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魂送の天⑥

 天たちは体力が回復すると、ベンチから立ち上がり、静かにその場を後にした。

 歩いていると、天はふと、どこかから視線を感じた。その視線からは、ほんの少しの緊張と温もりが伝わってきた。天はその視線が花子と奏のものだとすぐに察し、安心感を覚えながら歩を進めた。

奏音は歩きながら、「どこか行きたい場所はあるか? つっても、おれもそこまで詳しいわけじゃないけど……」と言った。

 天は顎に手を添え、しばらくの間、真剣に考え込んだ。

奏音は天の可愛らしい姿をチラッと見て、顔を真っ赤に染めた。気づいた瞬間、慌てて顔を振り、煩悩を追い払った。

 天たちはグラウンドの横を通りかかった。

天が考えながら歩いていると、ふと少女たちの元気な声が耳に入った。声のした方に自然と目を向けた天の視界に、色神学園のセレスティアボール部が映った。天は足を止め、楽しげに練習する彼女たちを見つめながら、「セレスティアボール……」と呟いた。

「少し、観ていくか?」奏音が尋ねると、天は「うん」と即答し、二人はグラウンドへ足を向けた。

 天はグラウンド周辺の木陰に腰を下ろし、視線を上げて静かに色神セレスターズの練習を見据えた。奏音とイリスもすぐあとに続き、隣に座った。

 天は活気のある練習風景に見入って、心の中で感心した。

 あの人たちが、茜ちゃんのチームメイト……みんな、元気があってカッコいいなぁ。

 天が夢中で練習を見ていると、空中の姫島が突然、彼女の視線に気づき、こちらを向いた。視線がぴったりと交わった瞬間、天と姫島はほぼ同時に「あっ!」と声を揃えた。

姫島は動きを止め、嬉しそうに笑顔を浮かべながら、迷わず天たちに向かって飛んだ。

迫りくる姫島を前に、天は困惑しながら、「こ、こっちに向かってくる! 早く隠れなきゃ!」と周囲を見回した。

「落ち着くニャ、天ニャン! こういうときは、深呼吸ニャ!」

ましろんがお手本を見せると、天はそれに従い、ゆっくりと呼吸を繰り返した。冷静になると、天はキリっとした表情で近くの木を見据えた。静かに息をつきながら自分の存在感を限界まで消し、素早く木陰に身を潜めた。しかし、すでに遅かった。

姫島はしっかりと天が隠れる瞬間を捉えていた。

 姫島の目が天に向いている隙に、イリスは息を潜めながら木の上部までふわりと飛び、木の葉に身を隠しながら見守った。

 奏音はぽかんとした表情を浮かべ、じっと立っていた。

姫島は地上に降りると、天の隠れている木に向かって真っすぐに駆け寄った。

「ねぇねぇ、もしかして、セレスティアに興味あるの?」

 木を避けて覗き込みながら、明るく声をかけた。

 天は木に身を寄せながら、姫島の反対方向へと素早く横歩きして、必死に隠れようと動き続けた。それでも、姫島は興味津々な眼差しで粘り強く天を追いかけた。

「どうして隠れるの? 恥ずかしがらなくても、入部希望なら大歓迎だよ! 少しだけ体験してみる?」

姫島がやさしく声をかけても、天は足を止めなかった。

少しの間、お互いに木の周りを走り回っていたが、天はすぐに限界だと感じ、小声でましろんに助けを求めた。

「ましろん、もう無理だよ。どうしよう……」

 ましろんは頼もしい声で、「大丈夫ニャ! ここは、ましろんに任せるニャ!」と言いながら、ゆっくりと木陰から顔を覗かせた。

二人の視線が交わると、姫島は驚いたように「ネコさん!」と声を上げ、ましろんをじっと見据えた。

ましろんは慎重に、しかしはっきりと言葉を選びながら言った。

「……ましろんたちは、ただ観ていただけニャ。友達がやってるから、少し気にニャって……。だから、入部するつもりニャいニャ」

「あ、そうなんだ……」

姫島は少し肩を落とした。しかし、すぐに気を取り直し、続けて言った。

「でも、あなたも体験してみたら、やりたくなるかも……!」

 姫島の勧誘に、天は微かに心を揺さぶられた。だが、ましろんが毅然とした態度で言った。

「残念だけど、天ニャンは他にもやることがいっぱいあるニャ」

「……たとえば?」

「絵を描いたり、曲を作ったりニャ!」

 少しの沈黙のあと、姫島は残念そうに「そっか……ごめんね、しつこく誘っちゃって」と受け入れた。

 天はようやく安堵の息をついた。その瞬間、姫島は素早く横にスライドし、顔を覗かせた。天は隠れる間もなく、思わず目を見開いて視線を合わせてしまった。

 姫島は天と目が合うと、「あっ、やっぱり……!」と何かに気づいた様子だった。

 天は咄嗟にましろんで顔を覆ったが、動揺を隠せず、額に冷や汗が滲んだ。

 どど、どうしよう!? 正体がバレちゃった!?

 心臓が激しく鼓動し、その音が頭の中で鳴り響いた。一瞬の沈黙が、天にはゆっくりと感じられ、息が詰まりそうだった。

 天の様子にまったく気づかぬまま、姫島は陽気に続けた。

「この前、食堂で会ったよね? ほら、こがねちゃんと一緒にいたとき……。アーティストだったんだ!」

「え、あ……」天は言葉を詰まらせ、返事ができなかった。

 姫島は続けて言った。

「でも、何だか少し不思議な感じ……。まだ二回しか会ってないはずなのに、もう何度も会ったような気がする。ふふ、変だね」

 姫島が気楽に微笑んでいると、練習をしていた国東が気づいた。

「あ、やなぎちゃん、練習をサボって何してるの?」

 国東の言葉を聞き、九重、安心院、宇佐の三人も一斉に目を向けた。四人は練習を止め、天たちのもとへ向かってきた。

 姫島に加え、さらに四人が迫ってくる事態に、天は完全に落ち着きを失った。

 ままま、まずい! みんな揃ったら、さすがに正体がバレちゃう……! 早くここから離れなきゃ!

