潜入の影 静かなる掃討
「彷徨える勇者の休息亭」の熱気は最高潮に達していた。
帝都と古都の重鎮たちが一堂に会した最奥の寝椅子席。
そこでは今、マラートの野心を挫くための冷徹な情報交換が行われている。
名家の令嬢としての気品を崩さず、ヴェリティはヨハンの報告に耳を傾け、時折、組織の幹部らしい峻烈な判断を口にしていた。
だが、その華やかな光の輪から遠く離れた場所。
冒険者が集う酒場「彷徨える勇者の休息亭」の向かいの建物の影。
そこには、祝祭の影に潜む毒蛇のような視線があった。
赤金横丁の通りを、斜めに挟んだ館の二階にある空き部屋。
窓の隙間から、遠目鏡で休息亭の内部を覗き見る男がいた。
男の名はバルト。古都の裏社会で「暗い眼のバルト」として知られる、マラート秘蔵の密偵である。
「……報告通り、慈善司教ビディと魔法剣士ルーシーが接触している。第九統率長にこれ以上の後ろ盾を得させてはならん。予定通り、酒場ごと――」
バルトが懐の魔導起爆符に手をかけた、その時だった。
「――おっと。それは物騒だ。やめた方がいい。」
背後からかけられた、あまりに間の抜けた、しかし心臓を掴むような冷たい声。
バルトは全身の毛が逆立つのを感じ、反射的に腰の短剣を抜いて振り向いた。
そこには、黒い貫頭衣に細身の黒い穿袴という簡素な身なりのキロがいた。
いつもの「そこそこの盗賊」としての惚けた顔ではない。
月光を吸い込むような薄茶色の昏い瞳をした、無慈悲な執行者の顔だ。
「貴様、いつから……!」
「あんたが遠眼鏡を覗く前からだよ。……九歩」
キロが指先を僅かに動かした。
空間を切り裂く気の刃が、バルトが声を上げるよりも早く、その喉を正確に撫で上げた。
血飛沫が上がる隙すら与えない。
キロは崩れ落ちるバルトの体を、羽毛を扱うような手つきで受け止め、音もなく床へ横たえた。
「お姉さん方が、真面目な話の最中なんだ。邪魔しちゃ悪いだろ?」
キロは手慣れた動作で男の身体を探り、魔導起爆符と、古都への定期連絡用と思われる通信石を回収した。
さらに、高位錬金術を用いた特別な消滅剤を遺体に振りかける。
心臓が二十拍も打たないうちに、そこにいた刺客の存在は、衣服の一片すら残さず、虚無へと消え去った。
数分後。
キロは休息亭の裏口から、何事もなかったかのように店内に戻った。
付け台では、主人のガルバンが忙しく注文を捌いている。
「お、キロ。戻ったか。外の空気はどうだった?」
「ああ、ちょっと埃っぽかったよ。……それよりガルバン、俺にも麦酒を一杯頼むよ。」
キロは、入り口近くの隅の席に腰を下ろした。
そこからは、ヴェリティが背筋を伸ばし、ビディやヨハンと真剣な面持ちで語り合う姿が遠目に見える。
先ほどまで闇の中で繰り広げられていた死闘など露知らず、彼女が毅然としていられること。
その凛とした表情こそが、キロが守り抜いた成果だった。
(……やれやれ。これで今夜も、静かに休めそうだ)
キロは運ばれてきた麦酒の筒杯を傾け、喉を鳴らした。
刺客の脅威が消えたこと。
そして、帝都の安寧が辛うじて守られたこと。
その真実を知るのは、今夜もキロただ一人だけだった。




