6
第六章「ふたりの女神、星を仰ぐ」
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1
ツクヨミ艦橋。
あの日から、三ヶ月が経過していた。
「……今日も、異常なし、か」
アイリはモニターを見つめ、ため息をついた。ここ数週間、ドリフターの出現頻度が激減している。先月は一度も遭遇しなかった。今月に入ってからも、遠距離で反応を一度観測したのみだ。
「平穏は良いことですわ。でも……」
彼女は言葉を飲み込んだ。平穏は確かに良いことだ。クルーに犠牲は出ない。機体も消耗しない。でも、この静けさは、まるで世界が息を潜めているような、不気味な静けさだった。
それに――ドリフターがいなければ、コウタを捜索する名目も立てられない。
いや、そもそも。
(……もう、三ヶ月よ)
アイリは手に持ったまま冷めてしまった紅茶を見つめた。次元の裂け目に飲み込まれた機体の捜索は、とっくに打ち切られていた。生存の可能性はゼロ――司令部の公式見解だ。ユズハがどれだけ食い下がっても、捜索部隊は引き上げられ、今はもう誰も、コウタのことを口にしなくなっていた。
「アイリちゃーん」
ユズハが艦長席から声をかけてきた。彼女もまた、この三ヶ月で変わった。無邪気な笑顔は相変わらずだが、その奥に、以前にはなかった陰りがある。夜はあまり眠れていないらしい。目の下に、うっすらと隈が浮かんでいた。
「なんですの、艦長」
「今日の観測データ、見た?」
「ええ。異常なし、ですわ」
「……だよね」
ユズハは小さくうなずき、モニターに目をやった。そこには、広大な宇宙空間が映っているだけだ。何もいない。何も起きない。そして、誰も帰ってこない。
「ねえ、アイリちゃん」
「はい」
「ユズハね、思うんだ。ドリフターが減ってるの、もしかしたら……コウタくんがどこかで頑張ってるからじゃないかなって」
「……根拠は」
「なんとなく」
アイリは何も言えなかった。ユズハの「なんとなく」は、これまで何度も奇跡を起こしてきた。でも今回は、さすがに楽観的すぎる。平行世界なんてものがあるのかすら、誰も証明できていないのだ。
「……だといいですわね」
「うん。ユズハ、信じてる。コウタくんは絶対に生きてる。そして、いつか帰ってくる」
「……そうですわね」
アイリは紅茶を一口含んだ。冷めていた。いつの間にか、紅茶を淹れても飲みきる前に冷めてしまう癖がついていた。
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2
ツクヨミ内、士官用食堂。
二人は窓際の席に向かい合って座っていた。ユズハのトレイにはハンバーグ。アイリのトレイにはサンドイッチと紅茶。窓の外には、変わらぬ星空が広がっている。
「ねえ、アイリちゃん」
「はい」
「アイリちゃんはさ、コウタくんのどんなところが好きだった?」
アイリは紅茶を吹き出しそうになった。
「な、なにを突然……!」
「だって、ユズハたち、ライバルでしょ? ユズハはアイリちゃんがコウタくんのこと好きって知ってるし、アイリちゃんもユズハが好きって知ってる。だったら、ちゃんと話したほうがいいかなって」
「……艦長、貴女は時々、とんでもなく大人びたことをおっしゃいますわね」
「えへへ。ユズハ、艦長だもん」
ユズハは無邪気に笑い、ハンバーグを一口頬張った。
アイリはしばらく迷った後、小さくため息をついた。
「……好き、という感情が正しいのかはわかりませんわ」
「じゃあ、どんな気持ち?」
「……放っておけない、という感じですわ」
「放っておけない?」
「ええ。あの人は、実力もないのに偉そうで、すぐに『ふっ……』とか言って、周りからは『雑魚』と罵られて。でも、絶対に折れない。どんなに馬鹿にされても、自分を信じ続けている」
アイリは窓の外の星を見つめた。
「私は……自分を信じることが苦手でしたわ。理論やデータばかり見て、自分の感覚を信じられなかった。でも、あの人は違う。根拠なんてなくても、自分を信じられる。それが、羨ましくて……そして、放っておけなくて」
「……うん。わかるよ」
ユズハは静かにうなずいた。
「ユズハもね、コウタくんのこと、大好きなんだ。理由はいっぱいあるけど、一番はね」
「一番は?」
「……コウタくんは、ユズハがやらかした時、絶対に助けてくれる人だから」
