆息を漏らした。
「彼女の事は、残念だった……素晴らしい素質を持った良い子だったのに」
素晴らしい子という男の言葉に、口から出た少女の名前と思い出とがリンクし始める。長く艶やかな茶色の髪に、人懐っこい大きな瞳が印象的なかわいらしい顔。その印象に違わぬ優しく快活な性格で、誰からも好かれていた彼女。
そうだ、自分はそんな彼女を――。
「この悲劇を引き起こした者を、許せないと思わないか?」
どこか冷淡な様子の声に現実へと揺り戻され、ふと辺りを見回す。端的に表すのならば「黒」とでも言うべきか――灰色の空の下、切り立った岩山、禿げ上がった木々や草原の上が、どこもかしこも黒いヘドロのようなもので覆われていたのである。
それらの黒い、物体とも液体ともつかないような形状のものは蠢き、胎動している。よくよく注視してみると、手や足のような形状をしている物体があり、そこでどうやらそれらは元々何かの肉片であったらしいことに気づく。
自分は知っている。それらの正体がなんであったかを。自分は確かに、あの惨禍を目の当たりにしたのだから。自分は、あの地獄の傍観者として、確かにこの場に存在したのだから。
そしてようやっと、自分がずっと硬い岩壁を背にしていたせいで、背中が随分と硬直してしまっていることに気づく。同時に、上から注がれている視線の主へと目が行く。
見れば、男も満身創痍という有様であった。右手で押さえている脇腹あたりの衣服は黒くにじんでおり――そしてその傷が原因なのだろう――少し神経質そうな顔は血の気を失って青白くなっている。この男の肉体は、間違いなく死に向かっている。
「君に、復讐を為すための刃を授けよう……一つは、エヌの写本。邪神イグノートゥスをこの書に封印すれば、奴等の力を引き出すことが可能だ……扱い方については、こちらの巻物にまとめてある」
男はそう言いながら跪いて、左手でペンダントと巻物を順番にこちらの前へと置いた。その手の先に、いつの間に置かれていたのか、一本の鞘に収まった剣がある――男はその剣を指さしながら、苦しげに続ける。
「そしてもう一つ……これは、原初の邪神が作り上げた神器。千年間、この神器を起動できた者はいないが……君なら必ずできるだろう」
「しかし、俺は……」
「確かに、君に解読できる神器は無かった。しかし、肝心なのは文字そのものを知っていることではない。解読しようという意志だ……私は、君はこれを解くためにこの世界に呼び出されたのだと、そう信じている」
男はそこで言葉を切ってゆっくりと立ち上がり、南西の空を見た。そちらへ視線を向けると、天を衝くような巨大な渦が巻き上がっている。大きな災害が襲ったのは、どうやらここだけではない――何か大きな力の奔流が、この大陸中を襲っているのだ。
「……さて、それでは君が倒すべき者の名を改めて告げよう。この悲劇を引き起こした男の名は、ヴィンセント・フェルノワール……虚空の鎖の魔術師であり、今はソルヴェーニャ共和国の大統領、そしてじきに広大な帝国の皇帝となるであろう男だ」
確かに、見た。昨晩、あの男が結社に、複数の軍人を連れて乗り込んできたのを。そして、次第に炎が上がり――その炎の中で、確かにあの男は笑っていた。
「憎いだろう……その怒りを力と変えて、刃へと昇華するが良い。己の弱さを嘆いている暇などあるならば、自分に向ける憎悪すらも力に変えるのだ。
君は断章ノモラスを解読し、数多の邪神を従え、そしてその刃を握り、あの男の胸にその切っ先を突き立ててやるがいい……!」
男の言葉の一つ一つに焚きつけられ、千々に乱れていた心の欠片が小さな篝火となって燃え上がり、一つの大きな感情が生まれてくる。
復讐の刃へと手を伸ばす。それと同時に、男は膝から崩れ落ちた。息も絶え絶えであり、そして黒く汚れた手を差し出して、その手を、鞘を握るこちらの手の上にそっと乗せてくる。
「そうだ、それで良い……もう一度言うぞ……君には優れた才能がある。動機は、なんだって良い……君にしかできないことを為し……そして、どうか私の夢を……」
そこまで言って、男はこと切れたようにその場へと倒れ込んだ。何故、この男が自分に神器を託したのか、その理由は分からない。最後の言葉を鑑みると、彼には何かしらの思惑があり、そして自分は彼の都合の良いように焚きつけられたとも考えることはできる。
しかし、その本人が死んでしまえば、後に残るのは自分の想いだけ。男の言葉は呪詛であったのかもしれないが、それでもかまわない――この胸にある喪失感も、虚無感も、そして怒りも、確かに自分だけのものなのだから。
漆黒の惨禍の中、臥した男と入れ替わるように立ち上がり、鈍色の空へと拳を突き上げ、そして宣誓する。
「殺してやる……殺してやるぞ、ヴィンセント・フェルノワール!」
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