第87話 私の秘密
私の部屋には、一台の小さなノートパソコンがある。
ていっても、多分、そんな高い物じゃない。古くてスペックもそこそこの、本当にただのノートパソコン。
中に入っているのは、スマホのバックアップと、ドキュメントソフトだけ。
小説を書いていた……らしいから、それの下書きやネタ帳っぽいのが、あちこち雑多にファイルとしておかれてる。
退院したばかりの頃は、これを読んだら、記憶が戻るかも……なんて思ったけれど、本当にただのネタ帳だったから、あまり当てにはならなかった。『人狼の少女に出会って、いかがわしいバイトを始める』とか、『聖女に身体を治して貰うと、性的に気持ちいい』一体どこに記憶を戻すヒントがあるのやら。
………………というか、かつての私、だいぶ頭の中がいやらしいのでは?
そんな、成長した自分の性癖に少しため息をつくばかりだけれど、一つだけ気になるところがあるとするならば。
『日記』
シンプルに、そんな題名の一つのフォルダがあった。
パスワードがかかってて、当然、今の私には分からない。
黒江に聞いたら、適当にパスワードっぽいものを幾つか入れてくれたけど、どれも上手くヒットはしなかった。…………どうして、私がパスワードに使いそうな言葉を、黒江が知っているのかは置いといて。
日記……だから、多分、それは私の主観でみた記憶そのもののはずだ。
つまりそれは、今の私が、ついぞ失くしてしまった、空白を埋めるためのヒントだと思うのだけれど。
何を入れても、何度入れても、パソコンはエラーメッセージしか返してこない。
テコンという単調な音と一緒に、まるで今の私を、拒絶しているかのように。
わからない、何が書いてあるのだろう。そもそも、このパソコン、そこ以外はパスワードのロックなんて、何処にもかかってない。私のスマホやネットのパスワードは、黒江が大体把握しているくらいには、結構管理がガバガバなのに。
雑多に散らかった部屋の中で、一つだけが鍵がかかった、小箱があるみたいに。
そのフォルダだけが、何人も触れられないように、隠されていた。
そして、今日もまた、適当に入れた文字列がシステムに弾かれる。
お前は、この日記の持ち主じゃないのだと、言外にそう告げてくるかのように。
少しため息をついて立ち上がった。別に何の目的があるわけでもないけれど。
身体が冷えないように、カーディガンだけ羽織って、廊下の向かい、義妹の部屋にそっと足を向ける。
なんとなく、それとなく。
少しだけ、トクトクと心臓が鳴る音を聞きながら。
「……………………黒江、今、大丈夫?」
そうやって、少し震えかけの言葉を紡ぐ。
数瞬の間があって、中から落ち着いた優しい声が返ってきた。
「うん、入っていいよ」
そんな声に誘われて、扉を開けると、スマホをそっと伏せた黒江が、穏やかに微笑んで出迎えてくれる。
「…………お邪魔します」
恐る恐る、部屋の中に足を進めながら、こっそりと黒江の様子を窺う。夜中の時間に急に来たから、困らせてないかなと少し不安になってしまう。
「いらっしゃい、…………それで、どうしたの?」
だけど、黒江は気にした風もなく、軽く微笑んで私を見ていた。そんな様子に少しほっとしつつも、なんとなく不安な気持ちも微かに残る。
黒江の声が、たまたま、ほんの少し濁って聞こえたからだろうか。その瞳が、ほんの微かに、紅く濡れていたように見えたからだろうか。
目線で大丈夫? って、首をかしげると、なんてことはないように頷かれた。そんな様子に、安心するのだけど、同時にほんの少し胸の奥がチクっとする。
「えっと、何か用があるってわけでもないんだけれど…………」