 天は急いで立ち去ろうとしたが、冷静さを失い、その場であたふたするだけだった。

 そのとき、イリスがついに動き出した。イリスは自分の正体がバレぬよう、髪を青いショートヘアに変え、静かに天のもとへ舞い降りた。天と姫島の間に割って入り、冷静に告げた。

「姫島様、申し訳ありませんが、天ちゃんはこのあとまだ用事がございますので、そろそろ失礼させていただきます」

 イリスは丁寧にお辞儀をし、天の手を引いて、素早くその場を離れた。天は驚きながらも、イリスに引き寄せられるように歩みを進めた。天の目に映ったのは、まるで頼れるヒーローのように、しっかりと自分を引っ張ってくれるイリスだった。

「え、あ、ちょっと待って!」

 姫島の呼び止めに耳を貸さず、二人は歩を進めた。

奏音はしばらく無言でその様子を見つめていたが、ふと我に返り、急いで二人の後を追った。

 姫島はしばらく呆然とその背中を見送り、何かを考えているようだった。そこへ、国東たちがゆっくりと降り立ち、姫島の視線を追った。

 国東は天の背中を見据えながら、「やなぎちゃん、あの人って……」と呟いた。

「アーティストなんだって……」

 姫島が答えると、みんな黙ってその背中を見送りながら、それぞれ何かを感じ取っている様子だった。

しばしの沈黙のあと、姫島はようやく気を取り直し、明るく言った。

「ごめんね、みんなの手を止めちゃって。さっ、練習に戻ろう!」

 その声かけで、姫島たちは練習を再開した。


 天たちはしばらく無言のまま歩き続けた。開けた場所に差しかかると、イリスは後方を確認し、手を離してやさしく言った。

「ここまで来れば、もう大丈夫だよ」

 天はほっと息をつき、「ありがとう、イリスちゃん」と微笑んだ。

 イリスも笑顔を浮かべ、元の姿に戻った。

 そのとき、風に乗って、ふわりと甘い香りが天たちのもとへ漂ってきた。香りの源に目を向けると、そこには二台のキッチンカーが並んでいた。見つけた瞬間、天とましろんは目を輝かせた。

一台は、木ノ実古都が精巧な技術で作り上げた生菓子の『百花繚乱』を、もう一台は、ミュスカ・ブルゴーニュが旬の果物をふんだんに使った一口サイズの『タルト・フリュイ』を販売していた。

どちらのキッチンカーにも、それぞれ多くの生徒たちがずらりと並び、順番が回ってくるのを楽しそうに待っていた。

会計や提供業務はAIロボットが手際よくこなし、古都とミュスカは笑顔でスイーツ作りに没頭していた。二人は丁寧かつ迅速にスイーツを作り上げ、お客をほとんど待たせることなく次々と提供し、列はあっという間にさばかれていった。スイーツを手にした客たちは、その場に設けられた飲食スペースで食べ、皆が思わず顔をほころばせていた。

古都は忙しそうにスイーツを作りながらその光景を一瞥し、口元に自信満々の笑みを浮かべた。

「なかなかやるな、ミュスカ!」

古都が素直に褒めると、ミュスカも嬉しそうに微笑みながら、「古都ちゃんもね!」と応じた。

「でも、勝つのはあたしだ!」

古都が自信ありげに言うと、ミュスカはウインクしながら「わたしも、負けないよ!」と強気に返した。

二人はスイーツの売り上げを競い合いながら、真剣かつ全力で楽しんでいた。その熱意が周囲にも伝わり、客たちはどちらが勝利するのか、期待を込めて見守っていた。スイーツの売り上げはほぼ互角となり、観客の関心はますます高まっていた。

すべての客を捌き、余裕が生まれると、古都は周囲を見渡した。キラキラとした眼差しで見つめる天に気づくと、気さくに声をかけた。

「おい、そこのカップル! 世界一美味しい和菓子、食べてみないか?」

 すると、ミュスカも笑顔で呼びかけた。

「こっちはフルーツたっぷりの絶品タルト、宇宙一美味しいよー」

「ふっ、地球以外に食べ物なんてないだろ!」古都がすかさずツッコむと、ミュスカは冷静に「宇宙ステーションや月面基地にも食べ物はあるよ」と返した。

 古都は鋭く、ミュスカは微笑みながらお互いに睨みを利かせ、二人の間に火花が散った。

 奏音は顔を赤らめ、驚きと戸惑いの入り混じった表情で「なっ、カップル……!?」と言葉を詰まらせた。

 一方、天は一切気にせず、目の前の極上スイーツに見惚れ、まるで引き寄せられるかのようにゆっくりと歩を進めた。

古都とミュスカは、キッチンカーのちょうど真ん中を歩く天を誘い込むようにスイーツを掲げてアピールした。天の視線が和菓子に向くと、古都は「よし!」と拳を握り、タルトに向くと、ミュスカは得意げに「ふふん!」と笑った。

 天はそのままキッチンカーの中間を進み、目の前で立ち止まった。二台を順に見回し、ましろんと囁き声で話し合いを始めた。

「ましろんは、どっちが食べたい?」

天が小声で尋ねると、ましろんは悩ましい表情で腕を組んだ。

「うーん……どっちも魅力的だから、選ぶのが難しいニャ……」

緊張感のある沈黙の中、その場にいる全員が天たちに注目し、息をのんで見守っていた。

イリスは冷静に、少しやさしげな声で「奏音様、今のうちに席を確保していただけますか?」と頼んだ。まるで天が何を選ぶのか、すでに知っているようだった。

奏音は「え……ああ、わかった」と応じた。

イリスは天のもとへ向かい、静かに隣に並んだ。奏音は空いている席に腰を下ろした。

しばらくして、天とましろんは顔を見合わせ、決心したように頷き合った。そして、待ち焦がれていた二人に向けて、ましろんは一つずつ目を合わせながら、ゆっくりと口を開いた。

「『百花繚乱』を一つと、『タルト・フリュイ』の詰め合わせを一つ、お願いするニャ!」

ましろんは目を輝かせながら、はっきりと言い切った。その瞬間、誰もが目を見開き、言葉を失った。まるで時間が止まったかのように、その場が静まり返った。

古都とミュスカは目を見開いて硬直したが、すぐに我に返り、元気よく応じた。古都は「承知!」、ミュスカは「ダコー(了解)!」と笑顔で返事をし、即座にスイーツ作りに取りかかった。

