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5.壁と溝

「私、恋人に殺されたの」

 おそろしく長い沈黙のあと、ようやく口を開いた首締めの最初の言葉がそれでした。

「僕が君を殺したって?」と首切りは聞き返しました。いささか錯乱気味の首締めを少しでも安心させてあげようと、口元には作り物の笑顔を浮かべています。

 首締めはぶんぶんと首をふりながら、「違うの、そうじゃないのよ」と否定しました。「首切りのことじゃないわ。恋人って、あなたのことじゃないのよ」

 首切りの作り笑いが、みるみるうちに崩れ去ってゆきました。

「恋人が私に跨って、体重をいっぱいにかけて首を絞めているの。私の首を絞めながら彼は笑っている。笑い声はあげてないけれど、狂った笑顔を顔いっぱいに引きつらせている。ころころと今にも転がり落ちそうなほどに瞳を見ひらいていて、唇の両端が不自然なほどつり上がっていて……その顔を、私の顔のすぐ前に突き出しているの」

 噛み合わない歯の根をガチガチと言わせて、彼女はところどころ言い詰まりながら語りました。

「最後に残った思い出が、それだったわ」

 そこまで言い終えたとき、もはや首締めの呼吸は乱れに乱れていました。はぁはぁと荒い息をあげる彼女には、まるで死体とは思えぬほどの生々しさがあります。

 そんな首締めとは対照的に、首切りはすべての感情を失ったかのように硬直していました。

「突然思い出したのよ」と首締めは言いました。「いいえ、そうじゃなくて、気付いたら思い出していたのよ。知らないはずの人の顔や知らないはずの風景が、頭の中にあるのにふと気付いたの。しかも私は、その人たちの名前や、その風景の場所を、いちいちすべて知っているの。思い出せるのよ。それがわかったら、あとはもう頭のほうが追いつかないくらいにスルスルといろんな記憶が噴き出してきたわ。お家のことや、友達や先生や、おとうさんとおかあさんとそれから妹――ねぇ私妹がいたのよ? 覚えてるの、全部。それから、もちろん自分のことも!」

 まくしたてるように言い切ると、首締めはわんわんと声をあげて泣き出しました。彼女はしっかりと涙をながしていました。

「きっと君の恋人は、君を殺したあと、死んだ君の身体をどこかに隠したんだ」と首切りは言いました。「それが今頃になって発見されたんだろう。あるいは君の死体は個人の特定が出来ないほどに損壊されていたのかもしれない。でも君の恋人は逮捕されて、自供した。ともかく、そういうことなんだろうと思うよ」

「ねぇ、私はどうしたらいいの?」と泣きながら首締めは尋ねました。「どうしたらいいのかわからないの。怖いのよ」

 首締めが首切りに抱きつきました。

 支えを求めて身を預けてきた恋人の肩に、首切りは機械的に手をかけました。その様は、実に死者らしく人情味に欠けたものでした。

「君は安楽死の街に行くべきだよ」と首切りは言いました。「君はもう死体じゃない。遺体になったんだよ。遺体たちは快く君を迎えてくれるはずさ」

「でも、私――」

「おめでとう」

 首切りが首締めの言葉を遮りました。それは、芯まで凍てついたつららのように冷たく鋭い声音でした。

「君は思い出を取り戻したんだ。これからはそれを支えにしていける。おめでとう首締め。いや、もう首締めじゃないんだったね。名前も思い出したんだろ? ほんとに、羨ましいよ」

 首締めは驚愕に目をみはって首切りを見ると、弾かれるたように彼から身を離しました。

「信じられない……。私、恋人に殺されたのよ? そんな思い出の、いったいなにを支えにしろっていうの? いったい何が羨ましいっていうの?」

「何が羨ましいかって?」首切りが声を荒げました。「簡単なことだよ! 君は蔑む側にまわったんだ! けど僕は蔑まれる側のままだ! 僕だけ取り残して、君は!」

「私、そんなことしない! あなたと私はなんにも違わない!」

「今はそう思ってるかもしれないけど、そのうち君は哀れんだ目で僕を見るようになる。可哀想な人、空虚な人、私とは違う人ってね!」

 言いながら、首切りはテーブルの上に置かれていたものをみんな床へと払い落としてしまいました。

「君はもうこの町の死体じゃない! 遺体なんだ! 本当はもう、心のどこかで僕を蔑んでいるんだろ? 言えよ! なあはっきり言っちまえよ!」

 首切りはそれだけ言ってしまうと一応の落ち着きを取り繕い、肩で息をしながら首締めを睨み据えました。その瞳に、かつての恋の名残は残滓も残ってはおりません。

「私、あなたのこと、愛してたのよ」

 首締めは声を震わせながら、やっとのことでそれだけ言いました。

 それに対して、首切りはことさら意地悪く鼻で笑うと、虫でも見るような目を首締めに向けて言いました。

「君はきっと、自分を絞め殺した恋人のことも愛していたんだろうね」

 それで、本当におしまいでした。恨み言の一つも、そしてさよならも言わずに、無言のまま首締めは出て行きました。

 最後の最後に、首切りをひとめ見ることすらなく。


 首切りはどっかりと椅子に腰掛けると、首締めが出て行った扉を見るともなしに眺めました。

 いつだったか彼女が「思い出があるって、そんなにいいことかしら?」と言っていたこと。自分のために誰かを憎んでくれるとまで言ってくれたこと。そして自分が、彼女のことはなんだって許そうと、一度はそう心に誓ったこと。

 そんな色々を、彼はとりとめもなく思い出していました。 


 首締めはその夜のうちに町を出ました。町の誰にも挨拶などせず、それまで自分の暮らしていた家に立ち寄ることすらありませんでした。

 安楽死の街に行こうと決めたわけではありません。しかし、もはやこの町が自分の居場所ではなくなってしまったことと、昨日までの仲間たちが、もはや仲間ではなくなってしまったことを、彼女はしっかりと理解していました。

 やがて町の外れへと差し掛かり、その境界である溝を跨ぎ越えた首締めは、最後にたった一度だけ、振り返って町を見ました。

 はじめて部外者として見る町は夜目にもはっきりと彼女を拒絶しており、そこにかつて暮らした場所の懐かしさはついぞ見いだせませんでした。

 首締めは再び歩き出し、そしてもう二度と振り向きませんでした。

 きっと、彼女はそのまま遺体たちの街に行き、新たな仲間として壁の内側へと迎え入れられたことと思います。首締めという名前にしても、多分道すがらに捨ててしまったでしょう。

 そしてもしかしたら、いつしか本当に死体たちを蔑みはじめるのかもしれません。

 でも、憎んだのはどちらが先でしょう? 嫌ったのはどちらが?


   ※


 優越と劣等も、差別と被差別も、そして壁と溝も、それがなにかを拒絶するための概念であるという点では、違いなどありはしないのです。

 卑屈な傲慢さと、傲慢な卑屈さに、違いなどほとんど。

 

 もちろん、諦観峠のふもとには今でも二つのまちが存在しています。


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