翠の秘密
都会の喧騒を離れた閑静な一角に、巷で人気の喫茶店『色神の森』がある。通称『色森』として有名なこの店で、翠は週一日、毎週木曜日だけ働いていた。普段はホール担当だが、料理が得意なため、キッチンの人手が足りないときは手伝うこともある。翠は味覚と嗅覚が非常に鋭く、料理を一口食べただけで材料をすべて言い当てるという特別な能力を持っているため、新メニューの開発にも参加していた。
喫茶『色森』には、老若男女を問わず、幅広い世代の客が訪れる。勉学やスポーツ、仕事など、競争社会で疲れ切った心身を癒しに、多くの学生や若者、大人たちが訪れる憩いの場となっていた。
しかし。
四月七日、木曜日の午前九時過ぎ。翠が関係者専用の裏口から店内に足を踏み入れた瞬間、店内に轟音が響き渡った。
翠は戸惑いながら、急いでホールへ向かった。そこでは、同僚の茉田莉モカが、アイドル衣装をまとい、小さなステージで歌い踊っていた。
店内の電気はすべて消え、窓には遮光カーテンが下り、アップテンポな音楽が響いていた。モカにはスポットライトが当たり、彼女の動きに合わせ、客は合いの手を入れていた。その中に、一色こがねの姿もあった。喫茶『色森』は、まるでアイドルのライブ会場のようだった。
曲の間奏になると、モカが翠に気づき、声をかけた。
「あー、みどりん、おはよー!」
「な、何やってるんですか!? モカさん!」
「みどりん、見てわかんないのぉ? これが噂の『モカライブ』だよー!」
「モカライブって何ですか!?」
「モカライブは、モカライブだよー」
翠は一瞬言葉を詰まらせた。「……ここはライブ会場じゃなくて、喫茶店なんですが……!」
「みどりん……」モカは突然鋭い目つきを翠に向けた。翠が思わず身構えると、モカは一瞬で笑顔に変わり、「今はー、モカのかわいさを引き立てるためのステージだよー」と柔らかい口調で言った。
「なっ、何言ってるんですか!? 今すぐやめ――」
翠が言い終わるよりも早く、モカは二番を歌い始めた。モカのファンたちは、モカ色のペンライトを振りながら、盛り上がっていた。
翠がモカライブを止める方法を冷静に考えながら、店内を見渡していると、突然背後から店長の青山一が現れた。
翠は気配に気づき、反射的に振り返った。
「店長、今すぐモカさんを――」
翠がそう言いかけた瞬間、青山も両手にペンライトを持ち、ノリノリで合いの手を入れていた。「って、お前もか!」と翠は思わずツッコんだ。
「ん? どうしたんだい? 翠くん……」青山は首を傾げた。「あっ! もしかして、翠くんもペンライトが欲しいのかい? なら、一つ貸してあげよう」
青山はペンライトを差し出した。
「いりません!」翠は全力で拒否した。
「え、いらないの?」青山は目を丸くした。
「そんなことより、今、大変なことが起こっていますよ、店長!」翠はモカを指差した。「いいんですか!? 喫茶店でこんなことして!」
「……皆、盛り上がってるから、いいんじゃない……?」と青山はあっさり答えた。
翠は改めて店内を見渡した。青山の言う通り、客たちはみんな笑顔で楽しそうに見えた。その光景を見た瞬間、翠は口を閉じて静かに見守った。
モカが一曲歌い終えると、客たちから拍手喝采が巻き起こった。翠も気づけば、無意識にモカに拍手を送っていた。客を楽しませているという意味で、翠はモカの行動に納得しかけていた。
「みんなー、今日もモカは……?」モカは客にマイクを向けながら問いかけた。
「一番かわいい!」客全員と青山が声を揃えて答えた。
「明日のモカも……?」
「一番かわいい!」
「この先ずっと……?」
「一番かわいい!」
「はーい、よくできましたぁー!」
モカたちは見事なコール&レスポンスを行った。
「じゃあ、またねー」とモカが笑顔で手を振ると、次第に彼女に向けられていたスポットライトが薄くなり、遮光カーテンも開き、店内の電気もついた。
盛り上がっていた店内は、一瞬にしていつも通りの雰囲気に戻った。
翠もしばらく感動したような気持ちを抱いていたが、ハッと我に返り、「な、なんだったんですか……今の……?」と戸惑いを隠せず、呆然とした表情を浮かべた。
