閑話 妹を抱きしめる、いっぱい
お母さんを見送って、扉が閉まる。
相変わらず、嵐のような人だった。おかげで、過ぎ去った後の玄関は、しばらく嘘みたいに沈黙だけが流れてく。
…………さて、これからくろえと何を話そうか。とりあえず、早とちりで焦った分、謝ろうか。それか、慰めるのが先だろうか。
なんて、考えていたら、ぽんっと肩に重みが乗ってくる。ちらりとそちらに目を遣ると、無言のまま妹の頭が倒れてきていた。
ぽんぽんとその頭を撫でながら、そっと手を引いて誘導する。さっき起きたばかりだからね、まだ少しぼーっとしてるのかも。
風邪を引いた子どもにそうするみたいに、そっと寄り添って、くろえを彼女の部屋のベッドまで連れていく。
ベッドに腰掛けたくろえの瞳はどこか、とろんとしていて、普段の凛々しさはなりを潜めてる。少ししんどいのだろうか、大丈夫かなと心配になる。ただ、同時にそんな姿が可愛いなと思ってしまうあたり、私も大概どうしようもない。
「…………大丈夫? くろえ。お腹空いてたら、何か持ってこようか?」
言いながら、ぼんやりと何か食べれるものあったかなと考える。この状態でおせちは少し重いよねえ……。
……なんて、思考をしていたから、すっと伸びてきたくろえの腕に、私は気が付くことができなかった。
「……わっ!? っぷ?!」
気づけば視界が、ぐるんと横になる。ぼふっとベッドに受け留められて、首に巻きついた腕を見て、ようやく何が起きたのか理解する。
ベッドに寝ころんだままのくろえが、私を引っ張ったのだ。おかげで、二人で仲良くベッドに寝っ転がる形になっていた。
思わずちらっとくろえの顔を窺うと、相変わらずどこかぼんやりとした顔をしている。ただ、気のせいかほんのりと、頬が赤いような……。
「…………」
「…………くろえ?」
そうやって、尋ねてみるけれど答えはない。代わりに、腕がぐっと引き寄せられて、そのままくろえの頭が私の胸にうずまった。
おかげでくろえの顔は見えないけれど、顔が少し熱いから本当に熱でも出ているのかもしれない。
仕方ないなあってため息をつきながら、赤ん坊のようにうずくまる彼女の背中に手を回して、頭を撫でる。
伝えたいことも、話さなきゃいけないことも、沢山ある。
でも今は、この普段しっかりしすぎな妹を、甘えさせる方が先決だろう。
ずっと寝ていたから、少し荒れた髪を優しく指で梳かす。微かに震えて強張った背中を、解きほぐすように撫で続ける。
そして、少し熱を持った、その額に、ほんの少し口づけをする。
そしたら、君の身体が一瞬びくんと揺れた。……気付かれたかな、気付かれないくらいの気分でやったんだけど。
「…………はる」
少し低くて掠れた声が、胸の元から響く。熱をもった息が擦れて、少しだけくすぐった。
「んー……なに? くろえ」
返事をしながら、もしかしてデコチューのことを咎められるかなと、一瞬身構える。……いや別に、やましいことをしたつもりもないけど、なんとなく。
「…………ん」
ただ、そんな懸念は杞憂に終わり、くろえは軽く身をよじりながら、もう一度私の胸に顔をうずめた。座りが悪いから、もっといい位置を探そうとするみたいに。
「………………」
ちょっとくすぐったくて、声が出そうになったのは内緒。
「…………」
そしたら、また沈黙が少し流れたけど、今度はさっきよりは短かった。
「…………こら、わざとやってるでしょ」
そう言って、胸元で時々、みじろぎを繰り返すくろえのおでこに、ぴんと指を立てる。こやつ、私がわざとくすぐったいように動いてきおる。そ知らぬふりで人の胸で遊びよって。
指でぐいーっと、無理矢理顔を上げさせると、くろえはどこかすまし顔で目を閉じていた。ぐぬぬ、動揺の色、一切なし。
「…………いいじゃん、だって、落ち込んでるもん」
ぐりぐりとおでこをいじめども、帰ってくる答えはつんけんしている。
