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翠の秘密

都会の喧騒を離れた閑静な一角に、巷で人気の喫茶店『色神の森』がある。

通称『色森』として有名なこの店で、翠は週一日、毎週木曜日だけ働いていた。

普段はホール担当だが、料理が得意なため、キッチンの人手が足りないときは手伝うこともある。

翠は味覚と嗅覚が非常に鋭く、一口食べただけで材料を言い当てる特別な能力を持っている。そのため、新メニューの開発にも参加していた。

 喫茶『色森』には、老若男女問わず、多くの客が訪れる。勉学やスポーツ、仕事など、競争社会で疲れ切った心身を癒しに、多くの学生や若者、大人たちが訪れる憩いの場となっていた。

 しかし――。

 四月七日、木曜日の午前九時過ぎ。

翠が関係者専用の裏口から店内に足を踏み入れた瞬間、店内に轟音が響き渡った。

翠は戸惑いながら、急いでホールへ向かった。そこでは、同僚の茉田莉モカが、アイドル衣装をまとい、小さなステージで歌い踊っていた。

店内の電気はすべて消え、窓には遮光カーテンが下ろされている。アップテンポな音楽が、空間を満たしていた。モカにはスポットライトが当たり、彼女の動きに合わせ、客は合いの手を入れていた。その輪の中には、一色こがねの姿もあった。

喫茶『色森』は、まるでアイドルのライブ会場のようだった。

 曲の間奏になると、モカが翠に気づき、声をかけた。

「あー、みどりん、おはよー!」

「な、何やってるんですか!? モカさん!」

「みどりん、見てわかんないのぉ? これが噂の『モカライブ』だよー!」

「モカライブって何ですか!?」

「モカライブは、モカライブだよー」

翠は驚きのあまり、言葉を失った。はっと我に返り、慌てて口を開く。

「……ここはライブ会場じゃなくて、喫茶店なんですが……!」

「みどりん……」

モカは突然、鋭い眼光を翠に向けた。翠が思わず身構えると、モカは一瞬で笑顔に変わり、柔らかい口調で言った。

「今はー、モカのかわいさを引き立てるためのステージだよー」

「なっ、何言ってるんですか!? 今すぐやめ――」

翠が言い終わるよりも早く、モカは二番を歌い始めた。

モカのファンたちは、モカ色のペンライトを振りながら、盛り上がっていた。

翠がモカライブを止める方法を冷静に考えながら、店内を見渡していると、背後から突然、店長の青山一あおやまはじめが現れた。

翠は気配に気づき、反射的に振り返った。

「店長! 今すぐモカさんを――」

翠が助けを求めようとしたその瞬間、青山も両手にペンライトを持ち、ノリノリで合いの手を入れ始めた。

「って、お前もか!」翠は思わず叫んだ。

「ん? どうしたんだい? 翠くん……」

青山は首を傾げてから、にっこりと笑った。

「あっ! もしかして、翠くんもペンライトが欲しいのかい? じゃあ、一つ貸してあげるよ」

青山はペンライトを差し出した。

「いりません!」

「え、いらないの?」

「そんなことより、今、大変なことが起こっていますよ、店長!」

翠はモカを指差した。

「いいんですか!? 喫茶店でこんなことして!」

「……皆、盛り上がってるから、いいんじゃない……?」

翠は改めて店内を見渡した。青山の言う通り、客たちはみんな笑顔で楽しそうに見えた。その光景を見た瞬間、翠は言葉を失った。やがて小さく息をつき、何も言わずに見守ることにした。

 モカが一曲歌い終えると、客たちから拍手喝采が巻き起こった。翠も気づけば、無意識にモカに拍手を送っていた。客を楽しませているという意味で、翠はモカの行動に納得しかけていた。

