第43話 姉に救われる―③
それは、ずっとわかっていたこと。
私がはるに抱いた憧憬は、結局、醜い欲望の集積だ。
母親がいた記憶がないから、母性を求める。
抱きしめられた記憶がないから、愛着を求める。
安心を貰った記憶がないから、支配を求める。
愛された記憶がないから、その身体を求める。
恋と呼ぶのすら烏滸がましい、欲に塗れの心に巣くった、ただの空洞。
その孔を埋めるのに都合が良かったのが、たまたま傍にいたはるだった。
結局、ただそれだけの事。
わかってた、こうやって事実を告げられるずっと前から。
わかってたはずだ、このままはるの隣にいることが許されないことは。
わかっていた―――はずなのに。
男の声を聞くたびに、胸の奥からぐずぐずと、黒い何かが零れ落ちていく。
幼い頃の記憶が、姉妹として過ごした想い出が、ぐちゃりぐちゃりと血で染まった何かに塗りつぶされていく。
瞳の奥から、重油のような真っ黒い雫が、滲んでいくような感覚があるけれど。
現実の私は、涙一つ、零すことすらできもしない。
だって、そんなもの、もうとっくの昔に枯れ果ててしまったから。
わからないよ、どうしたらいいの。
「お前が決めろ」
わたしには、わからない。
「あの姉の傍を離れるか」
いやだよ。
「このままあの女を犯すか」
それもやだ。
「お前が決めろ」
わからないの。
どうしらいいの。
わたしには、もうなにも。
わからないよ。
「たすけて」
おねえちゃん。
「ねえ、私の妹に―――何をして―――るんですか?」
※
それがはじめ、誰の声か、わからなかった。
静かで、丁寧な口調のはずなのに、その奥底はどうしようもない何かに、震えているような。
揺らめき立つ業火が、ある一定の温度を越えると、ふっと静かになるような。
そんな途方もない何かを、内に抱えたそんな声。
仰ぐように、俯けていた視線を上げた。
そこにいたのは、この10年間ずっと見てきた、小さな背中。
いつもおっかなびっくりで、些細なことにすぐ怯えて、自信なさげにしていた姉の後ろ姿。
その―――はずなのに。
「お久しぶりです、10年前はお世話になりました。
――――で、これはなんですか?」
はるの表情は、あの男に向けられているから、上手く窺えない。
声も落ち着いていて、パッと見れば、ただの久しぶりにあった親戚との会話の様だけど。
「……何って、久しぶりに親子の会話をしてるだけだよ? 久しぶりだね、灰琉。くろえと話して、少し感情が籠ってしまってね、動揺させてしまったかもしれないけど。決しては悪気はないんだ。だから―――」
「―――御託はいいです。私はどうして、くろえがこんな顔をしなくちゃいけないのか聞いてるんです」
聞いたことのない声だった。10年間ずっと一緒に居て、一度だって、はるがこんなに怒っているところをみたことがない。
「……やれやれ、困ったな。私としても不本意な流れになってしまってね―――」
「あと、その『善い人』のフリ止めてもらえませんか? さっきまで、そんな顔、くろえに向けてなかったでしょ?」
そんな姿をぼーっと見ていると、机に乗せていた手に、はるの手がそっと重なった。
優しく、静かに、さっきまで血の気の一つも感じられなかった私の指を、ゆっくりと温めるように。
そして、そんな私たちを、あの男は静かに瞳を細めて見つめてた。取り繕うために張りつけていた笑みは、いつのまにか色を失って、無機質な表情が剥き出しになっている。
「…………なんだ、ただの愚鈍な落ちこぼれかと思ったら、存外、よく見てる。あの母親より、見る目だけはあるんじゃないか」
声は、元通り、低く胡乱なものになる。そんな声を聴くだけで、私の中から体温が奪われて身体が無意識に震えだす。
でも、はるの手が重なっている部分だけは、どうしてか温かいままだった。
「それはどうも。―――で、あなたは何をしていたんですか?」
「……………………」
私の手にかかるはるの指は、そっと慈しむように優しく添えられている。でも、もう片方の掌は、震えるほどに握りしめられていた。
「私の妹をこんな顔にさせて―――どんな下らないことを言ってたんですか?」
「…………さあな、知りたければ、そいつに聞けよ」
胸の奥が、ぎゅっと潰れそうなほどに傷んだ。息が喉につっかえて、声を塞がれる。
思わず顔を伏せて視線を隠す。誰から……? はるから……?
