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もう姉妹には戻れない  作者: キノハタ
閑話

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閑話 母は待つ

 私が小さい頃にはるを抱きしめた時間は、普通の親子の何分の一だったのだろう。


 愛してると伝えた数は、大好きと笑いかけた数は。


 あの子にあげられた幸せの数は、一体いくつあったのだろう。


 普通、母親という生き物は、子どもが産まれた時点で子どもが世界の全てとなるそうだ。


 本能にそう刻まれている。自分の身体から産み落とされた我が子を、愛し、それを第一に考える、それが普通。


 そう言う意味では、私は随分と出来損ないの母親だったのだろう。


 幼い頃に、紅い夕焼けに染まる海に心を奪われてから、私にとっては『綺麗』という想いが全てだった。


 雲の切れ間から夜闇を裂く朝日。全てを吹き飛ばすような蒼い空。どこまでも広がる終わりのない地平線。暗闇の中、懸命に瞬く無数の星々。


 高校生で偶然賞を貰って、大人になってから知り合いに声を掛けられて、あれよあれよという間に沢山の人に持ち上げられて、気付けば少しの名の売れた写真家になっていた。


 でも、私の心はずっと変わらない。『綺麗』なものが見たい、それに心を震わせたい、その淡い震えを私以外の誰かにも伝えたい。


 それが私の全てだった。それ以外何も要らなかった。


 普通、大人になるうちに、そういった価値観は段々と変わっていくものらしい。


 自分以外の誰かが大切になる。守る人、共に歩く人が出来て、その人と過ごす時間が一番になっていく。


 幸いにも愛し合える人に恵まれて、自然と子どもも授かった。膨らんでいくお腹を撫でながら、私もこの気持ちが変わっていくのかなと、ぼんやりと考えたこともあったっけ。


 ただ悲しいかな、結論から言えば、そんなことはさっぱりなかった。


 出産を終えて、吐くような思いをしてリハビリを経て、私の頭にあったのは『さあ、次は何を撮ろうか』という言葉だけだった。


 はるを初めて抱いた時、感じた想いは嘘じゃない。


 嬉しかったことも、可愛かったことも、愛おしかったことも、嘘じゃない。


 でも、私の心は、未だに紅い夕焼けに見惚れたあの時のままで。


 産後のリハビリを終えてすぐ、私はカメラを担いで家を飛び出していた。少し困ったような顔の旦那に、まだハイハイもできないはるを預けたまま。


 幸か不幸か、それをたくさんの人に望まれた。旦那とはる以外の人にだけど。


 仕事の合間、時折旦那から連絡が来て、はるの様子を聞いていた。ただ最初は嬉しかったはずなのに、段々と煩わしくなってくる。旦那の言葉の端々に、どうして帰ってこないんだ、まだはるは小さいのにって、当てつけのような響きが混じっていく。


 わかってる、そんなこと。でも、妊娠の期間で空いてしまった穴を、取り戻さなきゃと思ってた。だから私は、前以上に必死に仕事をし続けた。すると次第に、旦那からの連絡を、取らないことも段々増えてしまった。


 親としてはまあ、問答無用で失格だろう。


 写真家として、何百万という人に賞賛されようと、きっと私は優先順位を履き違えていたのだ。


 そんなことに気付いたのは、育児に限界が来た旦那が離婚を申し出た、まだはるが二歳にも満たない頃。


 …………いや、多分、この時ですら、私は自分の過ちを完全には、認め切れていなかったかな。


 どうにか誤魔化して、自分のことを優先して、はるに注ぐリソースを最低限でやりくりしようとした。自分の『綺麗』を追い求める心こそが、一番大事なのだと言い聞かせて。


 そんな日々を想い返すと、私に母親の才能は紛れもなくなかったのだと想う。


 最愛の娘よりも、自分が大事で。隣で寄り添ってくれていた人すら、蔑ろにして。


 そう言う意味では、結婚詐欺なんかに引っ掛かったのもある意味、天罰だったのかもしれない。それか、そんなわがままな心の隙に、うまい事つけこまれたのだろうか。


 そうやって、はるが産まれて10年近く、眼を逸らし続けた過ちを、私は皮肉にもはるの自身の口から聞かされることになる。


 『ねえ、お願い!! いいでしょ!? 私、卒業式なんだよ!!』


 『卒園式も! 入学式も!! いつも、いなかったじゃん!!』


 『ずっと! ずっと!! 我慢してきたよ!! あと何回我慢すればいいの!?』


 『寂しくても言わなかったよ!! 悲しくても言わなかったよ!! 授業参観も! 運動会も! 演奏会も! ずっとずっと独りでいたよ!! だから、一回くらい見に来てくれたっていいでしょ?!』