 モカは客にマイクを向けながら問いかけた。

「みんなー、今日もモカは……?」

「一番かわいい!」と、客全員と青山が声を揃えて答えた。

「明日のモカも……?」

「一番かわいい!」

「この先ずっと……?」

「一番かわいい!」

「はーい、よくできましたぁー!」

モカたちは見事なコール&レスポンスを行った。

「それじゃあ、またねー!」

モカが笑顔で手を振ると、次第にスポットライトが薄くなり、遮光カーテンも開き、店内の電気もついた。

盛り上がっていた店内は、一瞬にしていつも通りの雰囲気に戻った。

翠は戸惑いを隠せず、立ち尽くしていた。

「な、なんだったんですか……今の……?」


 店内はすっかり落ち着きを取り戻し、穏やかな空気が流れていた。

 翠は気持ちを切り替え、いつも通り爽やかに仕事に励む。店内を回るうちに、客の話し声が耳に入った。

二人の若い男性客は、翠を見つめながら囁くように会話していた。

「なあなあ、もしかして、あの綺麗な人が……?」

「ああ、女神様だ」

「噂は本当だったんだな!」

「マジでかわいいな!」

 翠がニコッと笑顔を向けると、二人は胸を撃ち抜かれたように固まり――そのまま力なくテーブルに突っ伏した。

 さらに、ある少女は翠の働く姿に見惚れ、ぽつりと呟いた。

「ああ、女神様……なんてお美しい! 最推し決定!」

 翠が微笑みながら軽く会釈すると、少女は嬉しさを抑えきれず、声を弾ませながらメニューを注文し始めた。

 その他の客たちも、翠を見つめながら、「女神様」と口々に呟いた。

 翠はカウンターの奥へ向かい、小さくため息をついた。

「はぁ……またですか。わたしが女神様だなんて……」

 翠は巷で『色森の女神様』と呼ばれ、それに悩んでいた。

一週間に一度、喫茶『色森』に“女神様”が現れる、という噂が、翠の知らぬ間に拡散していた。

翠はネット上で『色森の女神様』という言葉を見つけるたび、拡散を防ぐためパーソナルAI『イリス』に削除を依頼していた。さらに、噂の出所も調べてもらったが、いつ、誰が最初に言い始めたのか、不明だった。

翠は葛藤した。

女神様と呼ばれることに、悪い気はしません。わたしがかわいいということは、真白さんがかわいいということ。それはとても嬉しいです。でも――やっぱりちょっと、恥ずかしいですね。それに、あまり目立ちたくはないのですが……。

翠は胸の奥に小さなモヤモヤを抱えながらも、客の前では笑顔を絶やさなかった。そのおもてなしが、客たちの心を揺さぶり、ファンを増やし続け、店の売り上げに大きく貢献していた。

