第44話 妹と心の整理
くろえが口にしたのは、あの冬の初めの頃の、とても断片的な情報。
お義父さんが会いに来たこと。
また自分の子供にならないかと言われたこと。
それを私が遮ったこと。
その後、お義父さんから連絡は何もないこと。
ぽつぽつと途切れ途切れに、小さな子どもが悲しい記憶を、少しずつ思い出すみたいに喋っていた。
お母さんはそれを黙って聞いた後、話し終えたくろえをぎゅっと抱き寄せた。
くろえはそれをどこか、ぼやけた瞳で受け容れていて。
私は、そんな二人を何も言えないまま、ただ黙って見ていた。
結局、私はくろえがあの時、何を告げられていたのかをよく知らない。知るべきでもないのかもしれないけど。
それでも、くろえの胸の奥に深くて消えない疵が残っているのだけは、わかってしまう。
そんなことを想うと、私の胸までじわりと痛むような感覚がする。
そうして数分程、無言の抱擁を終えた後、くろえは少し疲れたからと言って部屋に戻った。
私は部屋の前まで付き添った後、くろえがベッドに突っ伏して目を瞑るのを見届けた。
口から漏れた息が少し重くなるのを、悟られないようにそっと抑える。
君が眠りにつくのを、邪魔することのないように。
ふっと見上げた窓の外で、淡い陽光が空に昇ろうとしてる。
そんな光景を、私はただ何も言えないまま見つめてた。
朝陽の中で目を閉じる、君の微かな寝息だけを聞きながら。
※
「……くろえ、大丈夫だった?」
リビングに戻ると、お母さんはそう言って、少し心配そうに首を傾げる。私は堪えていた息を漏らしながら、ゆっくりと頷いた。
「うん、ちょっと疲れたから眠るって」
言いながら、お母さんの向かいの席にそっと腰を下ろす。お母さんはどこか、何かを考えるような表情で、じっと窓の外を見ていた。
「気持ちをずっと抱えこんでたのかもね。ああやって、口にするのも、凄く頑張ってくれた感じだったし」
お母さんの言葉に頷きながら、すっかり冷えてしまったカフェオレを、少し啜る。
……そう、あのことを、口にするのはくろえにとって凄く勇気のいることだったはず。そしてそれは、未だにお義父さんのことが、くろえの中で決着がつかないまま燻っているということでもある。
「…………だよねえ」
思わず漏れるため息が、重く沈んでいくような感じがする。くろえがまだそこまで抱え込んでいることに、気付いてなかった自分が腹立たしい。
お母さんに、私たちの関係を言わなきゃって想いでいっぱいだった。くろえの心はまだ、それどころじゃなかったのに。
もっと、たくさん相談すればよかった。何もかも早とちりしてしまった。
「それにしても、あいつ、この期に及んでよく顔出せたもんだね。くろえを置いて行った分際で……今度会ったら、絶対とっちめてやる……」
「あはは…………まあ、もう来ないと思いたいけどね……」
ぐるるとライオンのように唸るお母さんに苦笑いを浮かべながら、少しだけあの男のことを思い出す。
……今になって冷静に考えると、多少、違和感もある気がする。どうして今更、くろえを取り戻そうとなんてしたんだろう?
あの後、別に音沙汰もないし、そこまでこだわってなかった……? うーん、それも少し違う気がするけど……。
なんて思考を巡らせていると、不意にぽんぽんと音がした。その音に釣られて、ふっと顔を上げると、お母さんが無言で手を広げて待っている。
「…………」
「えと……なに? ハグ?」
そう尋ねると、うんうんと無言で頷かれた。
……うちのお母さんは、私を小さい頃、置いて行った分の埋め合わせのつもりなのか、最近は多少過剰なスキンシップ癖が出てる。まあ小さい頃は、求めてやまない行為だった気がするけれど、さすがに思春期も過ぎると恥ずかしさの方が勝ってくる。
「ほら、はる、カム」
「………………ええ」
ただそうやって渋っても、この人は基本的に諦めない。無理に逃げ出そうものなら、地の果てまで追ってきて抱きしめられるに違いない。世界的写真家のバイタリティを、そんなとこでばかり発揮しないで欲しい。
というわけで、止む負えず、仕方なく、渋々と、席を立ってその腕の中にゆっくりと身体を預ける。恐る恐る、おっかなびっくり。
と、散々警戒してたんだけど。
ガッと。
私が射程圏内に入った瞬間に、腕が爆速で伸びてきて、そのまま咄嗟に逃げようとした私を捕縛してくる。暴れてみるけど、まるで意味なし、タコに掴まれた小魚みたいにじたばたしながら抱きしめられる。
「ふふふ、捕まえたー!」
「なに!? なんなのもう!」
咄嗟に腕の中から出ようともがくけれど、生憎私の貧弱ボディではなすすべもなく、数秒と待たずに制圧された。結局、諦めて抱きしめられることになる。
そんな私を、お母さんはどこか満足げに眺めながら、そっと微笑んていた。
「ありがとね、はる」
「え……何が?」
私なんか、お礼言われるようなことしたっけ……?
