第49話 姉と月明かりの夜
フロントに用事がある、と言ったはると別れて、私は独り部屋に戻ってきた。
電気もついてない、誰もいない旅館の部屋は、なんだか静かでうすら寒い。
まるで空っぽな私みたいだ。そんな光景をぼんやりと眺めながら、電気のスイッチに触れかけて一瞬手が止まった。
部屋の奥、窓際から微かに光が漏れている。暗く、蒼く、灯にも満たないような、そんな淡い明かり。
誘われるように、暗闇の中のその場所へ足を進めて、そっと空を見上げた。
すると、雪を降らせていた雲の隙間から、微かに月の光が覗いて見えた。
冷たくて、静かで、どことなく寂しくなるのに、確かに私を照らしてくれる月光。
なんとなく、明かりもつけないまま、私は窓際の椅子に腰を下ろした。
足元を、窓から伝う冷たい空気が、そっと静かに流れていく。あまり長居していると、風邪でも引いてしまうかな。
でも、今はどうしてか、その明かりを見ていたかった。
夜の狭間で、微かに私を照らす、そんな光をただ見上げていたかった。
※
扉が開いて、電灯の光が僅かに部屋に差し込む。電気がついてないことに、少し慌てたようなはるの声が響いてくる。
「わたっ……あれ、くろえ?」
そうやって、呼ばれたから、そっと扉の方を振り向いた。
「なに? はる」
そうやって、問いかけるとはるは、少し不思議そうに首を傾げた後、何を思ったかそのまま電気もつけずに私の傍までやってきた。そうして、私と同じように窓際の椅子に腰を下ろす。
「どーしたの、アンニュイなお気分ですか?」
そうやって、何でもないふうに尋ねてくるあなたに、私はそっと笑みを返した。月明りの中でも、あなたの白い肌はよく映える。
「…………うん、ちょっとね…………どらまちっくな気分になりたかったの」
そうやって嘯くと、はるはくすくす笑ってた。そのままそっと、自分の膝を抱えると、あなたは楽しそうに首を振る。
「そーなんだ、じゃあ、私も折角だから、どらまちっくに浸っちゃおっと」
そう言いながら、はるは足を組んで、ふふんとそれっぽいポーズを決めている。なんか、随分と古臭いドラマのイメージな気がするけれど、まあ、言わぬが花かな。
そうして、二人で、なんだかわざとらしいような、アンニュイなポーズを繰り広げあって、やがて、おかしくなって笑い出す。
「っぷはは、あー、だめ。我ながら、似合わない」
そうやって涙を拭きながら笑いを零すと、はるはしたり顔で笑みを深くしていた。
「そう? くろえは、何やっても似合うよ? 美人だし」
「いや、ダメ。こーいう、真剣なのがね。なんか恥ずかしくなっちゃう」
「そんなことないよ、ほら、膝組んで。そう、でちょっと顔を窓の外に向けて。うん、それから寂しそうな顔してみて。………………ふふふ、雪見美女の出来上がり」
「………………っぷ、ダメ。保たない、五秒で終るよ、雪見美女」
「ぷくくく、まあ、雪は儚いものだからね」
そんな下らないやり取りを、月光だけが照らす部屋の中、はると二人で繰り返す。
そうして、笑い疲れたころに、ふっと静かな時間がやってくる。
外の世界は、雪が音の全てを飲み込んでしまったように、何の音も連れてこない。
私達の微かな身じろぎと、息遣いの音だけが、淡く暗い部屋の中に響いてく。
「…………そういえば、はる、フロントに何しに行ってたの?」
今日、若干挙動不審だったのと、何か関係があるのかな。そう思って尋ねてみると、はるの視線が、見るからにしどろもどろになっていく。
「え……えと、な、なんでもないよ。あ、ほら、アメニティとかね、何あるか見てたんだー、あはは……」
「へえ、なんかいいのあった?」
尋ねてみるけれど、はるの視線は余計にあちこち目移りするばかり。……相変わらず、嘘吐いてるのがわかりやすいね、はるは。
「え……えと、ど、どうだったかな……」
そのまま、ジーっと眺めると、あうあうと見るからに余裕がなくなっていく。そのまま、見つめ続けていたら、勝手に自白しそうだけれど。でも、程なくして、答えは問うまでもなく見つかった。
「んー…………、あれ、爪切ってたっけ?」
癖ではるの指先に目を向けた時、その変化にふと気づく。たしか、今朝まではそこそこ伸びていた気がするけれど。
そんな指摘に、はるは背筋をぴんっと伸ばすと、見るからに顔が青くなっていく。月明かりの中だから、そのまま暗闇に溶けて消えてしまいそうだ。
「え、えと、そ、そうだっけ。えへへ……」
「うん、ていうか、温泉では引っかかるくらいには、長かったじゃん。わざわざ、さっき切ってきたの?」
「う、うう…………」
そう指摘すると、はるは視線を逸らしたまま、気まずそうに指を合わせていた。……さっき、私を引っ掻いたのを、そんなに気にしていたのだろうか。事故みたいなものだし、さして気にすることでもないと思うけど。さすがに疵もの云々は、どう考えても冗談だったわけだし。
そんな思考をしばらく繰り返して、そういえば、指摘してからはるの顔が微かに紅くなっていることにふと気づく。
