05話:私はなにも変わっていません
「……は?」
緩みかけていた彼の顔が、途中で止まった。
「今、何て言った?」
「あなたの妻をやめます、と言いました」
「何を言っている。冗談にしても――」
「私が冗談を言ったことが、この十年で一度でもありましたか」
彼は口を開けかけ、そのまま閉じた。
「……待て、落ち着け。さっきまでのは言葉の綾だ」
「どの言葉がですか?」
「全部だ」
「では、確認します」
私は手元の紙を裏返し、夫へ向けた。今日の日付の下に、ついさっきこの部屋で言われた言葉が、黒いインクで整然と並んでいる。
「『愛想がない。女っけがない。笑わない。化粧もしない。香水もつけない。隣に立たせても絵にならない。背もあまり伸びない。胸もない。腰もない。愛想もちっともよくならない。床を同じにしても顔色ひとつ変えない。甘えた声も出さない。ちっとも気持ちよさそうな顔をしない。見ていると気が滅入る。俺は胸が大きくて、腰がくびれていて、よく笑う女が好きだ。十年待ってやったのに、お前はそのどれにもならなかった』」
息もつかせず、一語も削らずに読み上げる。少しでも省けば、この人はその隙間から「そんな言い方はしていない」と逃げるからだ。
「以上の理由により、あなたは娘の誕生日に別の女性を連れてきた、とのことでしたが。何行目が言葉の綾でしたか?」
「そうは言って――」
「言いました。ここに一字一句違えず書いてあります。語順もそのままです」
夫の目が紙の上を走る。訂正の申し立てはなかった。
「ここに書かれていることを、私は否定しません。ただ、どれも十年前からです」
「……」
「愛想がないのも、小柄なのも。野営の天幕で泥まみれの地図を囲んでいた頃から、私はこうでした。それでも広場で膝をつき、結婚を申し込んだのはあなたです」
「……あの時は、戦勝祝いで周りがそういう空気だったんだ」
「空気で求婚した、と」
「それに、結婚して待てば少しは変わると思っていた!」
「あなたの見込み違いは、私の落ち度ですか?」
「だから、そういうとこ――!」
「はい。こうして理屈を詰めるところも、十年前から同じです」
「だからっ!」
苛立たしげに髪をかき上げた。香油で整えていた栗色の髪が、ばらばらに乱れる。
「……分かった。俺が悪かった。言い過ぎたよ。だが、別れるほどのことじゃないだろう」
「では、何があれば別れるほどになりますか? 政務と偽って別の女性と七泊し、四歳になる娘の誕生日を忘れ、その女性を自宅へ招き入れる。さらに妻の容姿と性格を十四項目にわたってと貶め、見ていると気が滅入ると宣告。これでまだ足りないなら、あと何を足せば基準に達しますか?」
夫は唇を引き結んだまま、答えられない。
「あなたが求める妻は、私ではありません。ですから、夫婦を続ける理由がありません」
「……お前がいないと困るだろう」
初めて、夫の声が少しだけ落ちた。
「明後日の祝辞は、誰が書くんだ」
――それか。
「祝辞だけじゃないぞ。来月の軍議に出す騎士団の再編案はどうする? 東の国境の砦の配置もまだ途中だ。隣国の動きをまとめた報告書は?」
すべて、私が書いてきた――
騎士団の再編案も、砦の配置図も、間者の報告から隣国の兵数を読んだ分析書も。私が書き上げ、この人が翌朝、最後の行に自分の署名だけを書き入れて軍議へ提出してきた。
「あなたの妻なのでやっていました。妻をやめれば、私の仕事ではありません」
彼の顔から、すうっと血の気が引いていく。
十年間で初めて、自分の頭で計算しているのだろう。明日からはすべて、自分ひとりで書かなければならないのだと。
「……ニナはどうする」
「あの子の名前を、今日初めて呼びましたね」
「話を逸らすな!」
「逸らしていません。娘の誕生日を忘れて、別の女性と祝い菓子を食べていた父親が、旗色が悪くなった途端にあの子を盾にしようとしている、と指摘しています」
「ニナを連れて行く気か?」
夫の手が、再び腰の剣の柄へ伸びた。
机を挟んで三歩、背後の扉まで二歩。
剣を抜く直前、この人は必ず右肩をわずかに引く。十年前、戦場で何百回と目にした癖だ。
この距離なら、最初の一撃は私でも避けられるだろう。かわした足で扉を抜け、廊下へ出る。
私は夫の右肩だけを見つめて、待つ。一、二……。
やがて、柄を握りしめていた夫の指が、じわりと離れた。
「……まあいい。どうせこの国に、俺から離れたお前が行ける場所なんて、どこにもない」
鼻で笑った。余裕を取り繕うように口の端だけを上げ、椅子に深くもたれかかる。
「どこへ行くかは、私が決めます。あなたが案じることではありません」
私は机の上から勘定書の写しを回収し、今夜の暴言を記した紙と角を揃えて、懐へ収めた。
「明日、出ていきます」