休憩時間になり、翠は通路の奥の休憩室へ向かった。ドアを開けた瞬間、椅子に腰を下ろし、スタンドミラーを覗き込んでポーズを決める青山の姿が目に飛び込んできた。特徴的な口髭と自信たっぷりの低音ボイス──これでも一応、喫茶『色森』の店長兼バリスタだった。
翠はため息混じりに、呆れた視線を青山に向けた。
気づいた青山が、笑顔で翠に目を向けた。
「おお、翠くん! お疲れ様!」と青山は嬉しそうに声をかけた。
「お疲れ様です、店長」翠は丁寧に返し、じっと青山を見つめた。
「どうしたんだい? そんなにじっとぼくを見て……まさか、惚れた?」と青山は軽い口調で冗談を飛ばした。
翠は目つきを鋭くし、「店長……それ、セクハラです」と言い放った。
「はっはっは、すまない。翠くんには言うべきじゃなかったね!」青山は笑いながら立ち上がり、向かいの空いている椅子を引いた。「ほら、ここが空いてるよ」
翠は休憩室に足を踏み入れ、無言で椅子に腰を下ろした。その間に、青山は向かいの席に戻り、再び鏡を見つめながら決め顔を作っていた。そんな彼の姿を、翠は無言で見つめた。
「ん? どうした?」と青山は視線を移し、尋ねた。
少しの間を置き、「店長……セクハラです」と翠は鋭く言い放った。
「目を合わせただけで!?」
「……存在が」
「存在が!?」
「半分、冗談です」
「半分は本気なのか……」青山はわずかに冷や汗をかいた。
青山は間違いなくナルシストだ。しかし、不思議と嫌な印象はない。気さくで話しやすく、こうして冗談を言い合える仲である。それに、彼がイケメンであることは誰もが認める事実。ただ、調子に乗ると少し、いや、かなりウザい。
「翠くんが働き始めてしばらく経つけど、もう慣れたかな?」と青山が尋ねた。
「はい。みなさんのおかげです」と翠は謙虚に返した。
「はっはっは、そうかそうか! ぼくの指導が良かったのか!」と青山は笑いながら言った。
「えっ、店長が指導したことってありましたか?」と翠は真顔で問い詰めた。
「最初に教えただろ? コーヒーの奥深さ、歴史……そして、このぼくの魅力を!」と青山は誇らしげに胸を張った。
「ああ、そうでしたね。内容がくだらなすぎて、記憶から消えていました」と翠は淡々と返した。
「あ、相変わらず一言が鋭いね……」青山の胸に翠の言葉が突き刺さり、じわじわとダメージが広がっていった。
たしかに青山の言っていることは事実だった。しかし、言葉だけ聞くと、勘違いしてしまう。
バイト面接の際、青山は最初の五分でコーヒーの歴史や奥深さについて熱弁を振るった。だが、その後は、なぜか自分のカッコ良さや武勇伝について、一方的に語り続けたというのが真相だった。
翠は当時、青山と初対面だったため、彼がどういう人物かわからず、話を遮ることができなかった。途中で青山のパーソナルAI兼喫茶『色森』のスペシャルアドバイザー『ラーゼス』が止めに入らなければ、あと数時間は続いただろう。面接後に同僚から聞いた話では、青山に一〜二時間も武勇伝を聞かされた人もいたらしい。面接時にラーゼスが同席するようになってから、多少マシになったらしい。同僚曰く、「店長の話にどう反応するかを、ラーゼスが見ていて採用を決めてるらしいよ」ということだった。あくまで噂なので、真実かどうかわからない、ということだった。
翠はそれをふと思い出し、確かめたくなった。
「店長、少しお伺いしたいことがあります」
「ん? 美しさの秘訣かい?」青山はいつもの決め顔でそう返した。
翠はため息をつきながら、じろりと青山を見た。「違います……」
質問する気は一瞬失せたが、なんとか気を取り直して続けた。
「店長は、どうしてわたしを採用してくださったのですか?」
「ほう、気になるかね……」青山は目つきを鋭くした。
「はい、少しは……」と翠は遠慮気味に返した。「わたしは個人的な理由で、週に一日しか勤務しないという条件なのに、どうして採用してくれたのだろうと、ずっと思っていました」
「そうか……そうだね……」青山は意味ありげに頷き、急に真剣な顔つきになった。その変化に、休憩室の空気がわずかに引き締まる「よし、じゃあ教えてあげよう!」