 翠が真面目に働く姿を、モカはじっと見つめていた。その瞳には、わずかな嫉妬心と負けたくないという対抗心が宿っていた。やがて、モカはゆっくりと歩み寄り、声をかけた。

「みどりん、ちょっといいー?」

「はい、何ですか?」

「最近さ、すごい賑やかだよねー」

「そうですね」

「きっと、みどりんが来てくれたおかげだよー」

「いえ……モカさんのライブの影響だと思います」

 一瞬、空気が凍りついた。

「……それでさ、ちょっと突然なんだけどー。みどりんがどのくらい成長したのか、モカがテストしてあげる!」

「……テスト、ですか?」

「うん。後輩の指導も、先輩の仕事だから」

 翠は少し考え込み、小さくため息をついて答えた。

「……わかりました」

「よーし! それじゃあ、はじめるよー!」

 こうして翠は、モカの抜き打ちテストを受けることになった。

「じゃあまずは――第一種目!」

モカはぴしっと指を立て、大げさに宣言した。

「スマイル対決! どっちがより多くのお客さんを笑顔にできるか、勝負だよ!」

「え……? 勝負するんですか? モカさんと、わたしが……?」

「うん。その方が絶対盛り上がるよ!」

「でも……」

「接客の基本は笑顔! ここで差が出るんだよー?」

 そう言うと、モカはくるりと振り返り、近くのテーブルへ。

「いらっしゃいませ〜」

 ニコッと満面の笑み。さらにウインクまで添える。

 客が一瞬で固まる。

「……まぶしい!」

 そう叫ぶと、そのまま背もたれに崩れ落ちた。

 モカは振り向き、得意げに言う。

「どう? 今の」

「すごいですね……」

 翠は別のテーブルへ向かう。

「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」

 ふわり、と柔らかな微笑み。

 客は一瞬ぽかんとした。

「……ここ、天国……?」

 すっと涙を流し、静かにテーブルに突っ伏した。

 翠はモカに視線を向け、不安げに言う。

「これは……どうでしょうか?」

「なかなかやるねー!」

 その後も二人は笑顔を振りまき続けた。

翠はいつも通りの丁寧な接客で客を癒し、モカはアイドルのように客との距離を縮めて楽しませた。

しばらくすると、常連客が腕を組み、真剣な声で言った。

「どっちの笑顔も素敵すぎて、甲乙つけがたい……! よって、両者引き分け!」

 そう告げると、彼は満足そうに崩れ落ちた。

「えー、引き分け?」

「引き分けですね……」

 少し間を置いて、次の勝負が始まる。

「じゃあ次! 第二種目!」

「まだあるんですね……」

「当然!」

モカは胸を張る。

「どっちが多く注文を取れるか! よーい、ドン!」

二人は同時に別々のテーブルへ向かう。

「こちら、お客様の好みに合うと思います」

 翠は客を瞬時に分析し、的確な提案をしながら注文を受けて回った。

 一方、モカは――。

「これかわいいよ!」

 可愛らしい見た目のメニューをオススメして回り、デザートが爆売れした。

 数十分後――二人の受けた注文数は、ぴったり同じだった。

「また引き分けー?」

「そうですね」

 そして、すぐに次の対決が始まる。

「じゃあ第三種目いくよー!」

「まだ続くんですか……」

「むしろ、ここからだよ!」

 モカはどや顔で宣言する。

「次は、ステップ対決!」

「ステップ対決……? って、何ですか?」

「どっちが華麗なステップを踏めるか、勝負だよ!」

「それ、接客に関係ありますか?」

「……さあ、まずはモカが披露するよー!」

 モカは強引に話を切り上げ、まだ残っていたステージに上った。店内に流れるBGMに合わせ、華麗なステップを踏んで見せた。リズム感抜群、キレのある動きで客たちを一瞬で魅了した。

 次に、翠がステージに上がる。

翠は人前で踊った経験などなく、知識も技術もない。先ほどのモカの動きを即興で模倣するが、その動きはぎこちなく、モカのステップとは程遠い。だが、そのたどたどしさが、なぜか客たちの胸にじわじわと刺さっていく。

