第51話 妹と月明かりの夜—②
結局、くろえが泣き止むのには、少しかかった。
赤子のように泣く彼女を抱きながら、私はよしよしと背中を撫で続ける。
我ながら、依存させているなあって自覚もあるけど、今は仕方ないよねと誰にでもなく言い訳をする。
くろえの心がちゃんと自立したら、その時は、きちんと見守るようにしますから。
だから、せめて今だけは、この私にしか出来ない甘えを、手放したくない。
酷い独占欲だけど、どうしようもなく抗いがたいのも事実なのだ。
家族のような、友人のような、姉妹のような、恋人のような、最愛の君が。
私にだけ、その心の内の、深く暗い部分を晒してくれている。
それは、どうしようもなく、甘く蕩けるような、背徳の味だ。
…………我ながら、悪い女だなあ。くろえのこと、とやかく言える立場じゃないね。
だからまあ、せめてその罪滅ぼしとして。
たくさん、たくさん愛してあげよう。いつか、君が愛なんてもういらないと、うんざりするくらいには。
そうやって、君が私の手から巣立つ、その時までは。
たっぷり、たっぷり思い知らせてあげるとしよう。
あなたが、どれだけ愛されているか。
溢れるほどに、その小さな手では、持ちきれないくらい目一杯に。
「…………ん、ごめん。はる」
やがて、もそっと顔を上げたくろえは、涙で濁った声でそう謝る。
私はそんな彼女にそっと微笑む。
「んーん、いいよ、気にしなくて。……聞けて嬉しかった」
別に強がりというわけでもなく、本心からの言葉なのである。恐ろしいことに。
痛い話だった。苦しい話だった。くろえの心にとって、きっと生々しい程の傷だった。
その痛みを想うと、私の胸も確かに切り裂かれるような痛みが走って、抉られるような悲しみが湧くのも事実だけれど。
そんな痛みも悲しみも、それだけがあなたが心を許してくれ証だと想うと、つい嬉しくなってしまう。
あなたの傷も、あなたの欠けも、あなたの弱さも。
何もかも、何もかも愛おしく想える。心から、その痛みを分けてくれて、嬉しいとそう想う。
…………いや歪んでるな? 確実に健全な愛情ではない感じがする。
普通、こんな深刻な話を受けたら、もっと心を痛めるものではないでしょうか……。どうして、私は若干興奮しているんだろう。
思わず顔を覆う私を、くろえはどこか不思議そう見下ろしていた。
さっきまで泣いていたからか、挙動が少しだけ子どもっぽい。そんな姿も可愛いね。うん、末期だね。
「……どうしたの? はる、変な顔して」
「…………己の邪念と戦ってたの」
煩悩退散、悟りを開け。今はシリアスシーンなのだよ、私。
「……ふーん」
そんな私を見ながら、くろえはそっと私の首元を撫ぜてくる。未だに体勢は馬乗りのまま、くすぐるようにさわさわと。
「…………っふ、っく、ふひゃひゃひゃ」
五秒ほど抵抗したけど、結局抑えきれなくて、笑い出してしまった。くそう、シリアスシーンの才能がない。こんなんだから、書いてる小説もすぐにコメディ描写が混ざるんだ。
そのまま、しばらくくろえに、首元をくすぐられ続ける。まるで猫にするかのように。しかし、猫はこれを気持ちいいと感じるらしい。滅茶苦茶にくすぐったいんですけど。
結局、腹筋が痛むくらいに、しばらくくすぐられていた。くろえはその間、泣き跡こそあれ、無表情。まるで、変な生き物を観察するような視線で、笑い転げる私を眺めてた。
「………………」
「…………っひゃ……ひぃ……く、くろえ……や、やめて」
半泣きになりながら、引きつるお腹を抱えてどうにか懇願すると、くろえはようやく手を緩めてくれた。ひぃひぃと、息も絶え絶えになりながら、震える私を、くろえはまだじぃっと見下ろしている。
「なんていうか……はるは、温度差激しいよね」
そう言いながら、肩の力を抜いて、私の胸元にぼすっと顔を下ろしてくる。
私は腹筋の痛みに堪えながら、え? と動揺するばかり。そんなテンションの落差激しいかな、私。
「……えと」
「…………なんか、こんな人に翻弄されてたのかって、ちょっと拍子抜けするときあるよ」
……なんだかよくわからんが、見くびられている、というのだけはよくわかる。
「……ぐぬぬ」
どうにか威厳を取り戻さなければと、姉の本能が疼く。しかし、くろえが、はあって胸元でため息を吐くのがくすぐったくて、声を抑えるため反論できない。
そんな私をくろえは、上目使いでじぃっと細目で見ると、ぼふっと胸の谷間に顔をフィットさせて不貞腐れたような顔をさせてきた。
「…………嫌いにならなかったの? ……あんなこと言ったのに」
そうして漏れた言葉は、機嫌が悪いのに、恥ずかしがっている子どもそのものだった。
「…………まあ、私も邪なことは考えるから。性癖はいろいろだよ」
その中に、アブノーマルなことは多少含まれる。なにせ創作者というのは性癖に業を抱える者の名前なので。嘘である、私だけです。ごめんなさい、全国の創作者。