そう首を傾げるけれど。
「くろえを守ってくれたんでしょ?」
お母さんは、優しく微笑んで、そっと私の耳元に頬を擦り寄せていた。
「………………まあ、そりゃあ」
ちょっと予想外の答えに、思わず少し口をすぼめてしまう。それでもお母さんは気にした風もなく、静かに微笑んでいた。
「さっすが、お姉ちゃん。妹をちゃんと守ってくれたんだよね」
「まあ、うん…………」
自認でお姉ちゃんというのは、別に構わないのだけれど、誰かに言われるのはどうしてか恥ずかしい。私がそれに見合う自信がないからだろうか。
そうやって、ぐりぐりと寄せられるお母さんの頬の感触を感じながら、ちょっとバツが悪くて顔を逸らしてしまう。お母さんはそんなのお構いなしだけど。
「ただまあ―――」
だけど、一瞬お母さんの視線がすっと細められる。え、って思わず声を漏らすけど、ちょっとだけ時遅し。
「―――ちょっとお叱りポイントがあるとすれば、そんな大事なことがあったなら、お母さんすぐに連絡して欲しかったかな?」
そういって、少し剣呑な視線で見られると、私は思わず押し黙るしかない。
だってまあ、それはそう。本当はお義父さんがやってきた時点で、連絡を入れるべきだった。遅くとも、後でこんなことあったよと、報告はしてしかるべきなのだけど。
「………………」
……あれ? なんで報告しなかったんだっけと、思考することおよそ数秒。
「何か言えない事情でもあったの?」
…………脳裏に浮かんだのは、くろえに初めて唇を奪われた、あの夜の光景。
Qどうして、こんな重大な事件を報告しなかったんですか?
Aそれより重大なことが、直後に起こって、それどころじゃなかったから。
…………言えねえ。言えるはずもねえ。
「………………いや、ちょっと、やむにやまれぬ事情が」
「はーるー?? じじょうって、具体的に、どーいうことー?」
ねめつけるような母の視線から目を背けながら、よくよく考えればあの事件がくろえにとって、何かのトリガーだったのかなとか考える。どう刺激されたら、あの事態に及ぶのかはさっぱりわからないけど。
そうやって、しばらく母の詰問を、誤魔化し続けること数分。ようやくお母さんはため息をつきながら諦めてくれた。ただ、未だにハグからは開放されない。
そうして少しだけ落ち着いた時間で、ふと想う。
あの冬の初めの事件が、くろえにとって、きっと何か大きな転換点だったのだ。お義父さんのことも、私としたキスのことも。
そして、それはまだ決着がついていなくて、その踏ん切りがつかない限り、先には上手く進めないのだろう。
だからあの時、くろえは私の言葉を遮ったんだろう。
だとしたら、私にできることって何なのかな。
姉として、家族として、友達として――――何よりずっとそばに居ると決めた、想い人として。
「…………ねえ、お母さん」
零れた言葉は静かに、水面に雫を落とすように、ぽつりと漏れた。
「……何? はる」
お母さんは少しだけ首を傾げながら、不思議そうに私を見た。
「もし……もしもね―――」
少しだけ、躊躇いがある。この言葉を口にしてもいいのだろうか。
この人に打ち明けて、何か悪い結果にならないかと。少し、迷ったけれど。
「―――もし、私たちが、お母さんに……その……凄い大事な秘密を、隠してるっていったらどうする?」
気付けば、声は自然と口から零れていた。まるで、胸の奥から言葉が出口を探して、自分から出て行ったみたいに。
そんな私の言葉に、お母さんは少しだけ、考える素振りを見せた後、こちらをじっと見る。真っすぐと揺らぐことなく。
「…………んー、どうかな。内容によると思うけど。……それはずっと隠されてる予定なの?」
そんな母の言葉に、私は静かに首を横に振る。
上手く言葉に出来ないけど、きっと、それはできないことだから。
「……ううん、いつかは必ず言うことになると思う。……いつかは、絶対」
きっと、それをこの人に隠したままだと、私たちは幸せにはなれないから。
「そう…………今はまだ、言うべき時じゃないってこと?」
お母さんは、何かを確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いでく。
「…………うん、今は、まだ」