そして何より恐ろしいのが、この妹、そんな自分の所作が可愛いのを熟知している。普段澄ました表情のクール系妹が、時折見せる我儘甘えの破壊力を解ったうえで、使っておる。くそう、卑怯だ。こんなのに耐えられる姉はいない。
ぐぬぬと唸る私をよそに、くろえはまた私の胸に顔をうずめ直すと、素知らぬ顔で頬ずりを続行する。服の隅からはみ出た素肌にあえて、顔を擦りつけるのもわざとやってる。いい加減、くすぐったいけど、今声を出したらなんか負けな気がするし……。
「ぬぬぬ、さっきまでの愁傷さは、一体何処に……」
そう愚痴を漏らすけれど、今の妹には効きやしない。
「別に、愁傷さを棄てたつもりもないよ? ただ……、その分の癒しを求めてるだけだから」
そうして敢行されるセクハラに、しばらくなんとしたものかと、考えたけれど結局答えは出なかった。お姉ちゃんはお手上げですと、両手を上げて、甘んじて頬ずりを受容れる。
そんな私をくろえは端目でじーっと見ていたけれど、やがてさすがに飽きたのか、動いていた頭がすっと止まった。
そしてゆっくりと身体を持ち上げると、寝ころんだままの私を、静かな瞳でじっと見降ろしてくる。
「…………くろえ?」
不思議に思って声をかけるけれど、答えはない。くろえの瞳は、まるで何の色もないみたいに、電灯が作る逆光の中、静かに私を見据えていた。
そんな瞳を見ていると、どうしてか胸の奥でじわりと何かが広がっていくような、そんな感触がする。…………なんだろ、この感じは。
そう想ってしばらく思考して、数秒後に、その感情の意味を思い出す。
ああ、そういえば。
「―――はる」
出会ったばかりの頃のくろえは、よくこんな目で私を見ていた気がする。
表情もなく、感情もなく、まるで人形がそこにあるような。
それでいて、その奥に、ほんの微かな揺らぎを湛えているような。
そんな、不思議な瞳で。
「…………なんか、懐かしいね」
「………………?」
思わず漏れたそんな言葉に、君は少しだけ首を傾げて。
それから指が、私の身体を這うように、ゆっくりと伸びてくる。
そしてお腹の上に、くろえの細くて長い指が、そっと添えられて。
おへそ、肋骨、わき腹、肩、首。
そうやって、動いていく指のくすぐったさに耐えながら、その指が私の頬を撫ぜるのをただぼんやりと待つ。
その途中で指が私の首元を、優しくなぞった。まるで猫の首を撫でるみたいに。私はそれを少し首を傾げて、甘んじて受け入れる。
そうしていると、なんだか不思議と安心してしまう私がいる。
別に何が解決したわけでも、言うべきことを言えたわけでもないけれど。
こうやって、肌と肌で触れあって、君の存在を感じるだけで。
この胸は不思議と和らいでいく。
どうしてだろうねえ……。
そうして、少しだけ緊張が解れたからだろうか。
さっきまで口にするのを迷っていた言葉が、少しずつだけど、自然と顔を出してくる。
「ねえ、くろえ……」
「…………なに、はる」
「今……どんな気持ち?」
「………………ちょっと、疲れたかな。一杯喋ったし……あと、ごめん。はるはお母さんに、打ち明けようとしてたのに、邪魔しちゃった」
「…………あはは……いいよ。あれは私も……焦っちゃってたとこあるし」
「………………そっか。……でも」
「………………うん?」
「でも…………今は、ちょっとだけ、痛いのマシかも」
「…………どこか、痛かったの?」
「…………うん、別にどこってわけじゃないけどね。痛かったよ、ずっと、ずっと、ほんの少しだけ」
「…………どうして、マシになったんだろうね」
「わかんない……でも、ちょっとは何か……言えたからかな」
「…………ふうん…………ならよかった」
「……………………うん」
ぽつりぽつりと、言葉はゆっくり漏れていく。
まるで、眠る前に子どもの枕元で、お伽話を誰かが読んでいるような。そんな小さな声で。
「…………」
「………………ねえ、はる」
君の声がゆっくり響く、その声と連なるように、くろえの身体が私の上に覆いかぶさっていく。
「…………なに? くろえ」