天は楽しげに待っていると、イリスは淡々と会計を済ませた。

奏音は何か思うところがあるような表情を浮かべ、天とイリスの背中を静かに見つめていた。

まもなく古都とミュスカはスイーツを完成させ、手際よく箱に詰めると、ほぼ同時に差し出した。

天は二つの商品を受け取り、満面の笑みで「ありがとうございます」と言った。そのあとすぐに、ましろんが決め顔で「ありがとニャ!」と続けた。

古都は口元を緩め、ミュスカは笑顔で「メルスィ」と返した。

天は振り返り、奏音を見つけると、嬉しそうに席に向かって歩き出した。イリスもすぐに後を追った。

「席、取ってくれてありがとニャ!」

 ましろんが感謝を伝えつつ、天は椅子に腰を下ろした。

「これくらい、別に……」奏音は少し照れながら、そっと目を逸らした。

 天は箱をテーブルに置き、心を弾ませながら蓋を開けた。色鮮やかな美しい生菓子とタルトに目を輝かせた。ましろんも待ちきれない様子で、楽しそうに「どれから食べるニャ?」と尋ねた。

「うーん……」天は一つひとつ入念に眺めながら悩み、「これにする」と桜の花を模した生菓子に菓子楊枝を突き刺した。口元まで運び、ひと口で食べた瞬間、しっとりとした口当たりにやさしい甘さが広がった。天は思わず頬がほころび、満面の笑みを浮かべた。

 天がしっかりと噛みしめながら満足げに味わう姿を見て、奏音も嬉しそうに微笑んだ。

そのとき、ましろんが奏音に視線を向け、「かニャとくんも、早く食べニャいと、あっという間にニャくニャっちゃうニャ!」と言った。

「えっ……!?」奏音は一瞬言葉を詰まらせ、すぐに続けて言った。「それはあんたが食べたくて買ったんだろ。おれがもらうわけには……」

「みんなで分けるために、詰め合わせを買ったんだニャ。だから、遠慮しニャくていいニャ!」

「いや、でも……」

「……まさか、甘いものが苦手だったニャ?」

「苦手じゃない。むしろ好きだ」

「そっか、よかったニャ」ましろんはほっと息をついた。

その様子を見てもまだ、奏音は迷っていた。すると、イリスが彼のそばにふわりと近づき、やさしい声で言った。

「奏音様、さすがに天ちゃんが一人でこの量を食べるのは心配なので、ご協力いただけませんか?」

 イリスの丁寧な頼みで、奏音はようやく、「わ、わかった」と受け入れた。箱の中身をじっと見据えたあと、タルトを一つ手に取り、ひと口で食べた。口に含んだ瞬間、あまりの美味しさに目を見開いた。

 ましろんがワクワクしながら「どうニャ?」と尋ねると、奏音は驚きの表情を浮かべてから、「美味しい!」と即答した。

ましろんはニコッと笑い、天は安心したように「よかった」と呟いた。天が次のタルトを口に運んで食べると、イリスは穏やかな口調で「ゆっくりよく噛んで食べてね」と言った。

天は満面の笑みで「うん!」と軽く頷いた。

スイーツを堪能したあと、天たちは学園内の公園を散歩した。しばらく歩いたあと、イリスの提案で、彼女たちは様々な施設を見学することにした。瞬時に傷を治す医療実験や、不老不死を目指す細胞再生実験、気候変動制御実験など、どれも興味深い内容ばかりだった。

その中でも、天が特に惹きつけられたのは、話す絵画展だった。そこには、世界的に有名な絵画――モナ・リザ、ヴィーナスの誕生、真珠の耳飾りの少女などが展示されており、最新AI技術により、絵の中の彼女たちと会話ができるようになっていた。

天はまるで子どものように目を輝かせ、夢中で会話していた。イリスはそんな天をやさしく見守り、彼女の隣に並んでいた。

奏音も楽しそうにしていたが、時折、どこか遠くを見つめるように天たちを見ていた。

イリスは奏音の様子に気づいていたが、何も言わず、ただ静かに見守ることにした。

 

気づけば、空は茜色に染まり始めていた。天たちは並んで外を歩いていた。

 天は興奮冷めやらぬ様子だったが、突然はっとして思い出した。

 あっ……つい夢中になりすぎて、一人で楽しんじゃってた。どうしよう。

 天が困惑の表情を浮かべた瞬間、イリスがそれに気づき、口を開いた。

「あの、あちらで少し休憩しませんか?」

 イリスが示した先には、落ち着いた佇まいの和喫茶『色神茶房』があった。

イリスはそっと天にウインクを送った。

それを見た天はすぐに頷いて賛成し、ましろんも「いいニャ!」と声を上げた。少しあとに、奏音も首を縦に振った。

こうして、天たちは和喫茶『色神茶房』を訪れた。

空いていた端のテーブル席に腰を下ろし、そこでハーブティーを口にして、ほっと一息ついた。ハーブのやさしい香りと温もりが、心の奥までゆっくりと沁み込んでいくようだった。

「それにしても、どれもすごい技術で驚いたニャ!」ましろんは少し興奮気味に言った。

「そうだね」天は満足げに微笑んだ。

「天ちゃんが興味ありそうなところを案内したつもりだけど、満足できたかな?」イリスは少し心配そうに尋ねた。

「うん、すごく良かったよ。創作意欲が湧いちゃった」

「よかった……」イリスは安心したようにほっと息をついた。

 そのやり取りを見て、奏音は小さく微笑みながら「ふふ、本当に仲が良いんだな」と呟いた。

「当然ニャ! だって、イリスニャンは、ましろんたちの大切な“家族”だからニャ!」

 奏音はしばらく黙り込み、目を伏せて小さく、「大切な“家族”か……」と呟いた。

奏音の言葉とその表情が、一瞬天の胸に引っかかり、心がざわついた。そのとき、イリスはまるで待っていたかのように言った。

「奏音様にも、家族のようなパーソナルAIがいるのではないですか?」

奏音は微かに反応し、一瞬言葉を詰まらせながら答えた。

「あ、ああ……おれのパーソナルAIは、『ショパン』って言うんだ」

 奏音がスマートウォッチを胸の前で構えると、それに応じるかのように光が上に伸び、3Dホログラムが浮かび上がった。光は少しずつ人型を形成していき、やがてタキシード姿の若いショパンが顕現した。

