第39話 姉と夜明けの時間
ふと目が覚めて、スマホを見たら、思っていたより随分と早い時間だった。
カーテンの向こうからは、まだ日差しは差してきてない。少しぼやけた思考を引きずりながら、冬の寒さに少し身体震わせる。
パジャマから、軽く着替えて部屋着になったら、少し息を整えてから自室を出る。
リビングのドアを握る時、微かな躊躇いが手を止めた。なんとなく、その扉の向こうにある人の気配を察したから。
ただ、どうせ逃げることもできないので、そっと静かにドアを開く。
既に暖房の効いたリビングの中、お義母さんはマグカップを片手に、ぼんやりとまだ暗い窓の外を眺めていた。初日の出でも待っているのだろうか。
「…………早いね、お義母さん」
そう声をかけると、彼女はこちらを振り向いて、眩しい笑顔でにっと笑った。
「ふふ、日の出の写真はよく撮るから、つい癖でね。あけおめ、くろえ」
「……あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
笑顔に答えるようにぺこりと頭を下げると、対面の義母の顔は、露骨にむくれたものになる。うちの家族で、一番感情表現が豊かなのは、間違いなくこの人だよなあ。
「むー……、そういうの心の距離感じちゃうなあ……。もっとこう……フランクでいいって言ってるでしょ? そりゃあ、私がもうおばさんだから、若者のノリが似合わないのはあるけどさあ」
そう言いながら、駄々をこねる義母に軽く笑みを返しながら、私はキッチンのコーヒーメーカーを触りにいく。お義母さんが既に淹れていた分があるから、私はそれをコップに注いで、彼女の向かいのソファに腰を下ろした。
「家族でも礼儀は大事だよ。お義母さん」
そうして、あえてすました顔で答えるけど、何故か義母の顔はどこかしたり顔になっていく。
「ふふふ……」
なんかほくそ笑んでるし、今のやり取りに、面白いところなんてあっただろうか。
「どうかした……?」
そう尋ねると、義母は笑みを、すっかり深くして口を開いた。
「ううん? くろえもなんだかんだ、私のこと家族って認めてくれるようになったなーって」
とんっと、鳩尾を不意に押されたような錯覚がする。私はそんな動揺を表に出さないように努めながら、そっと首を傾げた。
「…………別に認めてない訳じゃ、なかったと思うけど」
「えー、ちっちゃい頃はさ、くろえはずっーっと、一線引いてたじゃない? 私はホントはここの家族じゃないから、あくまで他人なんだから……みたいな顔、ずーっとしてたよ?」
そう言いながら、首を傾げる義母を端目に、私はコーヒーを啜るフリをして、マグカップで口元を隠す。……あれはまあ、我ながら、往生際が悪かったとは思う。
「…………雲隠れして、離婚した相手の子どもなんだから、……そっちのほうが普通だと想うけど」
そう濁してみるけれど、義母の表情は揺るがない。穏やかで優しい表情で、そっと私に微笑みを向けてくる。そんな笑顔を見ていると、はるの面影がどうしてもダブってしまう。
「それはそうかもだけど……。あの時、私もお世辞にもちゃんと、受け止めきれてたわけじゃなかったから。今想うと、すっごい後悔するの。あの場所で、一番心細かったのは、誰よりもくろえだったのに……って」
そんな言葉に、そっと視線を逸らす。ずずっと啜ったコーヒーは、ブラックだから当たり前に苦くって、ミルクを入れなかったこと少し後悔した。
「…………それも普通だよ。そもそも、受け入れる方がどうかしてる」
そうぼやきながら、ちらっとリビングの扉を窺う。冬休みのはるは、起きてくるのがいつもより遅いから、もう少し寝ているだろうか。
「そーかもね。……でも、今になって思うの。あの時、はるが我儘を言ってくれてよかったなって。こうやって、くろえと一緒に過ごしてるとね、本当にそう想う」
言いながらお義母さんは、くすっと笑って、マグカップを机に置いた。そして、ゆっくりと立ち上がると、そっと私の方に手を向けてくる。