「……あれ?」

「なんか可愛い……守りたい!」

「女神様、最高!」

まさかの大好評だった。

 その結果、勝負は引き分けとなった。

「さすがみどりん! ここまでやるとは……!」

「いや、特に何もしていませんが……」

「次が最終種目だよ!」

「ついに、最後ですか」

「最後の対決はー」

 モカは店内を見渡し、一色こがねの姿を見つけると、何かを閃いた。

「あの子が次に何を注文するのか、予想しよう!」

「……あのお客様、ですか」

「それじゃあ、予想開始!」

 二人は一色をじっと見つめ、よく観察した。

 一色は優雅に読書をしており、テーブルには、飲み終えたカップと空の白い皿がある。

 その光景を見つめながら、モカは予想した。

「ん~、あの子が次に食べたくなるのは――きっとこれだよ!」

 モカが選んだのは、フルーツもりもりのド派手ないちごパフェだった。

「今、ちょっと甘いものが欲しそうな顔してた!」

 一方、翠は注意深く見つめ、推測した。

「あの手のお客様が次に注文するメニューは――これです!」

 翠が選んだのは、オリジナルブレンドだった。

「あの様子だと、もう一杯飲みたくなる可能性が高いです」

 二人の予想が出揃ったちょうどそのとき、一色は本を置き、呼び出しベルを押した。

 翠が席へ向かい、モカはその場で見守る。

「お待たせしました」

「追加で注文をお願いします」

「はい」

 一色はメニュー表を広げる。すでに決めているようだ。

 周囲に緊張感が走る。

「では、いちごパフェをお願いいたします」

 その瞬間、モカは小さくガッツポーズし、勝利を確信した。

 翠は予想が外れたと思い、注文を繰り返そうとした。

 だが――。

「あと、オリジナルブレンドをもう一杯、お願いいたしますわ」

「……え?」

 翠は言葉を失い、一瞬固まった。

 モカも目を見開き、ぽかんとした。

 一色は首を傾げ、問いかける。

「どうかなさいましたか?」

「あ、いえ、いちごパフェとオリジナルブレンドですね。承りました。少々お待ちください」

 翠はモカの元へ戻り、少し驚きながら言った。

「また、引き分けのようですね」

「そうだねー。あーあ、結局最後まで決まらなかったかー」

「テストの結果は、どうなりますか?」

「ん~、ま、結構楽しかったしー、合格かな!」

 翠はほっと安堵の息を漏らした。

「それじゃあ、みどりん! また一緒に遊ぼうね!」

「はい……! って――やっぱり遊びだったんですかー!?」

 翠が強烈なツッコミを入れ、二人は仕事に戻っていった。


休憩時間になり、翠は通路の奥の休憩室へ向かった。

ドアを開けた瞬間、青山の姿が目に飛び込んできた。椅子に腰を下ろし、スタンドミラーを覗き込みながら、決めポーズを取っている。特徴的な口髭に、自信たっぷりの低音ボイス――これでも一応、喫茶『色森』の店長兼バリスタである。

 翠はため息混じりに、呆れた視線を青山に向けた。

それに気づいた青山は、笑顔で翠に目を向けた。

「おお、翠くん! お疲れ様!」

「お疲れ様です、店長」

「どうしたんだい? そんなにじっとぼくを見て……まさか、惚れた?」

翠は目つきを鋭くし、冷徹に言い放った。

「店長……それ、セクハラです」

 一瞬の沈黙。

「はっはっは、すまない。翠くんには言うべきじゃなかったね!」

青山は笑いながら立ち上がり、向かいの空いている椅子を引いた。

「ほら、ここが空いてるよ」

翠は休憩室に足を踏み入れ、無言で椅子に腰を下ろした。その間に、青山は向かいの席に戻り、再び鏡を見つめながら決め顔を作っていた。

そんな彼の姿を、翠は無言で見つめた。

「ん? どうした?」青山は視線を移し、尋ねた。

「店長……セクハラです」

「目を合わせただけで!?」

「……存在が」

「存在が!?」

「半分、冗談です」

「半分は本気なのか……」

 青山の額に冷や汗が滲んだ。

 青山は間違いなくナルシストだが、不思議と嫌な印象はない。気さくで話しやすく、こうして冗談を言い合える仲である。そして、彼がイケメンであることは誰もが認める事実。ただ、調子に乗ると――少し、いや、かなりウザい。

「翠くんが働き始めてしばらく経つけど、もう慣れたかな?」青山は気さくに尋ねた。

「はい。みなさんのおかげです」

「はっはっは、そうかそうか! ぼくの指導が良かったのか!」

「えっ、店長が指導したことってありましたか?」

「最初に教えただろ? コーヒーの奥深さ、歴史……そして、このぼくの魅力を!」

「ああ、そうでしたね。内容がくだらなすぎて、記憶から消していました」

「あ、相変わらず一言が鋭いね……」

青山の胸に、翠の言葉がじわじわと突き刺さった。

確かに青山の言っていることは事実だった。しかし、言葉だけ聞くと、勘違いしてしまう。

バイト面接の際、青山は最初こそコーヒーの歴史を熱弁していた。だが途中から、自分の武勇伝を延々と語り始めた。

翠は当時、青山と初対面だったため、彼がどういう人物かわからず、話を遮ることができなかった。途中で、青山のパーソナルAI――喫茶『色森』のスペシャルアドバイザーでもある『ラーゼス』が止めに入らなければ、あと数時間は続いていただろう。