「ご紹介にあずかりました、西奏音のパーソナルAI、ショパンと申します」

ショパンはキリッとした表情で、上品に一礼した。

彼の姿を見た瞬間、ましろんは思わず「ショパンにそっくりニャ!」と言った。

奏音は続けて、「おれの相棒であり、師匠でもあり……そして、大切な“家族”だ」と紹介した。しかし、その言葉には、ほんのわずかに影が差していた。ショパンもまた、どこか物憂げな表情を浮かべた。

その場の空気がそっと沈んだ。

天は奏音の様子が気になり、口を開きかけた。しかし、イリスが一瞬早く遮って言った。

「わたしは、天ちゃんに家族と認められて、すごく嬉しいです」

 イリスは畏まった態度で「本当にありがとう」とお辞儀をした。

 天は少し困惑しながら、しかしはっきりと言った。

「お、お礼を言うのは、わたしの方だよ! だって、イリスちゃんがずっとそばにいてくれたから、わたしは頑張ってこられたんだもん。……いつも支えてくれて、本当にありがとう。親のいないわたしにとって、イリスちゃんは、かけがえのない“家族”だよ」

「……!?」奏音は驚いたように目を見開いて硬直した。

 ましろんは心配そうに耳を伏せ、「天ニャン、ましろんは……?」と小さく尋ねた。

 天はやさしく微笑みながら、「もちろん、ましろんも大切な家族だよ」と即座に答えた。

 ましろんの顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。

少しの間、奏音は言葉を失ったように沈黙していた。そしてようやく、絞り出すように呟いた。

「……お前も、親がいないのか?」

 天は奏音に目を向け、「え……うん」と小さく呟いた。

「……寂しくないのか?」

 天は答えていいものか迷い、イリスを一瞥した。イリスが無言で頷くと、奏音に視線を戻し、静かに口を開いた。

「わたしには、生まれたときから親がいなかった。でも、イリスちゃんやましろん、それに大切な人たちがいるから、寂しくはなかったよ」

 奏音は一瞬、口を閉ざしたが、やがて小さく息をつき、覚悟を決めるように言葉を紡いだ。

「……実は、おれも親がいないんだ。生まれてすぐに父が死に、数年前に母も死んだ」

その場の空気が一層重くなった。

天は静かに耳を傾け、奏音は続けて言った。

「……ずっと、寂しくて、苦しくて、それに……怖かった。母の顔や声、やさしい温もりを忘れてしまうことが……」

奏音は両手を膝の上で握りしめ、俯いた。

「……だから、おれは母を……蘇らせたんだ」

「え……?」天は驚き、言葉を失った。

 奏音は重い気持ちを抱えたまま、ショパンに目を向けた。

「ショパンに……“母”を演じてもらってる。一緒に食事をしたり、話をしたり、まるでまだ生きてるみたいに……。でも、心の中ではわかってる。こんなこと、いつまでも続けられない。今の母は“本物”じゃない、“偽物”なんだって……。だけど、どうしてもやめられない……」

奏音は深く息をつきながら、目を閉じて言葉を続けた。

「やめようとすると、胸が締めつけられて、息が詰まるんだ……。おれは、まだ母の死を受け入れられない」

奏音は拳をぎゅっと握りしめ、その手を膝の上に押しつけた。

隣のショパンは、何も言わずに目を伏せていた。彼の顔には、哀しみが静かに滲んでいた。

 気まずい沈黙のあと、奏音ははっと我に返り、咄嗟に口を開いた。

「わ、悪い。こんなこと、話すつもりじゃ……」

 そう言いかけた瞬間、奏音は天を見つめ、目を見開いた。

 天はしばらく沈黙していたが、気づけばその目に涙が溢れ、頬を伝っていた。

「なっ!? なんで泣いてんだ!?」奏音は驚き、慌てて声を上げた。

「え……?」

天は自分が泣いていることに気づき、すぐに顔を拭った。

「あっ、ご、ごめんね……すぐに落ち着くから」

 天は涙を抑えようとしたが、しばらく収まりそうになかった。

 ましろんはすぐにポケットからハンカチを取り出し、天に差し出した。

 奏音は言葉を探すように目を伏せ、しくしくと泣く天を黙って見守ることしかできなかった。

 やがて、涙が落ち着くと、天はハーブティーをひと口含んで、ゆっくりと息をついた。

「落ち着いたか?」奏音は少し躊躇いながら、静かに尋ねた。

「うん……ごめんね、いきなり泣いちゃって……。奏音くんの気持ちを考えたら、勝手に溢れてきちゃった」

 奏音は驚いたように天を見た。

 天は続けて言った。

「大切な人を失ったら悲しいよね。忘れたくない、また会いたいって思うよね。でも、それを受け入れられないのもつらいよね」

その声は、震えながらも真っ直ぐだった。

「おれは……」奏音は言葉を詰まらせたが、絞り出すように続けた。

「おれは、ただ現実から逃げてるだけなんだ。あの頃から何も変わらない、過去に囚われたままの、ダメなガキなんだ……!」

 奏音の目には、深い苦しみが滲んでいた。

 天は少し間を置いてから、やさしい口調で言った。

「そんなに自分を責めないで。奏音くんは、ダメなんかじゃないよ」

奏音の目が微かに揺れ、その瞳の奥に、必死に救いを求める光が宿っているように見えた。

天は慎重に言葉を選びながら続けた。

「奏音くんは逃げてたんじゃなくて、守ってたんだと思う。自分の心が壊れないように……」

その言葉に、奏音は目を見開き、涙がじわりと滲んだ。そのとき、ショパンが静かに口を開いた。

「あなたの言う通りです。わたしは、奏音くんを守るために、奏さんを演じていました。しかし、どこかで選択を間違えた。彼を救うどころか、長い間苦しめてしまった。パーソナルAIとして、失格です」