そうだ、さっきの話を、はるに聞かれたら―――。
私は―――。
「なるほど―――、聞く意味のない話だってことは、わかりました」
止まりかけた息が、そこで一瞬だけ、安堵に緩む。でもすぐにまた、息が逸りそうになってしまう。
「…………どうかな実際聞いてみたら、そう思えないかもしれんよ? なにせそいつは、お前のことを――――」
あの男はそう言って、どこか嘲るように嗤って、ゆっくりと口を開いた。
まるで、そうやって、私の秘密が―――この醜い欲が暴かれるのを、愉しんでいるかのように。
だめ、だめ。
知られたら、気付かれたら。
この想いは、こんな醜い私のことは。
はるに知られたら――――。
そう、思わず手を伸ばしかけた、その瞬間に。
水音がした。
はるの手元から。
数瞬、何が起きたかわからないまま、呆然とする。
あの男も、時が止まったように、口を開いたまま。
そんな中、はるだけが静かに動いてて。
ことんと、いう音と共に、水の入っていたグラスがゆっくりと机に置かれる。
そうしてはるは、濡れた男を見下ろしながら、その口を開いていた。
「もういい―――黙って」
「あなたが何をしようが、あなたが何を言おうが関係ない」
「もうくろえは、私の妹なの。誰にだってあげない、誰にだって傷つけさせない」
「もしこれ以上、あなたがくろえを傷つけるなら」
「私は、あなたを許さない」
しばらく、世界から音が消えてしまったような気がした。
それくらい、現実感が失われていたような時間の中、はるだけ揺らぐことなく、あの男を見据えていた。
怒りも、激情も、慟哭も。
何一つ、表情には表れていないのに。
その瞳だけが、静かに揺らめいているような。
そんな時間が、ただ流れていた。
そうして、時が動き始めるのに、一体どれだけかかったんだろう。
あの男は、ゆっくりとはるに視線を向け直すと、色のない瞳でそっと尋ねた。
「……許さないって、どうやって? ただの餓鬼のお前に、何ができる?」
……そう、実際問題、私たちはまだ子どもで、相手は悪意を持った大人なのだ。
どれだけ啖呵をきったところで、私達には具体的には何もできない。
はずなのに―――。
「―――どうやっても」
はるの声は、淀みなかった。
答えにはなってない。根拠もない。
合理的に考えれば、ただの子どもが、必死に喚く強がりでしかない。
それでもはるは、揺るがなかった。
まるで、自分がそうすることに、何の疑問も抱いてないかのように。
……そんなわけあるはずないのに。
「……そんなわけあるかよ」
そもそも、本当の私のことを知られたら。
「そもそも、本当にそいつのことを解ったら」
そんなことは、言えなくなる。
「そんな戯言は、口に出来なくなるぞ?」
だって、はるは知らないの。
「なにせ、お前は知らないからな」
私が、どれだけ醜いか。
「そいつが、どれだけ人でなしか」
はるのことを、どう想っているか。
「お前のことを、どんな目で見ているか」
もし、知られたら―――。
「もし、知っちまったら――――」
私は――――。
「お前は―――」
「―――関係ない」
「あなたがくろえに何を言おうが」
「くろえが私に何を想おうが」
「関係ない、私が守ると決めたから、この子を守るの」
「理由なんて必要ない、くろえが何者かも関係ない」
「たとえこの世界で、誰がこの子の敵になろうと」
「私だけは味方なの」
「だから、私はあなたを許さない」
「だから、私はあなたを認めない」
「くろえを泣かせる、あなただけは」
「誰が許しても、私だけは絶対に許さない」
そう淀みなく口にした、はるのことを。
あの男はただ、じっと見つめてた。
何も言わず、何も応えず。
その瞳だけを、微かに細めながら。
私の手を取って歩き出す、はるのことを。
ただ、黙って見つめ続けていた。
「さあ、帰ろ? ―――くろえ」
※
それからのことは、あまり上手く覚えてない。
あなたに手を引かれるまま、喫茶店を出たんだっけ。
確か、外には琥白が心配そうな顔で待っていて。
ああ、そっか琥白が連れてきてくれたんだって、ぼんやりと考えていた。
それから覚束ない足取りのまま、二人に心配されながら家に帰った。
何を言ったか、何を話したかは覚えてない。
何を想ったか、何を考えたかも曖昧で。
その日はただ、何もしないまま、帰ってすぐ倒れるようにベッドに突っ伏した。
感情という感情が、全て絞り出されてしまったような。
胸の奥の孔が広がって、私という存在全てを飲み込んでしまったような。
そんな、よくわからない感覚に飲まれるまま、ただ静かに眼を閉じた。
そして、そんな曖昧で蜃気楼に覆われたような時間の中。
あなたは、そっと私の傍までやってきて。
ゆっくり静かに、目を瞑る私のことを抱きしめていた。
こんな、醜くて歪んで、どうしようもないはずの私を。
あなたはまるで、慈しむように、そっと優しく包みこんでいた。
温かかった。
触れる肌の感触が。
抱きしめられる腕の、ほのかな熱が。
わからない、その手の意味を、この触れ合いに宿る想いを。
私は上手く、理解できない。
だから、わからないまま、眼を閉じていた。
だって今は、何をすることもできないから。
まるで、無力な子どものように。
ただ、あなたに抱きしめられる。ただ、それだけ。
そうしていると、胸の奥に空いた空虚な孔の感触が。
少しだけ、忘れられたような、そんな気がした。少しだけ。
そして、私の眼から零れた、小さな何かを。
あなたの指が、そっとすくった。
これがあなたと、ただの姉妹でいられた。
私達の、最後の記憶。