 『お母さんが忙しいのも知ってる! 大変なのも知ってる! 大事に思ってくれてるのも知ってるけど!!』


 『私の―――私の想い(寂しさ)はどこに置いておけばいいの?!』


 『ねえ、お母さん』


 『もう、独りぼっちはやだよ…………』


 それが、あの子が私に告げた、産まれてから二度目の我儘。


 裏を返せば、その時になるまで、私は心のどこかでいい訳を続けてたんだ。


 仕事があるから、沢山の人に迷惑をかけるから、そのうち会いに行けるから。


 そうやって、ずっとあの子の心を、見過ごしてきた。


 私が撮る写真に代わりはあっても、あの子の母親は私一人だったのに。


 そんな簡単なことに、10年以上経つまで気付けなかった。


 自分が30年以上かけて丹精込めて創り上げてきた世界が、ある日突然全てひっくり返って、間違いだったと気付かされた気分だった。


 禄でもない母親だね、と我ながら思う。実家から勘当されるのもやむなしだ。


 どうにか取り返そうと笑顔を作って、はるを沢山抱きしめたけど。きっと、あの子の心から、私に置いていかれた記憶は生涯消えないのだろう。


 理想の母親って何だろうね……。


 全てを投げ打ってでも、産まれたばかりのはるを抱きしめておくべきだったんだろうか。でもあの時の私に、写真家として造り上げた経験も、地位も、人脈も全てを投げ捨てるようなことが出来ただろうか。


 そんなことがもし出来てしまったら、それはもはや私じゃないような気がするけど。


 わからない、あれから5年近く経って。前より頻繁に帰って、沢山抱きしめるようにしてるけど、それでもまだわからない。


 私は、どうするべきだったのだろう。


 あの子の胸に空いた空っぽの孔を、埋めてあげられる日はくるのだろうか。


 今でもそんな不安を抱えたまま、必死に母親のふりを続けてる。


 少しでも、少しでも、あの子達に注ぎ損ねた愛を、あの子たちが信じられなくなった愛を、埋め合わせられるようにと。


 そんなことが本当に出来てるのかは、わからないけど。


 今の私には、きっとそれくらいしか、償える術がないから。


 ただ、この話にせめてもの救いがあるとするならば。


 私の娘は、本当の意味で独りぼっちではなかった、ということくらいだろうか。


 もし、はるが本当に独りだったら、私はあの子の我儘を、一生聞くことすらなかったのかもしれない。


 あの子の背を押して、隣に居て、一緒に歩いてくれた、もう一人の娘がいたから。


 きっと、私たちは、まだこうして家族でいられるのだと、そう想う。





 



 ※



 「はー…………憂鬱、どうして元日の夜に、また仕事に行かなきゃいけないのかな……」


 そうやって私が玄関でため息を漏らすと、はるも仕方ないなあという風にため息をつく。


 「そりゃそうだよ……。そもそも、お母さん、休みでもないのに無理矢理抜け出してきたんでしょ? 照屋さん、滅茶苦茶慌ててたからね? 『紅梨さん、飛行機間に合う?』ってメッセージめっちゃ来てたし……」


 そんなはるの言葉に私は、そうだけど……と唸りながら、名残惜しさが捨てきれない。もう少し……もう少しだけ、娘たちとイチャイチャしていたかった。特にくろえは落ち込んでるから、もっと慰めてあげたかった。普段しっかりしてるから、倍はよしよししてあげたかった。


 そうして若干目に涙が滲む私に、さっきまで寝ていたくろえは、少しぼんやりとした瞳で静かに頷いていた。


 「……お義母さんも……頑張って。また何かあったら電話するから」


 しかもこんなにボロボロなのに、私のことを気遣ってくれる。いい子過ぎて、そのまま号泣しそう。思わずばっとくろえを抱きしめて、せめて今わしゃわしゃと頭を撫でておく。精一杯、この子にも愛が伝わるように。