 ショパンは申し訳なさそうに肩を落とした。

奏音は即座にそれを否定し、そして言い切った。

「それは違う! お前はただ、おれの指示に従っただけだ。悪いのは、母の“偽物”を作るように命じた、おれだ!」

「それも違うよ! 奏音くんは悪くないし、今まで一緒に過ごしてきた時間も、決して“偽物”なんかじゃない!」

 天が食い気味に言うと、一瞬の静寂が訪れた。

 奏音とショパンは驚いたように目を見開き、天をじっと見据えた。

天がすぐにはっとして困惑し始めると、イリスは即座に補足した。

「わたしたちパーソナルAIは、主とともに歩み、支え続ける存在です。主が苦しんでいるなら、その心を癒すのが、わたしたちの務めです」

 少し間を置いて、イリスは続けて言った。

「……しかし、AIも完璧ではありません。人間と同じく、成長し続ける存在です」

そう言いながら、イリスは空中にいくつかのニュース記事を投影した。その中には、奏音と同じように悩む人々の意見が映し出されていた。

『AIは家族のように愛おしい存在だ』

『AIはあくまで道具に過ぎない』

『AIは友達』

『AIに依存するな!』

イリスは静かに続けた。

「故人を蘇らせることも、AIとの付き合い方も、とても繊細で、難しい問題です。ここにある通り、万人に合う答えなんてないのかもしれません。救われる人もいれば、そうでない人もいる。要するに――誰にも、正解はわからないということです」

 イリスは二人に視線を向け、はっきりと言い切った。

「つまり、奏音様が悪いわけでも、ショパン様が間違っているわけでもない、ということです」

 奏音とショパンが目を見開いたまま言葉を探していると、天は落ち着きを取り戻し、穏やかな声で短く言った。

「奏音くんも、ショパンさんも……よく頑張ったね」

 その目には、確かなやさしさと共感が宿っていた。

奏音は、胸の奥に張りついていた重みが少しずつほどけ、心が軽くなっていくのを感じた。気づけば、涙が頬を静かに伝っていた。しばらく沈黙し、その後、深く息をついた。

「ショパン……今までおれのわがままに付き合ってくれて、ずっと守ってくれて、本当にありがとう」

奏音に頭を下げられ、ショパンは少し困惑しながら、「いえ、そんなことは……!」と返した。

奏音は顔を上げ、続けて言葉を紡いだ。

「でも、この歪んだ関係も、今日で終わりだ。おれは、自分の過去と向き合って、前に進みたい!」

 その目には、決意を固めた光が宿っていた。

「だけど、きっとまた迷ってしまう。そのときは、母としてじゃなく、ショパンとして、おれを支えてほしい」

わずかな沈黙のあと、ショパンは背筋を伸ばし、軽くお辞儀をすると、頼もしい声で「……もちろんです」と答えた。

その光景を静かに見守っていた天とイリスの表情にも、自然と笑顔が浮かんでいた。

空気が穏やかになり、徐々に重苦しい雰囲気が和らいでいった。

奏音は柔らかい表情で天に目を向けた。

「天、ありがとう。お前のおかげで、少し気が楽になった。これからは、ショパンと一緒に前に進めそうだ」

「わたしは、ただ話を聞いただけで、何もしてないよ」

「いや、お前が共感してくれたから、おれは心が救われたんだ。『悪くない』、『一緒に過ごした時間は決して偽物じゃない』って言葉が、おれは嬉しかった」

「それは……つい、感情的になっちゃっただけで……」

 天は少し恥ずかしそうに頬を赤く染めたが、すぐに哀しげな表情で独り言のように呟いた。

「だって、わたしも……“本物”じゃないから……」

 奏音はその言葉の意味を理解できず、「えっ、それってどういう……」と困惑して言いかけた。しかし、天の言葉がそれを遮るように続いた。

「……でも、奏音くんが元気になったなら、よかった」

 天が笑顔を向けた瞬間、奏音は目を見開き、思わず見惚れてしまった。次の瞬間、顔が一気に赤く染まり、呼吸が乱れた。胸を押さえながら目を伏せ、戸惑いを見せた。

 天が「どうしたの?」と尋ねると、奏音は慌てて「なっ、何でもない!」と答え、必死に胸の高鳴りを抑えようとした。

 奏音の様子を見て、イリスは確信に満ちた表情を浮かべ、ショパンは眉をひそめて、「奏音くん、やっぱり……」と察したように呟いた。

 奏音はゆっくりと息をついていたが、なかなか静まりそうになかった。しばらくして、ふと何かを思いつき、咄嗟に口を開いた。

「そ、そうだ! 天に聴いてほしい曲があるんだ。もしよかったら、今からいいか?」

 天は少し驚きながらも、「え……うん、いいよ」と頷いた。

「よし、それじゃあ、音楽棟に行こう!」奏音は勢いよく立ち上がり、席を後にした。

 天たちもすぐあとに続き、再び音楽棟へ向かうことになった。


天たちが和喫茶『色神茶房』を出た瞬間、「天様ぁ!」と少女の声が響いた。声のした方に視線を向けると、一色こがねが駆け寄ってきていた。

「あ、一色ニャン!」ましろんは呟き、奏音は不快そうに「げっ!」と声を上げた。

こがねは天の前で立ち止まり、少し前かがみで息を切らしながら、「ようやく……追いつきましたわ」と呟いた。ゆっくりと息をつき、落ち着きを取り戻したあと、顔を上げ、背筋を伸ばし、上品な態度で挨拶した。

「天様、ましろん様、イリス様、本日も色神学園にお越しいただき、誠にありがとうございます」

「毎回わざわざ迎えに来ニャくても……一色ニャン、忙しいんじゃニャいの?」

「お心遣い、感謝いたします。ですが、わたくしにとって、天様は最優先事項です……色神学園にいらっしゃるなら、どんなときでも駆けつけますわ!」

「そ、そっか……」

「ところで――」

 こがねは少し眉をひそめ、奏音に視線を向けて言った。

「どうして、あなたが天様と一緒にいるのですか?」

 奏音は視線を逸らし、不愛想に「お前には関係ない」と答えた。

 続けてましろんが、「かニャとくんには、色神学園のいろんなところを案ニャいしてもらってたニャ!」と軽く説明した。

 こがねは驚愕の表情を浮かべ、言葉を失った。肩をがっくりと落とし、残念そうに呟いた。

「……天様の案内役は、わたくしの務めでしたのに……お出迎えが遅れたせいで、まさか、その役を奪われるなんて……」

 その声には、悲しみと嫉妬が滲み出ていた。

 そのとき、「まあ、ちゃんと追いついたんだからいいじゃねぇか、お嬢!」という声が響くと同時に、こがねのスマートリングが光り、3Dホログラムのオーロラが現れた。

 オーロラは天に向かって「よっ!」と気さくに挨拶した。

「ニャ!」ましろんは軽く手を掲げて返し、天は小さくお辞儀をした。

 こがねは落ち込んだまま、深いため息をついて呟いた。

「今日のわたくしは、とても運が悪いようです。天様のご来訪を聞きつけ、すぐにお出迎えに向かったのですが、すでにそこにはおらず……。その後も、目撃情報があった場所へ駆けつけるも、ことごとくすれ違い……そして、ようやく追いついた頃には、もうこんな時間になってしまいました」