「…………私の葛藤、性癖で済ませられてるの?」
すると、くろえの視線が若干胡乱なものになる。あ、やばい、多分地雷を踏んだ。慌てて弁明を図ろうとするけれど、既に時遅し。くろえは不機嫌モードに移行してしまう。
「や、えと…………そういう意味ではなくてですね、あくまで私が淫乱というだけの話であって……」
なんか流れでとんでもないことを口走った気がするが、くろえの不機嫌モードは解除されない。ふーんと視線がそっぽ向けられて、つんとした表情をしている。私の胸の谷間に顎をうずめたまま。……くろえ、その状態だと、何しても可愛いだけだぞ。
「へー、ふーん、そうなんだー、性癖なんだー。そうかー、私の10年の悩み性癖なんだー、へー」
い、いかん、余計なこと考えている場合ではない。一刻も早く、この不機嫌姫のご機嫌を直さねば。しかし、10年積み上げたお姉ちゃんスキルによると、こうなった妹のご機嫌の取り方は……土下座しかない。私は10年間、いったい何をしていたんだ……。
「ち、違いまして……。あくまで、私の場合でして……えと、くろえの悩みの深刻さは、本当に重々承知しているんのだけれど、言葉の綾と言いますか……」
「へー、ふーん、へー」
そして、唯一の解決手段である土下座が、体勢により封じられている今。情けない言い訳が繰り返されるばかり、結局しばらく手詰まりの後、情けなく降参することにした。こうなっては、もう私にできることはない。
「…………ごめん、軽々しい発言でした」
そう両手をあげて言葉を漏らすと、くろえはふんと鼻を鳴らした。
「………………許す」
許してくれるんだ……この流れで。
そうして、そのまま私の胸に顔をうずめるとぐりぐりと、頭をこすりつけてくる。……この子は、私の胸を自分専用の枕か何かと思ってないか?
しかし、許されたばかりの手前、あまり強く言うことはできない。結局、諦めて私はまたくろえの背中を、そっと撫でることしかできなかった。しばらくは、専用枕に殉じよう……。
そうやって、少しだけ沈黙が流れた後、もぞっと胸元で動く感じがする。ちらっとそちらに目を向けると、くろえの眼が同じように私の方を向いていた。
「…………ずっと嫌われると想ってた」
そんな彼女の言葉に、私はそっと笑顔を返す。
「私が? くろえを? ―――まさか」
そう口にしてみるけれど、くろえの表情は上向かない。
「嫌われると想ったから、先に嫌われればいいと想った……できなかったけど」
そんな彼女の言葉を聞きながら、私はぼんやりとくろえの初めての告白を想い返す。
あの時は、可愛い後輩がだいぶ頑張ってくれたのだ。
「…………琥白ちゃん、様様だねえ」
今にして思うと、随分といろんな人にお世話になっている気がする。白乃さんとかお母さんとか色々。
「……今は、他の女の話しないで。……琥白のおかげなのはそうだけど」
しかし、うちの姫は今はそれをご所望ではない様子。それでも感謝を忘れないのが、いいところだけど。
「はいはい、ごめんね……。それにしても、そっかあ……。いつから、その……そんな想い隠してたの?」
なんとなく、くろえと過ごした日々を想い返しながら、ふと疑問に想ったことを、口に出してみる。くろえはそんな私を半眼で見つめると、ふんと軽く鼻を鳴らした。
「出会ってすぐ」
「え」
「性欲を向け始めたのは、大体5年前」
「ま」
未だに機嫌の悪そうなくろえは、真正面からそんな宣言を、平然とかましてくる。
さ、さすがに、その答えは予測してなかったというか……もっと遅い段階かと……。
「その間ずっと生殺し」
「ぐ」
いかん、なんか自分で墓穴を掘った気がする。同時に、もう取り返しもつかない感じがするけど……。
「だから、自重してって、ちゃんと家では身体隠してって、言ってるのに聞きもしない」
「にゃ」
ぐりぐりと顎で、私の肋骨を虐めながら、くろえはびしびしと、私を言葉で刺してくる。さっきの首絞めより、こっちの方がよっぽど効いてる。どういうことだよ。
「何回、押し倒してやろうと思ったか」
「ぐぬぬぬ…………」
あまりの劣勢に思わず、心の中の将軍が撤退指令を飛ばしてくる。しかし、将軍、組み付かれているため撤退できませぬ……。そんな私を、将軍は静かに見捨てた。
結局、苦悶を絞るように口を結んで、耐えることしか出来ない。さっきから、こんなんばっかりだな、私。
ただ、しばらくすると、くろえはふぅっと小さく息を吐く。
どうにか矛を収めてくれたのだろうか。どうでもいいけど、さっきから胸元でため息つくから、少しそわそわする。
ただ、ちらっとくろえの様子を見ると、少しだけ視線が伏せられていた。
そうして零れた言葉は、小さく消えりそうな声だった。
「…………親父が、そういう人間だった」
空気が、少しだけしんとする感じがした。
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