まだ、きっと、私たちは準備が足りないのだと思う。目を閉じたら、さっきのくろえの苦しそうな姿が、思い浮かんでしまうから。
「…………そう、じゃあ待ってる。はるが言うって決めたんなら、いつかはちゃんと言ってくれんでしょ?」
くろえの準備もそう。私の準備も、もしかしたら必要なのかもしれない。
覚悟は決めた。でも、最後の一線を踏み越える勇気が、私はきちんとあるのだろうか。
「…………うん」
そしていつか、この関係に、私たちはどこかで答えを出さないといけない。
それがどんな答えかは、わからないけど。
膝を抱えたまま、ポケットの中にある指輪をぎゅっと握りしめる。
いつかは、必ず。
あの子を、幸せにするために。
そうやって、胸の中で自分の意思を確かめていると、お母さんは背後でくすっと可笑しそうに笑った。
にたにたと、どこか窘めるような表情で。
「ふふ、ただね、はる。おかーさん、こう見えて世界を渡り歩いてるので、ちょっとやそっとのことじゃ驚かないよ? どんな驚愕の秘密を見せてくれるか、期待してていいってことだよね?」
言いながら、背後で母の視線が怪しくきらりと光る。私は思わずうぇって、呻きながら少し視線を細める。
「……なんか趣旨変わってない?」
そう言われると、なんか自信なくなってくる。どうしよう、いざ秘密を打ち明けたら、『そういう人、たくさん見たことあるよー』……とか言われたら。何も問題はないはずだけど、なんか、変にショックを受けてしまう気がする。
そんな私の憂慮を知ってか知らずか、お母さんはけたけたと笑い続けていた。
「なんのことでしょー? あ、秘密と言えば、はるは何時になったら小説見せてくれるの? お母さん楽しみにしてるんだけど?」
ぐっと呻き声が思わず漏れる。咄嗟に腕の中から脱出しようとするけれど、両脇をがっちりロックされていて、抜け出せない。ぐ、ぐぬぬ……。
「……えと、いや、その、こう……見せにくい作品だから、その」
必死に言い訳を試みるけれど、物理的に精神的にも、一切に逃げられる気がしない。怪しく光る背後の視線から、頑張って目線を逸らすけど、じりじりと私を追い詰めるように迫ってくる。
「ふふふ、全然オッケーだよ。……あ、官能小説? いいよ、私、全然偏見ないから!」
「違う! 違うから! …………いや違う……はず」
最近、描写が怪しい気がするけど、そこまではいっていないはず。ていうか、親に自分の書いた性描写を見られるとか、どんな拷問だ。
さっきよりも必死に暴れて、抱擁から脱出を試みるけれど、さっぱり出られる気配がない。心なしか、さっきより拘束が厳しくなってる気さえする。
「心配しないで! お母さん、こう見えて、人の心を動かすプロだから! あ、知り合いの編集さんに見せてもらおっか? あー、どうしよっかなー、一杯褒められて、親子で書店に並んじゃったら。ふふふー」
「だ、か、ら、嫌なのーーー!!!」
世界的な天才写真家に、高校生の凡才が書いた小説を見られるとか、それはもう拷問通り越して処刑なのである。編集さんも、私なんかの書いたもん見せられても、苦笑い必至なのである。この特別天才無敵母は、そこんとこまるでわかってない。
というわけで、しばらくそうやって親子の攻防を繰り返していたのでしたとさ。
結局、私たちは、秘密を伝えることはできなかったけど。
こうやって、秘密を抱えることだけを許されて。
この先、ちゃんと言える時が来るのかもわからないけど。
今できるのは、そんな日がいつか来ると、信じ続けることくらいだろうか。
君が自分の心にちゃんと答えを渡せる、そんな日を。
まだ、部屋の中で眠る君を想いながら、ただ願う。
いつか。いつかきっと、と。
今はただ願うだけ。
ポケットの中の誓いを、確かめながら。
今は、ただ。
君の見る夢が、少しでも穏やかであれば、それでいい。
あとはこの色々解ってる癖に、肝心なところはわかってない、傍若無人天才無敵な母親の処遇だけかな。懐が深いのは確かなんだろうけど……。
「どうして?! お母さん、こーみえて天才なんだよ?! 見る眼は確かだよ!?」
「……だから、嫌なの!!」
これを、子の心、親知らずという。
または、凡才の心、天才知らずともいう。いってくれ。




