第1部 桜の坂
第1話
あの日のことは、
今でも、はっきりと残っている。
桜の坂の途中で、
風が少しだけ強くなった。
桜の花びらが、
ゆっくりと舞い上がる。
落ちるというより、
浮かんでいるような動きだった。
立ち止まり、
その様子を見上げる。
空は薄く明るくて、
まだ少しだけ、
肌に冷たかった。
春になったばかりの空気だった。
階段の途中、
踊り場のようになっている場所。
そこは、
少しだけ人の流れが緩む。
一歩下がり、
端に寄る。
靴紐が、
ほどけていた。
しゃがみ込み、
指先で結び直す。
慣れた動作のはずなのに、
今日は少しだけ時間がかかった。
また、
風が吹いた。
花びらが、
足元にいくつか落ちてくる。
そのとき、
「どうかしました?」
声がした。
少しだけ低くて、
落ち着いた声だった。
顔を上げる。
ひとつ上の段に、
男性が立っていた。
距離は近くも遠くもない。
けれど、
目が合うには十分な距離だった。
「あ……」
少しだけ言葉が詰まる。
「靴紐がほどけてしまって」
そう言うと、
相手は小さくうなずいた。
「そうでしたか」
それだけの返事だった。
けれど、
急かす感じも、
気にする感じもなかった。
もう一度、
靴紐に視線を落とす。
結び直して、
立ち上がる。
「すみません」
「いえ」
短い会話。
それで終わるはずだった。
けれど、
二人ともすぐには動かなかった。
風が、
また花びらを運んでくる。
階段の上と下で、
人の流れは続いているのに、
この場所だけ、
少しだけ時間が遅かった。
ほんの少し迷ってから、
一歩上に進む。
その動きに合わせるように、
男性も歩き出した。
同じ方向だった。
並ぶほど近くはない。
けれど、
離れているわけでもない距離。
そのまま、
数段だけ一緒に上がる。
何も話さなかった。
それでも、
気まずさはなかった。
風の音と、
足音だけが、
静かに続いていた。
やがて、
坂の上が見えてくる。
少しだけ、
足を緩める。
このまま歩いてしまうと、
終わってしまう気がした。
理由は、
わからない。
それでも、
そう思った。
そのとき、
「このあたりまでですか」
隣から声がした。
小さくうなずく。
「はい」
それ以上の言葉は、
思いつかなかった。
「では」
それだけ言って、
男性は少しだけ先に進む。
追い越すわけでもなく、
自然に距離が開く。
その背中を、
ほんの一瞬だけ見た。
すぐに視線を戻す。
名前も知らない人。
もう、
会うことはないかもしれない。
それでも――
なぜか、
少しだけ印象に残った。
桜の花びらが、
またひとつ、
ゆっくりと、
足元に落ちた。