そう尋ねてみるけれど、すぐに答えは返ってこない。代わりに、くろえの脚が、私の腰辺りに這うように乗ってきて、両の手首がくろえによってぎゅっと抑えつけられる。
「………………好き? 私のこと」
そう尋ねる君の顔は窺えない。俯けられて、視線は合わせないようにされている。それがくろえにしては珍しく、自信のない、怯えたような様子に見えた。
「…………好きだよ……大好き」
口にするのは少し恥ずかしかったけど、出来るだけ、声が揺るがないように言葉を告げた。そんな私の声に、手首に添えられた君の手が、一瞬だけびくっと揺らぐ。
すると君はどうしてか、何かを堪えるような表情を浮かべた。
まるで、まるでどこか、身体のどこかがどうしようもなく、痛むみたいに。
「私は…………自信ないや」
そうして、漏れた言葉も、泣きそうなくらい震えてて。
「………………何の自信?」
そのまま、ぼたぼた雫が落ちてこないのが、不思議なくらいだった。
私の問いに、くろえはしばらく押し黙ってから、ぼふっと頭がまた私の胸に振ってきた。まるで零れそうな、何かを隠すみたいに。
「…………なんだろ……誰かに……好きでいて………もらえる自信かな」
胸に当たる感触は、微かに震えて、熱くて……少し湿っぽいのは吐息のせいかな。
「…………そっか」
君の身体の弱い震えを、感じたまま私はそっと眼を閉じた。
「…………」
その言葉の、本当の意味は分からない。
誰かに好きでいてもらえる自信なんて、どうやったら湧いてくるのだろう。そんなの、私にもわからないし、自信ないけど―――。
それでも、私はあなたに笑っていて欲しいから。
「じゃあ、自信がつくまで、一杯言うよ」
眼を閉じたまま、私は笑って、そう告げた。
「…………え?」
「くろえが、信じられないなら、信じられるまで一杯言うよ。好きって、大好きって。くろえが、飽きたって言っても止めないから。もうやめてって、言っても、心の底からわかるまで、ずっと言うから―――」
大言壮語を。無理滑稽を。笑って、笑って、口にする。
「―――そしたらね、きっとくろえはしばらくしたら、こう想うの。『あれ、私、実は愛されて当然じゃない? 好きになってもらうのなんて、当たり前じゃない?』って。言霊っていうのかな、人間、実際に言われ続けたら、いつのまにかね、それが本当になっちゃうときがあるんだよ」
わからない、本当にそんな日が来るのかな。本当に、心の底に空いてしまった孔を、埋めるようなことができるのだろうか。
わからない、でも、言葉にする。それがいつか、きっと形になると、ただ信じて。
「――――だからね、好きって一杯言うよ。くろえが、ちゃんと信じられるまで」
そうやって私はずっと、ありもしない『お姉ちゃん』のフリを続けてきたのだから。
だから、きっと、大丈夫。
「ねえ、大好きだよ。くろえ」
「ホントに好き、めちゃくちゃ好き、世界でいっちばんだいっっ好き」
きっと、きっと、きっといつか。
君が涙を堪えた記憶より、君が笑みを浮かべた想い出のほうが、多くなるように。
沢山、沢山、君に大好きと伝えよう。
心についた疵は消えないけれど。
零した涙も戻りはしないけど。
それでもいつか、そんな記憶すら、笑い飛ばせるような、そんないつかが。
きっと、来ると信じているから。
すっと、私の手首を抑えていた、君の力が少し緩んだ。
だから、その手を思いっきり伸ばして抱きしめる。
きっと、いつか。
そう願いながら、交わした唇の感触は。
熱くて、甘くて、幸せで。
なんでか少ししょっぱくて。
そうしている間だけは、この世界に溢れて止まない痛みも、全部忘れていられるような気がしてた。
だから、もし、できるなら。君も同じであればいい。
こんな、温かくて幸せな胸の鼓動が。
君の胸の中で、微かでも、共に響いていたらいい。
そんなことを、ただ願う。
きっと、いつかと、祈るように。
「ねえ、くろえ。―――大好きだよ」
そうして、涙が溢れそうな君に向かって。
精一杯の笑顔を浮かべながら。
君の幸せを、願ってた。
ただ、それだけを。