その後、同僚から聞いた話では、青山に一〜二時間も武勇伝を聞かされた人もいたらしい。面接時にラーゼスが同席するようになってから、多少マシになったようだ。

同僚曰く、「店長の話にどう反応するかを、ラーゼスが見て採用を決めてるらしいよ」ということだった。あくまで噂なので、真実かどうかわからない、ということだった。

翠はそれをふと思い出し、確かめたくなった。

「店長、少しお伺いしたいことがあります」

「ん? 美しさの秘訣かい?」青山はいつもの決め顔でそう返した。

 翠はため息をつきながら、じろりと青山を見た。

「違います……」

一瞬、質問する気が失せたが、翠は気を取り直して続けた。

「店長は、どうしてわたしを採用してくださったのですか?」

「ほう、気になるかね……」青山は目つきを鋭くした。

「はい、少しは……。わたしは個人的な理由で、週に一日しか勤務しないという条件なのに、どうして採用してくれたのだろうと、ずっと思っていました」

「そうか……そうだね……」

青山は意味ありげに頷き、急に真剣な顔つきになった。その変化に、休憩室の空気がわずかに引き締まる。

「よし、じゃあ教えてあげよう!」

翠は固唾をのんで青山の言葉を待った。

「きみが……」

青山はわざと間を開け、じっと翠を見つめた。

「翠くんが……」

さらに声を落とし、空気に緊張感を漂わせた。

「――翠くんが」

一拍。

「……可愛かったからさ!」

唐突に青山は結論を口にした。次の瞬間、真剣な表情は一変し、ウインクとともに白い歯を輝かせながら親指を立てた。

翠はそれを見て、思わず顔をしかめた。

「……相変わらずですね、店長」

翠がため息をつくと、青山は視線を逸らし、恥ずかしそうに頬を掻いた。

「そんな顔で見られると、こっちが照れるよ」

「呆れてるんです!」翠は鋭く切り返した。

「はっはっは……そうかそうか! 呆れているのか!」

青山はまったく気にしない様子で笑い飛ばし、続けて言った。

「しかし、ぼくの見立ては正しかったと証明された。翠くんを採用してから、売り上げが伸びているからね!」

「そうですか……」

「それに、戦略も上手くいったみたいだしね」

「戦略……? 店長、何かされたのですか?」

「あれ? 言ってなかったかい? 翠くんを『色森の女神様』に仕立て上げる計画さ!」

「え……?」翠は目を見開き、言葉を失った。

「いやー、これが意外と大変だったんだよ。ネットに投稿してもすぐ消されちゃうし、結局、地道に口伝えで広めるしかなかったんだ。はっはっは……!」

 わずかな静寂のあと、翠は思わず叫んだ。

「お前だったのかぁぁぁぁ!」

 勢いよく立ち上がったが、すぐにはっと我に返る。口に手を当て、静かに腰を下ろし、咳払いして言葉を整えた。

「……すみません、取り乱しました」

 翠は、迷惑な人物の正体がまさか青山だとは思わず、驚きと呆れが入り混じったまま声を荒げてしまった。身近に「犯人」がいたとは完全に盲点だった。しかし、青山の性格を知った今なら妙に腑に落ちた。

