#34 激動終えて父はいま
父が、娘を抱いていた。優しい顔で、抱いていた。力が抜けた感じで。私は、そんなことされたことないのに。想像も、できないくらいだ。私は、すぐに今の見た目になった。だから、抱っこの余地がなかった。嫉妬より、安心が大きい。父は、愛を表せない人だから。愛を表せないのに、今はちゃんと表せている。
タバコのニオイは、全くない。父と初めて会ったときは、微かにニオった。でも、今は部屋の馴染みの香りが、全面に来ている。娘は、もう10歳だ。すごく大きくなった。私の父に、お姫様だっこを頼んでいた。どんだけ仲がいいんだ。そう思った。私の娘だから、祖父ということになる。でも、私が蝉人間だから若くて、親子にしか見えない。
口の端は、上がっていた。口角は、常に上がっていた。人間で、ふたりを見られているから。姿は幽霊でも、時間経過は人間のものなんだ。それが、嬉しかった。蝉人間の時よりも、早く進んでいる感覚。なんだか、普通の人間になれた気がして、笑みが出た。嬉しさの、唾を飲んだ。
「じい。あと30秒は耐えてよ」
「うん、任せておいてよ」
「昔、ラグビーやってたんだっけ?」
「違うよ。それは、僕の弟ね」
「そっか」
「僕は、レスリングね」
「そうだったそうだった」
「だから、強いよ」
「本当にカッコいいね」
「ありがとう、朱音ちゃん」
「頑張れ」
「ああ、もう限界」
娘は、絨毯の上に降ろされ、バタバタしていた。もっともっとと、駄々をこねる娘。釣り上げられたばかりの、カツオのように。私も、そこに加わりたかった。3世代で、笑っていたかった。10歳の娘と、普通に会話がしたかった。でも、知っている。娘が私からの手紙を、大事に毎日読んでいることを。それだけでも、救われる。
6歳の誕生日。8歳の誕生日。そして、10歳の誕生日。頼んで、手紙を送ってもらった。そういう、サービスをしている場所があったから。いなくなっても、言葉が伝えられる。そこには、質問をたくさん書いた。でも、答えはない。それはそうだ。もしもひとつ願いが叶うなら、感触が欲しい。声が届けられることよりも。私の姿が、見えるようになるよりも。娘に触りたい。
幽霊を、10年も続けている。ここにずっといても、大丈夫みたいだから。娘は、自分の部屋に戻った。ドスンドスンと、階段を昇って。そして、机に置いてある、私の写真の前に座った。しばらく経ち、ゆっくりと口を開く。弱めの声を出した。質問に答えていくという、宣言だった。それからは、笑顔で早口で、私の質問に答えていった。今、流行っている、ライブ配信のごとく。