逸らした顔の縁をそっとなぞるように、温かくて優しくて、少し皴の入った指がゆっくりと私の頬をなぞっていく。
「前会った時から……ちょっと痩せた? はるがちゃんとご飯作ってない……はずはないから。……何か、悩むようなことでもあった?」
じっと優しく、静かに細められた瞳が、私のことを見つめてくる。喉の奥で震えかけた何かには気づかないふりをして、私は軽く首を横に振った。
「…………ううん、生徒会がちょっと忙しいくらいかな」
嘘をつくコツは、真実の中に織り交ぜて隠すことだ。自分ですら、嘘を言っているのかどうか、あやふやにしてしまうこと。
「そう―――じゃあ、逆にいいことでもあった?」
静かに。
静かに発せられたはずの質問が、私の胸の奥の何かを、抉っていく。
ただ、そんな痛みも、震えも、おくびにすら出さずに私は笑う。そういうことが、出来てしまう。
「…………んー、どうだろ、この前クリスマスパーティあったんだけど、それが楽しかったくらいかな」
そんな私を、お義母さんはじっと静かに見つめてくる。そうやって見られていると、心の奥まで透かして、覗かれているような感覚がする。ホントこの親子は、怖いなあと想いながら、私は微笑みを崩さない。
「そう…………ならよかった。そうだ、クリスマスといえば、届いてたよ、プレゼントのリング。ほんっと嬉しかったー」
一瞬、何かを飲み込むような沈黙があったけど、程なくして空気は元通りになった。お義母さんも、いつも通りの……ちょっとはしゃいだような表情を浮かべてる。
「そう……よかった。はると二人で考えた甲斐があったよ」
「もうね、嬉しすぎててみんなに見せびらかしちゃった。アクセサリーのプレゼントなんて初めてだし、指輪っていうのもいいよねー、ロマンチック。今日もねちゃんとつけてるよ? ほら、これ。ふふふ、娘たちの愛の証が増えちゃうぜ」
「……ていうか、あのマフラーまだつけててビックリした。いい加減捨てろって、またはるに言われるよ?」
「そう……そうなのよねー。さすがにボロボロになってきたから。パリの服飾職人さんに修理してもらおうか迷ってるんだけど。はるとくろえ以外の手が入ったら、なんか違うじゃなーい? もう悩んじゃって……」
「はるは、そういう意味で言ってるんじゃないと思うけど……」
そうやって、適当な雑談に花を咲かせる。
この人は、とても優しい。見て、知って、気付いて、あえて触れないという選択をしてくれる。
大人なのだ。当たり前だけど、私なんかより遥かに。
弱さと、傷と、欺瞞に気付かないふりをしてくれる。
近いようで、距離は保たれていて。遠いようで、ちゃんと見てくれている。
本当に素敵な人だ。あんな男に騙されてしまったのが惜しいくらいには。
だから、と想う。
今、私の部屋には、はるから貰ったリングのネックレスが隠してある。
この関係を、この秘密を、隠し続けることはきっとできない。
いつか、どこかで、明かさないといけないのだろう。
わかってる、そんなことはわかっているけど。
とんとんと、足音がした。
そんな音に重なるように、カーテンの向こうが段々と明るくなっていく。
一年の始まりを、告げる時間。
何かが動き出す、そんな時間。
足元から段々と、淡い冬の陽光が伸びていく。
ゆっくりと閉じかけていた瞼を上げて、その光の伸びる先を、扉の方をそっと見た。隣でお義母さんも何も言わないまま、同じ方向を向いていた。
ガチャっと扉がゆっくりと、どこかおぼつかなそうに開かれる。
「………おはよ、くろえ……お母さん」
少し眠気が残った顔で、でも瞳に小さな意思を灯した、そんなあなたの姿がそこにはあった。
ぎゅっと手は何かを握るように結ばれている。まるでそこに、大事な何かを握っているかのように。
お義母さんは、そんなはるをじっとまっすぐ見つめてて。
私はその光景を見届けてから、そっと静かに眼を閉じた。
さて、この中で、覚悟が出来ていないは、一体、誰なんだろう。
握った手が、微かに震えてる感じがする。
前に進む勇気を持っていないのは、一体、誰なんだろうね。