この人なら――やりかねない。

驚きこそ大きかったが、不思議と怒りの感情は湧いてこなかった。

青山は一瞬目を丸くして翠を見つめたが、すぐにその表情は柔らかく微笑み、感心したように言った。

「翠くんって、そんな豪快なツッコミもできたんだね!」

翠はじとっとした視線を向け、小さくため息をついた。

「さすがですね、店長……」

「おや、改めてぼくの魅力に気づいてくれたのかい?」

「……」

翠は返事をする気も失せ、深いため息をひとつ。そのまま休憩室を後にした。


午後三時を少し過ぎた頃、「カランコロン」と軽やかな音が店内に響いた。

「いらっしゃいませ」

翠がいつものように目を向けると、そこに立っていたのは黒髪の少女だった。

「あら、流香さん。おかえりなさい」翠はやさしく声をかけた。

「ただいま帰還した!」

黒髪の少女は手を突き出し、元気よく言い放った。

 現れたのは、青山一の娘、青山流香あおやまるか。まだ七歳の少女だ。

青山家は、喫茶『色森』の隣にある一軒家で、家と『色森』が繋がっている。つまり、『色森』は流香の家だった。

流香の頭には、コーヒー豆型の被り物がちょこんと乗っている。背中には大きなバックパックを背負っている。

「素敵な帽子ですね」翠は微笑みながら素直な感想を述べた。

「翠ちゃんも、そう思う?」流香は嬉しそうに目を光らせた。

「はい、とってもかわいいです」

「じゃあ、翠ちゃんも仲間にしてあげる」

「えっ……?」

 流香はバックパックを前に抱え、中をゴソゴソと漁り始めた。そこから新芽のような緑色のコーヒー豆型の被り物を取り出し、翠に差し出した。

「はい、これ」

翠は差し出された被り物を見つめ、思わずぽかんとした表情を浮かべた。すぐに気を取り直し、微笑みながらやんわりと断った。

「お気持ちは嬉しいのですが、さすがに、わたしの頭には入らないと思うのですが……」

「大丈夫! 翠ちゃんのサイズに合わせて作ったから!」流香は自信満々に言った。

「えっ、わたしのサイズに合わせて……?」

「うん!」

 翠はそっと被り物を受け取った。確かに、流香の被り物より少し大きく、翠でも被れそうだった。どうやら、流香は最初から翠に被らせるつもりだったらしい。

「これ、流香さんが作ったのですか?」翠は尋ねた。

「うん、手作りだよ!」

「そうなんですか。よくできていますね」

「そうでしょ、そうでしょ!」

流香は嬉しそうに微笑んだ。

翠は褒めて話を逸らそうとした。しかし、流香は決して翠から視線を逸らさず、早く被って欲しそうな眼差しで見つめた。

翠は無言のプレッシャーに押され、迷っていた。

そのとき、カウンターの奥からモカがひょっこりと顔を出し、軽快な声で言った。

「みどりん、早く被ってよぉー!」

どうやら、少し前から様子をうかがっていたらしく、モカはいつもの調子で翠をからかい始めた。

「モカも見てみたいなぁ!」

流香の瞳がまるで星のように輝き、無言ながらも強烈な「被って!」という圧力を放っていた。無邪気な圧に押され、翠は心の中でため息をついた。

(断るのは無理そうですね……)