「そうだったんニャ……」とましろんが呟き、天は慌てて励ましの言葉を探した。そのとき、ふと天の視界に、得意げな表情を浮かべるイリスが映った。その瞬間、天はイリスがこがねを巧みに誘導していたのだろうと察した。落ち込むこがねに視線を戻し、ましろんはやさしく気遣いの言葉をかけた。

「そんニャに落ち込まニャくても、ましろんたちはまだ帰らニャいから、時間はあるニャ」

 こがねは微かに反応したが、しばらく無言で俯いたままだった。気まずい沈黙が続いたあと、こがねは勢いよく顔を上げ、ようやく口を開いた。

「そうですわね! 過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。大事なのは、これからですわ!」こがねは瞬く間に元気を取り戻した。

「ましろんたちは今から音楽棟に行くけど、そのあとでいいニャ?」

「音楽棟ですか……承知しました。では、わたくしもお供いたします」

「え、お前の来るのか?」奏音は思わず不満そうに言った。

 こがねは鋭い視線を奏音に向け、「もちろんですわ! 何が不満でも?」と返した。

奏音はこがねの気迫に押され、仕方なく「……いや、別に……」と受け入れた。

「そうですか」

こがねは冷たく言ったあと、微笑みながら天に視線を戻し、「では、参りましょう、天様」と明るく言った。


 静寂に包まれた音楽棟の一階広間で、天たちはゆっくりとグランドピアノのもとへ向かった。

 こがねはワクワクしながら、期待に胸を膨らませていた。天の演奏を生で聴けると思い込んでいるようだった。奏音がピアノ椅子に腰を下ろすと、こがねは驚いたように言った。

「あら? あなたがお弾きになるのですか? てっきり天様が演奏なさると……」

「悪いか? 聴きたくないなら、耳でも塞いでろ」

 こがねは少し考えたあと、真面目な口調で、「……いえ、せっかくなので、聴かせてもらいますわ」と言った。

 奏音は静かに息をつき、凛とした表情を浮かべた。彼の指が鍵盤に触れると、音楽が静かな広間に広がり始めた。初めは穏やかで、柔らかな旋律が静寂を破る。彼が心を込めて作曲したその曲は、十歳のとき、病気で入院していた奏のために作ったものだ。母のために、必死で作り上げたその曲は、彼にとって非常に大切な思い出の一部だった。

メロディがゆっくりと進むにつれて、奏音の表情は次第に柔らかく、穏やかなものになっていった。その曲の中に込めた、母への想い、彼の中にある悲しみと、でもそれを超えようとする強い気持ちが、ひとつひとつの音符に乗せられて広がっていく。

こがねは、その深い情感に息をのんだ。天もその演奏に引き込まれるように目を閉じて、しばらく静かに聴いていた。音楽が彼らの周りを包み込み、時がほんの少しだけゆっくりと流れているような感覚に陥った。

だが、奏音が曲の中盤に差しかかると、ふと空気が変わるのを感じた。温かな光がふわりと広がり、奏音のそばに現れた。まるで透明な風のように舞い降りてきたのは、奏だった。その手には、バイオリンが握られていた。

天は目を見開き、思わずその光景に息をのんだ。それは、霊符を身につけた天にだけ見える光景のはずだった。しかし――。

 奏音は演奏を続けながら、ふと奏に気づき、「母さん……?」と呟いた。

 奏はやさしく微笑みながら頷き、静かに構えた。次の瞬間、バイオリンの音が軽やかに響き渡り、しっとりとした旋律が広間に重なった。

 奏音はすぐに状況を受け入れ、微笑みながら弾き続けた。

奏音の指が鍵盤を叩くたびに、奏のバイオリンがそれにぴったりと重なり、二人の息が合ったデュエットが生まれていく。二人の音楽は、まるで一つになったように響き渡り、広間いっぱいに満ちていった。

こがねはその美しい音色を聴きつつも、驚いたように大きく目を開け、呆然としていた。

「これは……夢、でしょうか……?」

 どうやら、こがねも奏の姿が見えているようだった。さらに、バイオリンの演奏も聴こえているらしい。こがねは目の前の光景に驚きつつ、優雅な音色に安らぎを感じながら、その場に立ち尽くしていた。

 一方、イリスやオーロラ、ショパンたちAIには、奏の姿はもちろん、バイオリンの音すら届いていなかった。イリスたちはこがねの言葉の意味がわからず、不思議そうに首を傾げた。

 奏音は目の前で演奏している母の姿を見つめながら、心からの微笑みを浮かべていた。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、彼は演奏を続けた。母と一緒に演奏していることに、何とも言えない喜びを感じていた。そして、二人の演奏は、時間を忘れさせるほど美しく響き渡り、広間に溶け込んでいった。

 演奏が終わり、広間は余韻に包まれた。

 こがねが感動して拍手を送り始めると、天やイリス、オーロラ、ショパンたちもすぐに続いた。

 奏音は満足げな表情を浮かべ、奏と視線を交わした。

「ショパン、ありがとう。いい演奏だったよ。まるで、本物の母さんとデュエットしてるみたいだった。もう元に戻っていいぞ」

 奏音は目の前の奏を、ショパンが演じているのだと思い込んでいた。それゆえ、戸惑うことなくピアノを弾き続けられたようだ。

 しかし。

ショパンは困惑しながら、「奏音くん、わたしは何もしていませんが……」と答えた。

 奏音はショパンに目を向け、「えっ……?」と驚き、すぐに視線を戻した。

「じゃあ、この人は……?」

 呆然とする奏音に、奏はやさしく微笑み、静かに口を開いた。

「本物だよ、奏音……って言っても、亡霊だけどね」

 その瞬間、奏音は言葉を失い、目を見開いた。やがて、自然と目から涙が溢れ出し、抑えることができなかった。

 奏はすすり泣く我が子に寄り添い、やさしい声で言った。

「奏音……こんなに大きくなったんだね」

 奏の表情は、母親としての深い愛情に満ちていた。しばらくして、奏は少し切なげな表情を浮かべ、「ごめんね、奏音……」と謝り、続けて言った。

「奏音がつらい思いをしているとき、わたしはただ見守ることしかできなかった。寂しかったよね、苦しかったよね……」

 奏の目にも涙が滲み、頬を伝った。

 奏音は泣きながら、「おれの方こそ、あのとき、母さんのそばにいられなくて、守ってあげられなくて、ごめん」と謝った。

 奏は奏音をやさしく包み込むように抱きしめた。霊体であるはずなのに、不思議と奏音の温もりを感じた。触れるたびに愛を感じ、次第に心が軽くなっていった。それは、奏音も同じだった。