 「うう……ごめん、二人とも。次は絶対! 絶対ちゃんと休みを取って、帰ってくるから!」


 そう言いながら、横でちょっと引き気味になっていたはるも、無理矢理捕まえて抱きしめる。力一杯、目一杯……するとはるが怒るから、ほどほどな力加減で。


 そうして、少し名残惜しさを感じながら、二人とそれぞれ目を合わせて、私は玄関を後にした。扉が出るまで、はるは若干苦笑いで、くろえは少しボーっとした顔で見送ってくれていた。


 そうして、バタンと、扉が閉められた後、ふっと息を吐いて気持ちを切り替える。


 今日はこのまま空港に行って、明日には遥か北欧の大地だ。オーロラを撮って、そのまま現地の個展に顔出して、その後も予定は詰まってる。


 次の休みは何時になるかはわからないけど、桜が咲く頃までには、もう一度、ちゃんと帰りたい。スケジュールは、無理矢理こじ開けることになりそうだけど…………。すまん、照ちゃん。


 漏れた白い息を、背後に棚引かせながら、早足で下に待たせてるタクシーの所まで歩いてく。


 そんな思考の隙間に映るのは、つい数時間前にはるが告げたこと。


 秘密がある、どうしても言えない秘密、でもいつか打ち明ける秘密。


 それはきっと、くろえとの間に交わした、二人にしかわからない大事な想い。


 回る思考が勝手に、くろえとの会話や、二人が交わした視線を思いうかべて、その答えを推察しようとし始める。


 「…………」


 ただ、何かしらの言葉を、その思考がはじき出す前に、私そっと首を横に振って思考を頭から追い出した。


 はるが、いつか必ず告げると言ったのだ。じゃあ、その時まで待てばいい。


 勝手な想像をして、勝手に思い込んで、あの子たちの心を決めつける必要なんてどこにもない。


 私はただ、あの子たちを信じていれば、それでいい。


 だってもう、あの子たちは、あの子たちなりに幸せになろうとしているのだから。


 なら後は、ただ、信じていれば、それでいい。


 …………そう想いはするのだけれど。


 トン、トンと、階段を下りながら、それでもふっと想ってしまう。


 理想の親子とはなんだろう。


 理想の姉妹とは何だろう。


 普通の家族は、どうやって幸せになるのだろう。


 わからない、私たちの家族は、きっと間違いだらけだったから。


 ただ、それでも、過ちの先にも人生は続いてく。


 はるにははるの人生が、くろえにはくろえの人生が。


 何を失って、何が欠けても。


 あの子たちは、あの子たちなりの幸せを、きっとずっと探してる。


 だとするなら私に出来ることは、それをちゃんと受け止めてあげるだけ。


 あの子たちが、導き出した答えに、逃げずにちゃんと――。


 ふぅっと思わず、長く白い息が零れる。


 「親って難しいねえ……」


 そんな愚痴をこぼしながら、下で待っていたタクシーに乗り込んだ。


 運転手のおじさんは、少し不思議そうに首を傾げた。でも、やがて私が家族関係で悩んでいると解ると、楽しそうに笑い出す。


 「お客さん、親子喧嘩でもしましたか? うちも、一人息子が大変でしてね。ついこの間も、進路のことで喧嘩したばかりなんです、どうにもね―――」


 そんなおじさんの身の上話を聞きながら、私は窓からあの子たちがいる方向をぼんやり見ていた。


 普通の母親にはなれなかった。理想の親子にもなれなかった。


 でも、それでも、失ってばかりでも、きっとないはずだと。


 まだ、歩みは止まっていないはずだと、そっと自分に言い聞かせて。


 「―――うちも、バツ2で娘が二人いるんですけど。ちゃんと母親出来てるか心配で……」


 「はっはっは、ちゃんとした親なんて、この世界に何人いるかわかったもんじゃないですよ、お客さん」


 そんな運転手の元も子もない話に笑いながら、年も明けたばかりの、夜の街を通り過ぎていく。


 そんなタクシーから見上げた夜空は、空の奥に沈んでいくように真っ暗で、想いも心も全て飲み込まれてしまいそうで。


 愛すべき娘二人のことを、そんな空の向こうに想いながら。


 こんな夜が、相変わらず、どうしようもなく。


 綺麗だと想う、私がいた。

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