喉から出る言葉はまごついて、はっきりしない、案の定黒江も不思議そうに首を傾げてるし。うーん、なんで私は、わざわざ黒江を尋ねてきたんだっけ。
わからない、理由はない、もしかすると、ただ―――。
「―――寂しかった?」
そう目を閉じながら、尋ねてくる黒江に、私は思わず喉が詰まるのを感じてた。
言葉を口にする前に、言い当てられてしまったような。
そんな恥ずかしさと、気まずさで、思わず手をまごつかせてしまう。
「えと…………」
そうして、所在ない言葉を、しばらく遊ばせていると、黒江はくすくす笑って、そっと手を広げてきた。その所作の意味を、少しだけ考えて、思いいたって、恥ずかしくて。
でも、結局、その誘いに受け入れられるがまま、ぽすんと黒江の両手の中に身体を預ける。
温かい感触が私の身体を、ぎゅっと抱きしめて、優しく撫でるように包んでくれる。それだけで、胸の中に巣くっていた小さな痛みが、ゆっくりと収まっていくような感じがする。
寂しさや、不安、痛みや辛さが、体温で溶けていってしまうみたい。
温かくて柔らかい誰かに、包んでもらっているそれだけで、心の澱がゆっくりと流れ出していく。
「…………ごめんね、こんな夜遅くに」
黒江の腕の中から、彼女見上げて、そう呟くと黒江は笑って首を横に振っていた。
「ううん、気にしない、気にしない。私も丁度、はるを抱きしめたかったし」
そうして、そんな―――恥ずかしさの極致みたいな台詞を吐いてくる。思わず顔が熱くなって、慌てて目線を逸らしてしまった。
だけど、視界の端っこで、そんな私をどこか愉しむように、黒江が笑っているのが目に映る。
うう…………。安心と恥ずかしさが同時に来て、情緒がおかしくなる。
かといって、今更逃げ出すわけにもいかないので、結局甘んじて、その腕に抱かれることにする。
そうやって、私より少し背の高い黒江に抱かれていると、なんだか、私の方がまるで妹のようにも思えた。
…………一応、姉のはずらしいのですが。記憶があったころの私は、どのように姉のフリをしていたのでしょうか。
なんて、考えたところでわかるはずもなく。
「………………」
というか、私はこうやって一か月の時を過ごしても、この義妹のことを、まるでちゃんと解ってない気がする。
優しくて、可愛くて、大人びてて、賢くて、気配りができる。そんな子どもが書いた理想みたいな、女の子。
私とは驚くほどに、不釣り合いなはずの、義理の妹。
でもそれと同時に、肝心なことは、黒江は何も教えてくれない。
どんな風に出会ったの、どんな風に一緒に居たの、それと、それと。
『My Dear』と刻まれた、あのリングは、記憶が戻ったばかりの時に、私と交わしたあのキスは。
一体、なんなの?
私達は本当に、ただの姉妹だったの?
そんな疑問を、いつか聞こう、いつか聞こうと思うのだけれど。
同時に、それを聞いてしまうのが、少し怖くもあった。
もし、そこで、語られた私の姿と、今の私があまりにかけ離れていたら。
今の私は、どうしたらいいんだろうと。
分からなくなってしまうような気がするから。
ふっと、私を包んでいた手が、そっと離れた。名残惜しさに思わず視線を上げると、微笑んだままの黒江はそっとゆっくり立ち上がる。
それから、私と連れ立ったまま、ベッドの方にゆっくり向かうと、そのまま二人揃ってぽすんと倒れた。
黒江のベッドの上で、私はぱちくりと眼を瞬かせたまま、にこりと笑う黒江を見ていた。
えと、何が起こっているのでしょう……?
いや、何が起こっているのかなんて、わかりきってはいるのだけれど。
「今日は、このまま、寝ちゃおっか」
そう言って黒江が、ぎゅっと私をもう一度抱きしめてくる。
二人して、ベッドの上で、抱き合うような格好になる。
ぬ、ぬぬ……?