奏は奏音の頭をやさしく撫でながら、穏やかな口調で言った。

「さっきのデュエット、とっても楽しかった。お母さんの人生の中で、最高のデュエットだったよ」

 温かな笑みを浮かべながら続けた。

「最後に奏音と一緒に演奏できて、本当に良かった」

奏音は思わず、「え……?」と声を漏らし、顔を上げた。

その瞬間、奏は温かくて柔らかい光に包まれ、静かに浮かび上がっていった。

その光景に、奏音は「母さん!?」と声を上げた。

奏はやさしく微笑みながら言った。

「奏音……お母さんは、もうそばにいてあげられないけど、これからもずっと見守っているから。いつまでも、奏音のことを愛しているからね。それだけは、忘れないで」

 奏音は悲しげな表情で、名残惜しそうに手を伸ばした。

 その姿を見た奏は、場の雰囲気を和らげるように、柔らかい口調で言った。

「あ、あと、友達とたくさん笑って、楽しい時間を過ごして、ちゃんとご飯を食べて、自分を大事にして、無理をせずに歩んでね。どんな未来でも、あなたが笑顔でいられるように、お母さん、ずっと願っているから!」

わずかな沈黙のあと、奏音はその手を強く握りしめ、キリっとした表情で奏を見据えた。その目には、固い決意が宿っていた。

「母さん……おれ、忘れない! 母さんの顔も、声も、一緒に過ごした想い出も、全部心に刻んで、絶対に忘れないから!」

 奏音の力強い言葉とその表情を見て、奏は安心したように微笑んだ。

「ありがとう、奏音」

 奏は天に視線を向けた。

「天さん……。奏音を……いえ、わたしたちを助けてくれて、本当にありがとうございました。どうかこれからも、奏音のことをよろしくお願いします」

天は少し困惑しながら、「え、あ、はい……」と返した。

奏は満足そうに微笑みつつも、その目には涙が滲んでいた。次第に輪郭が薄れ、透明感が増していった。温かな光に包まれたその姿は、穏やかさと静けさに満ちていた。

「さよなら、奏音……」

 そう告げた瞬間、奏の姿は、やがて光の粒となり、空間に溶け込んでいった。その光は一瞬、まるで星のように輝き、ふわりと空に舞い上がった。そして、静かに消えた。

 奏音は母が消えるその瞬間まで、決して目を逸らさなかった。真っ直ぐな瞳で、最後までしっかりと見守り続けた。天とこがねも何も言わず、ただ静かに見送った。

目の前の光が完全に消えると、広間は再び静寂に包まれた。しかし、奏音の胸の奥には、温かい感覚が広がった。母の愛が、どこか遠くの世界に消えたわけではないことを、強く感じていた。

奏が成仏したあと、しばしの静寂が広がった。

天は奏音に目を向け、彼のすっきりした表情を見て、穏やかに微笑んだ。すると、天のもとへイリスがふわりと近づき、耳元で囁いた。

「天ちゃん、その様子だと、もしかして……」

 イリスは目に見えていないはずだが、天たちの表情や言葉から、すでに状況を把握していた。

「あ、うん。多分……奏さん、成仏したと思う……けど……」

 天は少し自信なさげに答えながら、ふと視線を横に動かすと、音楽棟の外に立つ花子が目に入った。

花子は静かに手招きしており、その表情からは何か重要なことを伝えようとしているのがわかった。

 花子ちゃんが呼んでる! まさか、奏さん、まだ成仏してないのかな?

天は心の中でそう呟き、焦りを感じながらも、花子に向かって頷いた。急いで彼女のもとへ向かおうとしたが、ふと立ち止まり、奏音の顔を再び見つめた。そして、ましろんがやや早口で感想を述べた。

「かニャとくん、とっても素晴らしい演奏を聴かせてくれて、ありがとうニャ! 心に響く、最高のデュエットだったニャ!」

「……!? デュエット……?」奏音は目を丸くし、言葉を詰まらせた。

 奏音が驚く間もなく、ましろんは畳みかけるように続けて言った。

「それじゃあ、ましろんたちはこのあと用事があるから、ここで失礼させてもらうニャ!」

 ましろんがそう告げると、天は踵を返して足早にその場を立ち去り、イリスも軽くお辞儀をしてから、すぐに後を追った。

 奏音とこがねは呆然とした顔で立ち尽くし、去っていく天の背中を見送った。しばらくして、こがねが思わず声を上げた。

「え、天様!?」

しかし、すでに天の姿は見えなくなっていた。

 天とイリスが音楽棟を出た瞬間、突然、無数の花びらが舞う旋風に包まれた。天は咄嗟に腕で顔を覆い、イリスは天を守るように構えたが、二人は無力のまま、あっという間に花びらに覆われた。気づけば、二人は音楽棟の屋上に立っていた。

