第38話 妹を死守する
昔は、お母さんのことが、正直少し怖かった。
そもそも年に数回しか会わないし、凄くて特別な人だから、なんとなく上手く受け入れられなかったのもあると想う。
会うたびに、いっぱい抱きしめて、いっぱい愛してるって言ってもらえたけれど。私はそれを、上手く受け止めることが出来なかった。
『ほんとはもっと、あいたいよ』『もっと、いっぱいだきしめて』『きょう、ようちえんでこんなことがあったの』『こんどの、ほごしゃさんかん、きてほしいな』
そんな言葉が、頭の裏で一瞬、顔を出すのだけど。
ふっとそれを口に仕掛けた瞬間に、お母さんの表情が、微かに揺らいだように見えたから。
結局、上手く、伝えられなかった。
それをようやく、ちゃんと口に出来たのは、くろえに諭された、小学校の卒業式で。
あの時は、泣くほどに大喧嘩して、やっと自分の想いをお母さんに伝えられた。ほぼ泣きっぱなしで、ぐちゃぐちゃな声で言いたい放題言ってたから、あまり思い出したくはないけれど。
幸いというか、あれ以来、お母さんも少し考え方を変えてくれた。
家に帰ってくる頻度も多くなったし、学校で何があったかとか、話を聞いてくれるようにもなった。会えない時も電話をしたり、メールをしたり、手紙を書いたり。少しずつ、失くした時間を埋め合わせるように、私たちは段々、親子らしくなってきた。
それもこれも全部、くろえのお陰。あの時、ちゃんと言った方がいいよって言ってくれたから。きっと、私独りだったなら、一生かかったってお母さんに自分の気持ちなんて言えなかったと想う。
まあ、お母さんはもちろん、仕事は忙しいまんまだし。というか開かれる個展や活動の規模はどんどん大きくなっていて。それだけお母さんの写真が、誰かの心を動かしているということだから、喜ばしいとは素直に思うけど。
ただまあ、それのせいというか、そうやって仕事が忙しい反動もあってというか。
最近の、お母さんは、なんていうか、こう、…………距離が近い。
「ん~~~~!! お母さんダイブ!!」
言葉と同時に、呆けた私たちを置き去りにして、肩を並べた私とくろえの間に割り込むように頭を突っ込んでくる。
パーティでもあったのかな、高級スーツと香水と、色んなものが混じった匂いが鼻をつく。そんなお母さんの頭部が、私とくろえの身体の間でぐりぐりと暴れまわってる。
「…………お母さん、ちょっと」
そう言い淀んで、身体を引こうとするけれど、腰はがっちり手で抑えられていて、私とくろえの匂いを堪能しているとばかりに、過激なスキンシップを決めてくる。
お風呂上がりに、弛緩した雰囲気と身体には、あまりに刺激が強い。うぐぐと思わず唸りながら、どうにかお母さんを引き剥がしたいけれど、生憎この母親が力が強い。対面のくろえはもう、諦めているのか抵抗一つしていない。お腹も腰も、触られてもなんてことはないって感じだ……。そりゃそうだけど。
「ああ~~~~~~~、生き返るわ………………。甘い。娘二人分の、お風呂上がりの甘い匂いがする…………。補充中だわ……、娘分、補充中…………」
あと、これは私が思春期に入ったせいなのだろうか。接し方が若干……アレに思えてしまう。
「あのさ、お母さ〜ん……。急に帰ってきたのに、そんな激しいスキンシップされても困るよ……?」
仕方ないので、どうにか両の手で踏ん張って、私たちのお腹でサンドされている母親の頭を挟んで、無理矢理引き剥がす。腕がぷるぷる震えてるけど、それでもあらん限りの力でひょっとこみたいな顔になった母に詰め寄る。
はあ、昔は憧れで特別な母親って感じだったのに、なんだか最近はこういう対応ばかりしている気がする。
「え~? でも私、今日の朝、はるに今夜帰るって送ったよ?」
ただ、ひょっとこ顔の母にそう突っ込まれると、私はうぐっと止まることしか出来ない。連絡来てたのに、スルーしてたのは、どう考えても私の落ち度なのだから。