脳の処理が追いつかない。
抱きしめられているところまでは、姉妹のスキンシップで説明がついていたと思う。うん。しかし、年ごろの二人が、ベッドで一緒に眠るというのは大丈夫なのでしょうか。
いや、入院してた頃は同じ部屋で寝てたけど、あれはあくまで隣のベッドだし。
というか、寂しくて、甘えに来たあげく一緒に寝てもらうというのは……もはや幼稚園児の所業なのでは? いや、記憶は幼稚園までしかないんだけれど。今の私のボディはあくまで17歳と言いますか。
顔がみるみるうちに、蒸気を帯びたように熱くなっていく。気づけば布団でくるまれているけれど、私の体温が高すぎて、サウナみたいになってきている。仮にも冬の夜だというのに。
むにゃにゃと、言語を失いかけた鳴き声だけが口から漏れて、少しじたばたしてしまうのだけど。
「こーら、はる。ベッド狭いんだから、暴れないでね」
そう言い聞かせられてしまうと、しゅんと大人しくなるしかない……。
加えて、優しく耳元で、吐息でくすぐるように、黒江の透き通った声が響いてきて、なんだか脳がいけない感じになってしまう。
うう、記憶が6歳までしかないのなら、情緒も6歳のままにして欲しかった。なんで羞恥心は17歳仕様なんだよう……。
そんな抗議を、神様に向ける間もなく、黒江の腕がゆっくりと静かに私の身体を抱き寄せてくる。少しぎゅっとされるけど、その締め付けがどうしてか心地いい。
誰かに抱き留めてもらってると言う感覚が、まるで私をここに繋ぎ止めているみたいだ。
「……………………ん」
そんな得も言われぬ気持ちに突き動かされるまま、結局、私はそっと黒江の身体に手を回してみた。
触れてみると柔らかくて、思ったより細くて、それでも確かに温かい身体が私の腕の中にすっぽり収まる。
まるで保護者のように微笑む彼女も、そうやって感じると私と同じ年の少女なのだと、そんなことに気付いてしまう。
そうして、ふと、顔を上げて、黒江のことを見上げると。
頬が触れそうなほどの近くに、その黒くて綺麗な、瞳が見えた。
そして、その目尻に、微かに何かが渇いていたような、そんな跡があることに気付いてしまった。
記憶を失くしてから、一緒に過ごした、一か月。
母のように、姉のように、私のことをずっと導いてくれた、そんな彼女のことを。
私は未だに、何も知らない。
自分のことばかりで手一杯で、差し伸べられる手にただ甘えて、縋ることしか出来てなかった。
黒江だって、きっと、不安で辛いことも沢山あるのに。
私は、それを何も知らない。
わかってる、それが望まれていることくらい。
黒江が、優しさで、気遣いで、それを隠していることも。
わかっている―――けど。
でも、そうやって時々、隠し損ねた痛みの残滓を、見つけてしまうと。
どうしても、胸の奥が、取り返しがつかないくらい、痛くなる。
わからない、どうして、こんな気持ちになるんだろう。
わからない。私は黒江のことを何も知らない。私自身のことさえも。
わからないけど――――。
「ねえ、黒江」
「………………なに? はる」
知りたいと思ってしまうのは、我儘だろうか。
「昔も……こうやって、一緒に眠ってた?」
「……………………」
あなたのことを、解りたいと想うのは。
「なんとなく、なんとなくね…………」
「………………」
私の、独り善がりだろうか。
「そんな気が…………ちょっとしたんだ……」
「……………………」
わからない。
「だから………………ね」
言葉と同時に、ゆっくりと瞼が落ちる。
温かさに包まれて、それが暗闇の中に、私の意識を溶かしてく。
そんな私を黒江は、優しい瞳で、どこか泣きそうな顔を浮かべたまま。
ゆっくりと、撫でてくれていた。
優しく、静かに、何かを悼むみたいに。
そして、その手にそっと、身を委ねたら。
私の視界は、ゆっくりと暗闇で覆われていった。
パチンと小さな音がする。
電気の消える音だろうか。
「おやすみ、はる」
最後に、そんなあなたの声を聴いたけど。
答えを返す、その前に。
私の意識は、暗闇に落ちていった。
静かに、静かに。
温かい眠りの中に。
あなたの腕に、包まれながら。