翠は観念し、コーヒー豆の被り物をじっと見つめた。

 翠が被ろうとしたその瞬間、流香がバックパックの中から色違いのコーヒー豆の被り物を取り出し、モカに差し出した。

「はいこれ、モカちゃんの分だよ!」

「えっ、モカも!?」

モカは思わず後ずさりし、ぶんぶんと手を振って必死に抵抗した。

だが、流香は身を乗り出し、その小さな手でしっかりとモカの腕を掴んだ。

「モカちゃんのは、少し薄めにしたんだ!」

 モカ用のコーヒー豆の被り物は、流香と比べて薄いモカ色だった。

 モカは引きつった笑顔で、やむなくモカ色の被り物を受け取った。

 流香がわくわくした様子で目を輝かせながら見つめる中、翠とモカは覚悟を決めて、コーヒー豆の被り物を頭に乗せた。それを見て、流香は満足そうに微笑んだ。

そこへ――どこからともなく、流香の父親・青山一が現れた。

「おおっ、なんてかわいい帽子なんだ! これは流香が作ったのか!?」

青山が尋ねると、流香は無言で頷いた。

「そうかそうか、良くできているじゃないか」

 青山は二人を褒めながら、流香に視線を移して尋ねた。

「で、ぼくの分は……?」

「ないよ」

流香が即答した瞬間、青山の動きがピタリと止まった。口を開けたまま固まり、遠くを見つめていた。その姿は、まるで人生を諦めた男のようだった。

そんな青山には目もくれず、翠たちは仕事に取りかかった。

 数分後、翠は来店する人々が、皆一様に笑顔を浮かべていることに気づいた。

(これって……流香さんの被り物のおかげ?)

翠は内心で思いつつ、複雑な気持ちが胸をよぎった。

(いや……これ、単純に笑われているだけでは……?)

不安を覚えたが、楽しそうに談笑しながらコーヒーを味わう客の姿に、次第にその疑念も薄れていった。

「……まあ、結果オーライですね」

翠は自分に言い聞かせるように呟いた。

最初の戸惑いが嘘のように、翠とモカはコーヒー豆の被り物をつけたまま、自然に接客していた。看板娘の流香はというと、いつも以上に元気いっぱいで、店内を明るく照らしていた。その姿は、まるで太陽のようだった。

常連客たちは笑顔で「今日は特別だな」と満足げに呟き、初めて訪れた客は「こんな喫茶店、他にはないね」と感嘆の声を上げた。

一方、青山だけは隅の席で固まったまま、時折虚ろな視線をテーブルに落としていた。

流香は、こうした突拍子もないことを提案しては、みんなを巻き込むことがよく見られる。だが、それも彼女の愛嬌として、誰からも可愛がられていた。流香は、喫茶『色森』に欠かせない存在だった。

呼び出しベルが鳴り、翠は一色こがねが座る席へ向かった。

「ご注文をお伺いします」

 一色は無言で、じっと翠を見つめていた。

「あの、ご注文は……?」

 翠が尋ねると、一色ははっとして、「ブレンドコーヒーをお願いします」と答えた。

「ブレンドコーヒーですね。かしこまりました」

翠は注文を受け、軽く一礼して次のテーブルに向かった。

一色は小さく微笑み、その背中をじっと見つめていた。


 勤務を終え、着替えを済ませた翠は、関係者専用の裏口から外に出た。駐車場を歩いていると、背後から「あの、すみません」と呼び止められた。振り返ると、一色こがねが立っていた。気品のある佇まいで、彼女は静かに微笑みかけた。

「あなたはたしか……」翠は思い出しながら呟いた。

「一色こがねと申します」一色は優雅に一礼した。

「一色こがねさん……」

翠はじっと一色を見つめ、続けて問いかけた。

「わたしに何かご用ですか?」

 少し間を置き、一色はゆっくりと口を開いた。

「……あなた様が、『色森の女神様』……ですね?」

「……は、はい」翠の表情は引きつっていた。

「やはり……そうでしたのね! やっとお会いできましたわ!」

一色は満面の笑みを浮かべた。さらに、目を輝かせながら身を乗り出す勢いで、翠に迫った。

「女神様を一目見た瞬間、わたくし、心を奪われましたの! 接客されるお姿や、お客様に向ける真摯な態度――そのすべてが美しくて、感動しましたわ!」

「は、はあ……ありがとうございます」

「あの、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 一色の問いかけに、翠は一瞬迷ったが、「……翠、です」と小さく答えた。

「翠様……! 素敵なお名前ですわ!」

「どうも……」

 一色の強い圧に、翠は思わずたじろいだ。

 今までにも女神様の件で話しかけられたことはありましたが、ここまで積極的な方は初めてです。このまま素性を探られたら、さすがにまずいですね。秘密がバレる前に、早くここを離れなければ!