アイリは少し驚いた顔をした。
「ユズハはさ、いつも『なんとなく』で動いちゃうでしょ。それで何度も司令部に怒られて、クルーにも変な目で見られて。でも、コウタくんだけは違った」
「……違った?」
「うん。ユズハが『なんとなく』で突っ込んで、本当にピンチになった時、コウタくんは絶対に来てくれるんだよ。たとえ自分がクソザコパイロットでも、ボロボロの機体でも、絶対にユズハの前に出て、敵と戦ってくれる」
ユズハの目が、少し潤んでいた。
「あのドリフターとの初戦闘の時もそう。みんなユズハの命令に反対してた。でもコウタくんだけは、『ふっ……艦長の直感は私の理論を超えている』って言って、出撃してくれた。自分が雑魚だってわかってるのに、それでもユズハのために戦ってくれた」
「……そういえば、そうでしたわね」
「うん。コウタくんはね、本当はすごく弱いんだよ。パイロットとしての実力も、心も、きっとすごく弱い。でも、誰かのために戦う時だけ、絶対に逃げないの。ユズハ、そういうコウタくんが大好きなんだ」
アイリは黙って聞いていた。ユズハの言葉は、彼女の心にも深く響いた。
(……私も、同じだ)
アイリは心の中で呟いた。自分が厳しく当たっても、決してへこたれず、それでも「ふっ……」と気取って見せる彼。実力はないのに、誰よりも諦めない彼。私が理論で固めて、ユズハの直感を現実にする。でも、その理論を実際に戦場で体現するのは、いつもコウタだった。
「……アイリちゃん」
「はい」
「ユズハ、決めたんだ」
「なにをですの」
「コウタくんが帰ってきたら、ユズハ、ちゃんと言うの。『大好きです。ユズハのお婿さんになってください』って」
「…………」
アイリは絶句した。ユズハの顔は真剣そのものだ。冗談ではないらしい。
「……艦長、正気ですの」
「正気だよ。ユズハ、ずっと考えてたんだ。もしコウタくんが本当にもう帰ってこなかったら、ユズハ、きっと後悔する。好きって、ちゃんと言えばよかったって。だから、もし帰ってきたら、絶対に言うの。絶対に」
「……そうですか」
アイリは紅茶を一口含んだ。今度は、なぜか温かく感じた。
「……なら、私も負けていられませんわね」
「え?」
「私も……その、なにかしら、言うことを考えておきますわ」
「アイリちゃん……!」
「ただし! まだ決まったわけではありませんわ! ただ、その、選択肢として検討するというだけで……!」
ユズハはニヤリと笑った。
「ふーん? アイリちゃんも、ついに本気出すんだ?」
「う、うるさいですわ! これは戦略的決定で……!」
「はいはい。ユズハも負けないからね!」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。それは、コウタが消えてから初めての、心からの笑顔だった。
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3
食事を終え、二人は艦橋への通路を歩いていた。
ふと、ユズハが立ち止まる。
「……アイリちゃん」
「はい」
「コウタくん、今どこで何をしてるんだろうね」
「……わかりませんわ。でも」
「でも?」
「生きていると信じるしか、私たちにはできませんわ」
ユズハは小さくうなずいた。司令部はコウタの死亡を前提に動いている。艦内でも、もう彼の名前を出す者はほとんどいない。「あの雑魚パイロット、結局死んだな」――そんな陰口も、聞こえなくなって久しい。忘れ去られるのは、死よりも辛い。
「ユズハは信じてる。コウタくんは絶対に生きてる」
「……根拠は」
「なんとなく」
ユズハはそう言って、いたずらっぽく笑った。アイリも、つられて小さく笑う。
「……艦長の『なんとなく』は、これまで一度も外れたことがありませんでしたわね」
「でしょ? だから今回も大丈夫。コウタくんは帰ってくるよ」
「……ええ。信じましょう」
二人は顔を見合わせ、うなずいた。
その時、艦内放送が流れた。
「艦長、蒼井少尉。司令部より定期通信です。ドリフター出現頻度低下に関する分析報告とのこと」
ユズハは小さくため息をついた。
「……はいはい。今行くよ」
彼女は艦橋へ向かって歩き出した。その背中は、艦長としての責任を背負い、少しだけ大きく見えた。
アイリもその後を追う。
(……コウタ)
彼女は心の中で、たった一人のパイロットの名を呼んだ。
