酒場の賑わい
赤金横丁の石畳に夕闇が降りた頃、酒場『彷徨える勇者の休息亭』は、冒険者たちの熱気と安酒の匂いで満たされていた。
店内の喧騒が遠のく、最奥に位置する使い込まれた革張りの寝椅子。
そこには、一人の男が深い微睡みの中にいた。
名をキロという。
白磁器のように白い肌と端正な甘い顔立ち。引き締まった中背で細身の身体を、黒い長袖の貫頭衣と細身の黒の穿袴が包んでいる。
武器を持たない丸腰で、およそ冒険者らしからぬ身軽な姿は、没落貴族の放蕩息子と云っても通るだろう。
「……ふわぁ。……あー、よく寝た」
キロは小さくあくびをし、長い睫毛を震わせて薄く目を開けた。
視界の先では、いつもの顔ぶれが日常を謳歌している。
「おい、エゴン! またそんな端っこで仏頂面して。少しは客と喋れよ!」
「……俺の仕事は、酔っ払いの喧嘩を止めることだ。無駄口を叩く暇はない」
付け台の隅で、巨漢の用心棒エゴンが重々しく答える。それに対し、恰幅のいい店主のガルバンがガハハと豪快に笑い飛ばした。
「カイルさん、今日は大戦果だったんですって?」
看板娘のミラが、筒杯を運びながら中堅パーティー『銀の針』の頭目、カイルに声をかける。
「ああ、おかげさまでな。地下三層の人喰い鬼を仕留めた。だが、うちのドランがヘマしてよ。あやうく棍棒の餌食になるところだったぜ」
カイルが肩をすくめる。
その隣では、まだ装備も新しい若者、パウルが目を輝かせて聞き入っていた。
「すごいなぁ……。俺たちなんて、大鼠の巣を壊すだけで精一杯だったのに」
「ははっ、焦るなよ新人。死ななきゃいつかは俺たちの域まで来れる」
そんな男たちの会話を、紫煙の向こうで眺めていたのは、売れっ子娼婦のリンユィだ。彼女は退屈そうに指先で髪を弄び、寝椅子のキロに視線を投げた。
「キロさん、あんたもいつまで寝てるのよ。そんなに暇なら、今夜あたり私の部屋へ来ない?」
「……君に誘われるなんて光栄だね。お誘いは嬉しいけど、リンユィ。今夜はこれから用事があってね」
キロは甘い微笑みを浮かべて、柔らかく拒絶した。
周囲の誰もが、彼を、そこそこ腕の立つ盗賊だと思っている。
鍵を開け、罠を見つけ、戦闘は一切しない。それがキロだ。
まさか、この男が「超々凄腕の忍者」であり、高位の魔導師に匹敵する「呪文遣い」であり、禁忌の知識を操る「高位錬金術師」であるなどとは、誰も想像しないだろう。
(……本当のことを言っても、面倒なだけだしね)
有力パーティーからの勧誘、王宮からの依頼、命を懸けた英雄譚——そんなものはキロにとって面倒この上無い不自由の極みだった。
自堕落で怠惰な日々を楽しみ、気が向いた時だけ迷宮へと潜り、人知れず怪物を倒してお宝を手に入れる。
時折、そこそこ腕の立つ盗賊として助っ人に入っていれば、怪しまれて注目される事も、不審を招く事もない。
「キロさん! 今度、うちの助っ人に来てくれませんか?」
パウルが期待に満ちた目で駆け寄ってくる。
「『探索計画を聞いてから』で良ければ、考えとくよ。条件はいつも通り、報酬は『頭割りの一割増し』、仕事は『鍵開け・罠探知・罠解除』だけ。戦闘は不参加だからね。」
キロは寝椅子に深く沈み込み、再び目を閉じた。
いろんなものが見たくて、日夲の島国を出て、巡り巡って辿り着いたこの都。
喧騒、安酒、良い女、そして自由で怠惰な生活。
「……最高だね」
独りごちた彼の唇が、満足げに弧を描いた。
真の力を隠した最強の忍者は、今宵もまた、心地よい微睡みの中へと戻っていく。