………………照れ、爪、二人で泊まり、フロントに行ってまで気に掛けるようなこと。
数秒思考して、ああ、と思わず唸ってしまう。なるほど、つまりそういうことか。
そうして、はるも私が気づいたことに気付いたのか、みるみるうちに顔が紅く成り果てて、あうあうと言葉にならない声を漏らし始めた。
「……えろはる」
相変わらず、一見初心っぽいのに、耳年増ですこと。そうやって糾弾すると、はるはしゅるしゅると身体をすぼめていく。膝を抱えて若干涙目にまでなっている。
「うう…………、ごめんなさい、邪でごめんなさい」
そんなはるの様子にため息を吐きつつも、私自身も頬が少し熱くなる感じがする。はあ、こっちはそれどころじゃないっていうのに。
…………いや、でも昼間に「続き期待してるね」とか言ったの、私か。いつもの態度も鑑みれば、割と自業自得。というか、だいぶはる側から、歩み寄ってくれてるともとれる。
しばらく己の所業を少し恨むけれど、ちらっと窺ったはるの表情が相変わらず、朱に染まっててなんだか胸の奥の苛立ちを煽ってくる。
だから、だろうか、少し魔が差してしまった。
「―――したいって言ったら、させてくれるの?」
そんな私の言葉に、はるの身体が露骨にびくんと揺れる。そのまま湯気でも出そうなくらいに真っ赤になると、顔を俯かせて、消え入りそうな声で何かを呟いた。
「………………ら」
「…………え?」
「……………………くろえが……したいなら」
…………………………実は人の性欲煽る天才なんじゃないかな、この人。
身体の奥でぐつぐつと何かが煮立ち始める。今夜はそういうつもりじゃなかったんだけど、ええと、こういうのなんて言うんだっけ、据え膳か。あれ男の人限定じゃなかったのか。
しばらく、顔を両手で覆って、深く、深くため息を吐く。身体の中で沸き立ちはじめた熱気をどうにか抑えるように。
そんな私を見て、はるは困惑したように、おろおろしていた。
……いやまあ、別にはるは悪くはないのだけれど。でも、ちょっとは困っておいて欲しい、何故なら私が困っているから。
「………………しないよ、別に。そういうつもりで、旅行に誘ったわけじゃないから」
というか、多分、私自身が今心の内に抱えているものにケリをつけないと、はるの身体に触れる資格を持てない気がする。
「そ、そか…………ごめんね、早とちりで……」
ただまあ、そんな私の心情ははるは知らないので、少し気まずそうに視線が逸らされる。その表情に、微かに寂しそうな色を纏わせたまま。
…………これは、あれか。結果的にお誘いを、拒絶してしまった感じになったのか。
別にそういう意図はなかったのだけれど。はるの表情は見るからに落ち込んでいるように見える。…………ていうか、わざわざ準備までしてくれてるんだよね。段々、私の方が謝るべき案件に思えてきた。
しばらく迷った末に、仕方なく、ため息をついて私はそっと立ち上がった。
え? と困惑するはるをよそに、その隣に歩んでいって、座ったままのあなたにそっと頬を寄せた。
あなたはしばらく困惑していたけれど、やがて覚悟を決めたようにぎゅっと目が閉じられる。まるで、今から爆発でもおきるみたいな表情だ。そんな姿にくすっと笑ってから、そっとその唇を静かに塞いだ。
舌はあえて、絡めない。唇と唇を触れさせるだけの、月明かりの中の静かな口づけ。
触れる柔らかさ、滲む温かさを感じながら、数秒でそっと顔を離した。
やがて、ゆっくりと開かれたあなたの眼は、どこか蕩けるようにぼんやりしている。
胸の奥で微かに罪悪感が顔をもたげかけたけど、今だけはその声をそっと無視する。だって、ここでは姉妹ではないのだし。
今だけは、何の憂いもないはずだと、縋るように自分に言い聞かせる。
そう、今だけは。
「………………はる?」
そうしてあなたに改めて目を向けると、はるはどことなく口元を抑えながら、少し視線を俯かせていた。瞳はまだ、どこかぼんやりとしたままだ。
「………………ううん、なんか、懐かしい気がして」
言われた言葉の意味が少しわからなくて、困惑する。
「…………懐かしい?」
どうして? そう意味を乗せて、言葉を紡ぐと、はるはそっと静かに頷いて私を見つめた。
「うん……なんか、はじめてくろえに……キス、されたときのこと想い出しちゃって」
そんなはるの言葉に、私の声が一瞬、止まった。
「………………」
「ほら、あの時も、こんな感じだったじゃない? 二人で、暗い部屋で、私が椅子に座ってて……」
そうして、そんなあなたの唇を、断りもなく奪ったのだ。
まだ冬も初めの頃。
許されるはずのない行いを。
「…………」
「そういえば、今なら聞いてもいいの―――?」
そんなあなたの言葉を聞きながら、私はそっと眼を逸らす。
「どうしてくろえは、あの時、私にキスしたの?」
ふと見上げた月明かりは、確かにあの時そっくりで。
淡く、暗く、静かに。
雪も散る、冬の夜の冷たい空から。
何も言えない私たちのことを、ただ黙って照らしていた。




