第50話 妹と月明かりの夜—①
「どうしてくろえは、あの時、私にキスしたの?」
そう問うと、くろえは淡い月明かりの中、そっと悲しそうに眼を逸らした。
「…………聞いても、面白くないよ?」
そんなくろえの言葉に、私はそっと首を傾げる。
「……話したくない?」
もしそうなら、無理に触れたくはない。触れたくはないけれど……。
でも、もし許されるなら、聞いてみたいというのも本音だった。
きっと、それが今の私とくろえにとっての始まりのピース。
この歪で、不安定で、それでも抑えようがなかった繋がりの出発点。
「…………」
君の心の奥で、蓋をされた、重く暗い秘密を開く、始まりの鍵。
触れるべきでないのなら、触れはしない。傷つけてまで、触れたくない。
でも、なんでだろう―――。
「教えて……ほしいな」
今なら、その鍵がほんの少しだけ開くような、そんな気がした。
私の言葉に、くろえは静かに目を伏せると、ゆっくりと腰を上げた。
「……中に戻ろ? ここはやっぱり少し冷えるよ」
そういって、月明かりが照らす窓際から、そっと部屋の中に入ってしまう。
暗がりの陰にくろえの流れるような黒髪が溶け込んでいく。そうしていると、まるでそのまま、暗闇の中にくろえが呑まれてしまったみたいだ。
思わずそれを追いかけるように、腰を上げて布団が引かれた部屋の中に、足を踏み入れた。
そうして、くろえに向かって、無意識に指を伸ばした瞬間に。
ふっと、手が静かに取られた。
そのまま、視界が急に暗転する。
え?
何が起こったか理解が及ぶその前に。
ぼふっと背中に柔らかい感触がして、身体が布団に受け止められる。
何が起こったのか分からない、どうしてそうなっているのかも分からない。
そんな私の上に、くろえは馬乗りになって、組み敷くように私を見下ろしていた。
月明かりが逆光になって、表情はうまく窺えない。両の手首は、くろえによって上から抑えつけられて、身体は身をよじってもさっぱり抜け出せない。
手首に感じるくろえの指は、冷たくて、震えてて、痛いほどに力が込められていた。
「―――犯したかった」
低い、声。
「傷つけたかった」
暗闇の底から、響いてくるような。
「何もかも奪って、私以外見れなくしたかった」
辛く―――苦しそうな声。
「ずっと、ずっと―――」
手をくろえの指から離そうとすると、それを抑えるようにさらに力が強くなる。しばらく、反射的に少し藻掻いて、やがて無駄だと分からせられる。
「はるのことを―――無茶苦茶にしたかった」
ふぅっと息を吐いて、身体から力を抜く。すると、ようやく手首を抑えていた力が微かに緩んだ。重くかけられていた体重も、少しだけ軽くなる。
「ねえ、はる。私は、本当は、そういう人でなしだったんだよ」
段々と手首に掛けられたくろえの指が解けてく。その指は私の腕を、肩を、浴衣越しにそっとなぞり上げて、やがて私の首に巻きつくように触れていく。
「ずっと、ずっと―――ずっとずっとずっとずっとずっと…………隠してた」
くろえの指がゆっくりと、私の首に食い込み始める。首を巡る血の流れが、自分でもわかるくらいに鮮明に感じられる。それがゆっくりと絞まっていくのも。
「それしか……知らなかった。それしか……教えてもらえなかった」
震えるくろえの指が熱を持って、私の命の境に掛けられる。息が短く小さく、荒れ始めて、喉から微かに高い音がする。
「だから……ずっと我慢してた。こんな気持ち、はるに向けちゃいけないって抑えてた……」
月明かりの陰になった、くろえの顔はうまく窺えない。視界も少しぼやけて、まるで真っ暗な孔が喋っているみたい。
「……なのに! あいつが―――クソ親父が来て、私、私はやっぱり、どうしようもない人でなしだって突き付けられて。もうどうしたらいいのかも、わからなくって―――!!」
声が荒れてる。指は震えて、どうしようもなく冷たくて。
まるで吹雪の中で凍えてるみたいだ。
だから、私は自分の首にあてがわれた手に、そっと自分の手を静かに重ねた。
冷たい。冷たいなあ、どうしてこんなに冷たいのだろう。
そんな陶器みたいな指を、ゆっくりと温めるように。
「だから………………嫌われればいいんだと想った」
ぼたっと静かが、私の浴衣に小さな染みを作った。
暗闇に慣れた目が、月明かりを背にしたくろえの表情を、段々と露わにしていく。
「無理矢理―――キスなんて―――酷いことしたら。はるは嫌ってくれるって」
ぽっかりと開いた虚ろな孔のような顔の奥には、子どもみたいに顔をぐしゃぐしゃにした君の姿だけがあった。
「本当の―――こんな醜い私を知ったら―――はるは、拒絶してくれるって」
あーあ、相変わらず、くろえは泣くのが下手だなあ。
「そう想ってたのに――――」
もうくろえの手は、私の首を絞めつけようとはしていない。まるで、親の手に縋るように、弱弱し力で添えられているだけ。
だから、その手をそっと静かに辿って、君の頬を優しく撫でる。
濡れた頬、歪んだ表情、泣き腫らした目。
そこにいたのは、何でも出来るフリだけしてる。
幼くて、不安でいっぱいの、女の子。
可愛い、可愛い、私だけの最愛の人。
「おいで―――」
そう声をかけてあげれば、泣きつくように私の腕の中に、その濡れた顔を跳び込ませてくる。
それをぎゅっと抱き留めて、涙も嗚咽も、その全てを腕の中に留めてしまう。
きっと、もっと健全な解決法もあるのだろう。
本当はくろえの心を癒すために、たくさんの人を力を借りて、ゆっくりとその苦しみを解きほぐしてあげるべきなのだろう。
もちろん、いずれ、そういう手助けは求めるべきだけど。
でも、今は。
今だけは、この子の、苦悩も、痛みも、嫌悪も、悲哀も。
今だけは、全て、私のものにしていたい。
震える肩を受け止めて、泣きじゃくる顔を抱き寄せて。
この子の心を、今だけは、私のものに。
そう願っていたら、ふっと君の顔が一瞬離れて。
そうして、勢いよくそのまま、唇が奪われる。
貪るように、乱暴に、でもどこか縋りつくように。
まるで、あの時、初めて私にキスをした時のように。
涙で濡れた唇は、酷く熱くて、いつもより少ししょっぱい。
くろえは、まるで自分の存在を刻み付けるかのように、私の唇の内側を犯し続ける。
水音が繰り返す。熱と濡れた感触が、理性をドロドロに溶かしていく。
縋るように繋がれた手は、震えながらただ、私を求めてた。
そんな、痛々しいはずの交わりが。
どうしようもなく、気持ちいいと感じてしまうのは。
やっぱり、私もどこか壊れているからだろうか。
二人揃って、きっと大事な何かが欠けたまま。
心に空いた、孔と孔を擦り合わせていくように。
求める君を、ただぎゅっと抱き留める。
今は、もう、それだけでいい。
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