「そ……そうだけど」
しかし、そうやって油断したのがいけなかった。
「隙あり」
ふっと首を捩じって、母の首が、私の腕から脱出する。え、と思わず手が空を切った直後には、体幹を崩されて、いつのまに母に膝枕をされていた。
「あ」
「ふふふ、こうなったら、あとはわかるね? はる?」
言いながら、視線上の母は妖しく目を光らせていて。
やばい、と思った直後、ドアップになった母の顔が降ってくる。
「ん! ん! ん~~~~~~!!!!」
そこから先は、ひたすらにお母さんのキスがほっぺに、鼻に、顎に、耳に。唇以外のあらゆる箇所に雪崩のように降ってきた。子どもの頃はまあ、ギリ愛情表現で許されるけど、思春期になるとちょっとした地獄でしかない。
そんな、ほぼ拷問に近い愛情表現の名を冠した何かを受けながら、私はじたばたと手を藻掻くことだけしかできない。しかも、そんな抵抗も、世界を股に掛けるフィールドワーカーの体力によって、あっさり封殺されてしまう。
「ふふふ、娘成分吸引完了……また寿命が十年延びちゃうな……」
そう言いながら、お母さんはふぅっと爽やかな汗をかいていた。心なしか、肌が若返っているように見えるのは、多分私の視覚がどうかしているからだ。ていうか、わが母親ながら10代の娘がいる肌の艶じゃない。本当に若さを吸われてる気さえする。
そうやってヘロヘロになっていると、ふっとお母さんの眼が、頭上でわずかに煌めくのが視界に映った。視線の先にいるのは、もちろん、もう一人のターゲットたるくろえ。
視線を向けられた方のくろえは、なんかもう諦めているのか、両手をあげて無抵抗の構えをしている。ちなみにうちの母親に、降参している相手に加減するなんて、良識は存在しない。
思わず組み伏せられた状態から、がっとお母さんの顎を再び掴んで、くろえへの蛮行を止めに行く。ただ、お母さんは顔が掴まれた状態でも、平気でくろえの方に向かおうとするから、なんかそういう妖怪みたいになっている。いや、体力は間違いなく化け物級だけど。
「止めないで! はる!! 私の娘分を! くろえの匂いをくんかして、ちゅっちゅする権利を阻むというの!?」
「そんな権利、そもそもないわい!! 逃げて! くろえ、逃げて!!」
何としても、この若さ吸引大魔王から、最愛の妹の貞操を守らなければいけなかった。多分、私の10年のお姉ちゃん史上、今が一番身体を張っている。
そして、そんな私たちの攻防を、くろえは少し肩をすくめて眺めてた。
「……いーよ、はる。ちょっともみくちゃにされるだけだろうし」
「そうよ! くろえ! ちょっと! ちょっと10分くらいもみくちゃにするだけだから!! あとちゅーも!!」
「そもそも! 思春期の娘に、当たり前にちゅーすんなー!!!」
そんなこんなで、静かに終わるはずだった年の暮れは、騒がしく姦しく過ぎていく。
穏やかだった空気を吹き飛ばして、煩悩に塗れた嵐で薙ぎ倒すかのように。
結局、10数分の攻防の後、私はくろえの貞操の防衛に成功した。そして、くろえへのちゅーを断念したお母さんは、代償とばかりに私に二倍ちゅーしに来た。なんでじゃ。
そんなこんなで、疲労困憊で、心身ともにボロ雑巾のようになった私を、母は勝ち誇ったような表情で眺めてて。
そんな私をくろえは、そっと憐れみに満ちた表情で、労わるように撫でていたのでしたとさ。ちょっとだけ、くすっと、おかしそうに私を見下ろしながら。
「と、いうわけで!! ただいま! 娘たち!!」
「はあ……おかえり、お義母さん」
「…………おかえり、お母さん、ぐふッ……」
本来なんかこう、打ち明けなきゃいけない、大事なことが一杯あるはずなのだけど……。
今はただ、そんなことは忘れて、この心の傷を癒していたかった。
うう、なんて年の瀬だい……。