 そう決心し、翠は速やかにその場を立ち去ろうとした。

「では、わたしはこれで――」

軽く一礼し、踵を返した。

 しかし、その瞬間、「お待ちください!」と一色が呼び止めた。

 翠は足を止め、ゆっくりと振り返った。

 一色は詰め寄り、「あ、あの!」と声を上げた。躊躇うような素振りを見せていたが、やがて、決意を固めたような目で翠を真っ直ぐに見つめた。

「……もしよろしければ、わたくしと――お友達になっていただけませんか?」

 その問いかけに、翠は思わず「……え?」と声を漏らし、目を見開いた。

「お友達……ですか?」

「はい! ぜひとも、翠様とお友達になりたいですわ!」

 翠は冷静に考えた。

 会っていきなり、友達になりたいだなんて……この人、何か企んでいるのでしょうか。まさか、わたしの秘密を探るために誰かが差し向けたスパイ……? いや、柴乃さんじゃあるまいし、そんなわけありません。悪意もまったく感じませんし……でも――。

 翠は、一色に声をかけられたことを内心嬉しく思っていた。しかし、翠には何よりも優先すべきことがあるため、簡単に受け入れるわけにはいかなかった。

「貴重なお誘い、ありがとうございます。ただ――申し訳ありません。あなたと友達になることは、できません」翠は丁寧に断った。

「……どうしてですか?」

「わたしには、何よりも優先すべき使命があります。だから、友達を作る余裕はないんです。今の状態がベストなんです」

翠は、一色の目を真っ直ぐに見つめながらはっきりと答えた。

「……そうですか。それでは仕方ありませんね」

一色は寂しげな表情を浮かべた。肩を落とし、重い足取りで歩みを進める。だが、途中で足を止めると、振り返り、控えめに問いかけた。

「また、お店にお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんです。いつでもお待ちしています」

 翠が笑顔で答えると、一色は名残惜しそうに微笑み、再び、重い足取りでその場を後にした。彼女の後ろ姿を、翠はどこか心に引っかかる思いを抱きながら、静かに見送った。


帰り道、翠は一色との会話が頭から離れず、彼女の申し出が本物なのか確かめたいという衝動に駆られ、次第に歩くスピードを速めた。

帰宅するや否や、「おかえり」と出迎えたイリスに、翠はすぐに頼んだ。

「イリス、一色こがねさんの情報を調べてくれる?」

「はい、これ」

 イリスはすでに、一色こがねの情報を用意していた。翠が仕事をしている間、イリスは彼女がつけているペンダント型デバイスから様子をうかがっており、大方の事情を把握していた。すぐに応じ、情報を宙に浮かべた。そこには、一色こがねと色神学園の詳細な情報が映し出された。

 翠はそれを見ながら歩を進め、リビングへ向かい、ソファに腰を下ろした。

一通り目を通し、翠は一色が本当のことを言っているのだと理解した。念のため、イリスにも意見を聞いた。

「イリスさんは、どう思いますか?」

「たぶん、本心だと思うよ。その人、気に入った人を見つけると、積極的に声をかけ回ってるらしいし……」

「……そうですね」

 イリスが言っているのだから間違いないだろうが、それでも翠は、警戒心を完全に拭い去ることはできなかった。

 しばらく沈黙が流れたあと、翠は小さく息をつき、気を取り直して立ち上がった。

「今さら考えても仕方ありませんね。もう断ってしまったのだから、これで終わりです」

翠は自分に言い聞かせるように呟いた。

「切り替えて、晩ご飯を作りましょう」

「何を作るの?」イリスは尋ねた。

「今日は、真白さんの大好きなシチューを作ろうと思います。手伝ってもらえますか?」

「もちろん!」

 翠とイリスはキッチンへ向かい、息の合った動きでシチューを作り始めた。

静かな夜が、ゆっくりと更けていった。



読んでいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしています。

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