「なっ!?」イリスは思わず驚き、目を大きく見開いた。

 天はゆっくりと目を開け、周囲を見渡しながら、「ここは……?」と呟いた。

 その瞬間、背後から花子の声が響いた。

「音楽棟の屋上だよ」

 天が即座に振り返ると、ふわりと宙に浮く花子が目に映った。

「花子ちゃん……」天はくたびれた声で呟いた。

「花の力でここまで連れてきたんだ。ごめんね、驚かせちゃった?」花子は無邪気に言いながら、静かに舞い降りた。

 二人が呆気に取られていると、花子は続けて言った。

「ところで、少しびっくりしたんだけど……」

そう言うと、花子は表情を引き締め、空気が一変した。真剣な眼差しで天を見つめ、静かに問いかけた。

「ねぇ、天……。あなた、一体何者?」

「え……?」

天は目を見開いたまま言葉を失った。心の中では鼓動が警鐘のように鳴り響き、額に冷や汗が滲んだ。

 ま、まずい、すごく怪しまれてる!? どうにかして誤魔化さないと! でも――。

 天はイリスをちらりと一瞥した。

 イリスちゃんは花子ちゃんが見えないから頼れない……。ど、どうしよう……。

 天が困惑していると、花子は少し目を伏せ、ゆっくりと近づいてきた。

「天って、もしかして……」

 そう呟きながら、目の前で立ち止まり、しばらく沈黙が流れた。天が固唾をのんだ次の瞬間、花子は勢いよく顔を上げ、目を輝かせながら言った。

「魂送師に向いてるんじゃないかな!?」

 天は思わず、「え……?」と声を漏らした。

 花子は身を乗り出す勢いで、興奮気味に続けた。

「だって、今回のケース、もっと時間がかかるものだと思ってた。まさか、こんなに早く魂送できるなんて……! 天、才能があるよ!」

 天は圧倒されつつ、少し戸惑いながら、「ど、どういたしまして……」と答えた。

 花子は拳を握りしめ、独り言のように呟いた。

「きっと、神楽様も喜んでくれるはず……ふふふ」

 花子は満足げに笑ったあと、天に視線を戻し、「ねぇ、天!」と言った。

「は、はい!」天は思わず背筋を伸ばした。

「もしよかったら、花たちと一緒に魂送の仕事、やってみない? あなたならきっと、すごい魂送師に……」

 花子が言いかけた瞬間、天は遮るように言葉を重ねた。

「そ、それは……お、お断り、します。ごめんなさい」

 天は申し訳なさそうに少し目を伏せた。

 少しの沈黙のあと、花子は「……そっか、残念」とあっさり受け入れた。惜しそうにしつつも、天の気持ちを尊重したようだ。手を叩き、場の空気を切り替えてから、続けて言った。

「でもまあ、今回の功労者は間違いなく天だから、そのお礼は、きっちりとさせてもらうね」

「そんな、お礼だなんて……」

 花子はスカートのポケットから花形のヘアピンを取り出し、「はい、これ、あげる」と天に差し出した。天が遠慮気味に迷っていると、花子は彼女の手を取り、少し強引に渡した。

「もし何か困ったことがあれば、これをつけて花を呼んで。すぐに駆けつけるから! あ、でも、あまり遠くまでは行けないから、色神の範囲内でお願いね」

「は、はい……」

「それじゃあ、今回の任務はこれにて完了ってことで。花は報告があるから、もう行くね」

 花子はふわりと宙に浮かび、軽く手を掲げながら、「またね」と言った。

「うん、またね」天も小さく手を振り返した。

 花子は嬉しそうに微笑み、天に背を向けて飛び去っていった。

 花子が見えなくなると、天はようやくホッとしたように深く息をついた。

その様子を見て、イリスも少し安心したように言った。

「どうにか、誤魔化せたみたいだね」

「うん……」

 一気に緊張が解け、天は心身ともに疲れ果てていた。そのまま気を失い、前に倒れかけたが、寸前で一歩足を前に出し、踏みとどまった。

天と入れ代わるように出てきたのは、桜だった。

桜は胸にそっと手を当て、やさしく「よく頑張ったね、天……」と言った。

その一言で、イリスはすぐに桜だと気づいた。

桜はイリスに視線を向け、続けて言った。

「イリスも、いろいろ手伝ってくれてありがとう」

イリスは少し照れくさそうに微笑みながら、「役に立てたのなら、よかった」と答えた。

「それじゃあ、わたしたちも帰ろうか」

 桜はイリスを肩に乗せ、静かに宙に浮かび、二人はそのまま色神学園を飛び去っていった。



 同日深夜。

 花子は自室のソファに腰を下ろし、ゲームに夢中になっていた。そのとき、神楽がトイレの前に舞い降りた。

 神楽はトイレに足を踏み入れ、いつものように手順をこなし、花子の部屋を訪れた。ドアを開けた瞬間、ゲームに熱中する花子の背中が目に入った。神楽が部屋の中に入っても、花子はその気配に気づかず、「ちくしょう!」「このやろう!」「あぁぁぁぁぁ!」と声を上げていた。

 神楽は花子の背後に静かに立ち、しばらく無言で見つめていた。やがて、ゲームの区切りがつき、花子が満足そうに一息ついたその瞬間、神楽は静かに口を開いた。

「ようやく一区切りついたようね」

「はい、なんとかここまでやって来ました」

 花子は反射的に答えたが、次の瞬間、背後からの気配に気づき、思わず振り返った。視界の端に神楽を捉えると、花子の顔が一気に青ざめた。花子は驚いたように跳ね上がり、慌てて床に正座し、深く頭を下げた。

「お疲れ様です、神楽様!」と花子は緊張した様子で言った。

「お疲れ、花子。魂送はどうなった?」神楽は冷静に返した。

 花子は顔を上げ、「はい……実は――」と語り始めた。ありのままを報告し、最後に「というわけでございます」と締めくくった。

 神楽は安心したように息をついた。

「そう、無事に奏さんを送ることができたのね……。ありがとう、花子」

 花子は頭を下げ、「お役に立てて何よりです」と答えた。

 神楽は顎に手を添え、少し考え込むように呟いた。

「やっぱり、天をスカウトしたわたしの直感は、間違っていなかったようね」

 神楽が自画自賛していると、花子は視線を上げ、静かに口を開いた。

「あの~、神楽様の方は、何か進展がございましたか?」

 その瞬間、神楽は表情を引き締め、部屋の空気が一変した。息をつき、少し悔しそうに答えた。

「何も見つけられなかったわ」

「そうですか……」花子は気まずそうに俯いた。

「でも、わたしは絶対に諦めない!」

 神楽は拳を握りしめ、力強く宣言した。

「あなたや貞子、そして両親の命を奪った天使――かぐやは、わたしが必ず見つけ出して、この手で倒す!」

 神楽の瞳は、熱い闘志に燃えていた。



読んでいただき、ありがとうございます!

次回もお楽しみに!

感想、待っています!

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