(生きているなら、早く帰ってきなさい。この……雑魚)
毒舌は相変わらずだ。でも、その言葉は祈りに近かった。
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4
ツクヨミ、艦長私室。
その夜、ユズハは自室のデスクで、一枚の紙に向かっていた。
「えっと……『コウタくんへ』……これでいいかな」
彼女は手紙を書いていた。届くあてなどない。でも、書かずにはいられなかった。
『コウタくんへ
元気ですか? ユズハは元気です。ちょっとだけ、夜は眠れないけど、アイリちゃんが一緒にいてくれるから大丈夫です。
ドリフターが減ってるのは、もしかしたらコウタくんがどこかで頑張ってるからかなって、ユズハは思ってます。根拠はないよ。なんとなく。でも、ユズハのなんとなくは、いつも当たるでしょ。
コウタくん、ユズハね、思い出したんだ。どうしてユズハがコウタくんのこと大好きなのか。
コウタくんはね、ユズハがピンチの時、絶対に助けに来てくれる人だからだよ。自分がクソザコでも、機体がボロボロでも、絶対にユズハの前に出て戦ってくれる。そんなの、コウタくんだけだよ。
だから、お願い。帰ってきて。ユズハ、コウタくんに言いたいことがたくさんあるの。帰ってきたら、ちゃんと聞いてね。ユズハの、大事な大事な言葉だから。
大好きです。宇宙で一番、大好きです。
ユズハより』
彼女は手紙を封筒に入れ、机の引き出しにしまった。そこには既に、同じような封筒が十通以上、積み重なっている。毎日書いては、しまって、また書く。コウタへの想いが、彼女の日課になっていた。
「……コウタくん」
ユズハは窓の外の星を見上げた。
「ユズハ、待ってるからね。ずっとずっと、待ってるから」
星は、何も答えない。でも、その輝きは、いつもより少しだけ優しく見えた。
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同じ頃、アイリも自室で、あるものを眺めていた。
それは、コウタが最後に出撃する前に、彼女が渡したチョコレートの包み紙。中身はとっくにない。でも、捨てられずにとってあった。
「……本当に、馬鹿ですわ」
彼女は包み紙を指でなぞりながら、小さく呟いた。
「チョコレートごときで、こんなに未練がましくなるなんて。私らしくもない」
彼女は包み紙をそっと机に置き、紅茶を一口含んだ。今度は、ちゃんと熱い紅茶を淹れていた。コウタが帰ってきたら、いつでも出せるように。
机の上には、彼女がこっそり集めたコウタの整備記録のコピーがあった。最後のページには、彼の走り書き。
『全て問題なし。なぜなら私だから』
「……ふっ」
アイリは思わず、彼の口調を真似て小さく笑った。
「本当に、どうしようもない人ですわ」
でも、そのどうしようもなさが、なぜか愛おしかった。
「……早く帰ってきなさい、この雑魚」
毒舌は相変わらずだ。でも、その声は優しかった。
「帰ってきたら……今度こそ、ちゃんと言いますわ。私の、本当の気持ちを」
彼女は窓の外の星を見上げた。あの星の向こうに、コウタがいるのかもしれない。いないのかもしれない。誰にもわからない。でも、信じることだけはやめなかった。
「……待っていますわ」
彼女は小さく呟き、紅茶をもう一口含んだ。それは、かつてないほど、温かく感じられた。
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5
艦橋、深夜。
当直のオペレーターが、ぼんやりとモニターを眺めていた。何も起きない。ドリフターの反応も、異常も、何もない。静かな夜だった。
ふと、モニターの隅に、微かなノイズが走った。
「……ん?」
オペレーターは画面を注視した。しかし、ノイズはすぐに消え、何事もなかったかのように平穏が戻った。
「気のせいか」
彼はそう呟き、コーヒーを一口すすった。
そのノイズが、異次元からの微かなシグナルの残骸だったことを、誰も知らない。知る術もない。
ただ、遠い世界で、一人のパイロットが叫んだ言葉だけが、虚空に消えていった。
――私は、帰る。必ず。
その声は、まだ誰にも届かない。
でも、星だけが、それを聞いていた。
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第六章 了