翠は固唾をのんで青山の言葉を待った。
「きみが……」青山はわざと間を開け、じっと翠を見つめた。「翠くんが……」とさらに声を落とし、空気に緊張感を漂わせた。「――翠くんが、可愛かったからさ!」と、唐突に青山は結論を口にした。次の瞬間、真剣な表情は一変し、ウインクとともに白い歯を輝かせながら親指を立てた。
翠はそれを見て、思わず顔をしかめた。「……相変わらずですね、店長」
翠がため息をつくと、青山は視線を逸らしながら、「そんな顔で見られると、こっちが照れるよ」と頬を掻いた。
「呆れてるんです!」と翠は鋭く切り返した。
「はっはっは……そうかそうか! 呆れているのか!」青山はまったく気にしない様子で笑い飛ばした。「しかし、ぼくの見立ては正しかったと証明された。翠くんを採用してから、売り上げが伸びているからね!」と誇らしげに言った。
「そうですか……」と翠は不愛想に返した。
「それに、戦略も上手くいったみたいだしね」
「戦略……? 店長、何かされたのですか?」
「あれ? 言ってなかったかい? 翠くんを『色森の女神様』に仕立て上げる計画さ!」
「え……?」翠は目を見開き、思わず声を漏らした。
青山が言った『色森の女神様』とは、巷で噂になっている翠の呼称だった。一週間に一度、喫茶『色森』に“女神”が現れる、という噂が、翠の知らぬ間に拡散していた。ネット上で『色森の女神様』という言葉を見つけた際には、拡散を防ぐため、パーソナルAI『イリス』に頼んで削除してもらっていた。最初に誰が言い始めたのか不明だったが、その犯人が自ら名乗り出てついに判明した。
「いやー、これが意外と大変だったんだよ。ネットに投稿してもすぐ消されちゃうし、結局、地道に口伝えで広めるしかなかったんだ。はっはっは!」
青山は笑いながら言った。
「お前だったのかー!」と翠は叫び、勢いよく立ち上がった。しかし次の瞬間、ハッと我に返ると、口に手を当て、静かに腰を下ろした。咳払いすると、「……すみません、取り乱しました」と静かに言葉を整えた。
翠は、迷惑な人物の正体がまさか青山だとは思わず、驚きと呆れが入り混じったまま思わず声を荒げてしまった。身近に「犯人」がいたとは完全に盲点だった。しかし、青山の性格を知った今なら妙に腑に落ちた。
この人なら――確かにやりかねない。
驚きこそ大きかったが、不思議と怒りの感情は湧いてこなかった。
青山は一瞬目を丸くして翠を見つめたが、次の瞬間には柔らかく微笑み、「翠くんって、そんな豪快なツッコミもできたんだね!」と感心したように言った。
翠はじとっとした視線を向け、「さすがですね、店長……」と小さくため息をついた。
「おや、改めてぼくの魅力に気づいてくれたのかい?」
「……」翠は返事をする気も失せ、ただ深いため息をつき、休憩室を後にした。
午後三時を少し過ぎた頃、「カランコロンカラン」という軽快な音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
翠がいつものように声を上げて目を向けると、そこには、黒髪の少女の姿があった。
「あら、流香さん。おかえりなさい」と、翠はやさしく迎えた。
「ただいま帰還した!」流香は手を突き出し、元気よく返した。
現れたのは、青山一の娘、七歳の青山流香だった。
青山家は、喫茶『色森』の隣にある一軒家で、家と『色森』が繋がっていた。つまり、『色森』は流香の家だった。
流香の頭には、ぴったりフィットしたコーヒー豆型の被り物が、ちょこんと乗っていた。背中には大きなバックパックを背負っていた。
「素敵な帽子ですね」翠は微笑みながら素直な感想を述べた。
「翠ちゃんも、そう思う?」流香は嬉しそうに目を光らせた。
「はい、とってもかわいいです」
「じゃあ、翠ちゃんも仲間にしてあげる」
「えっ……?」
流香はバックパックを前に抱え、中をゴソゴソと漁り始めた。そこから新芽のような緑色のコーヒー豆型の被り物を取り出し、「はい、これ」と翠に差し出した。
翠は差し出された被り物を見つめ、思わずぽかんとした表情を浮かべた。すぐに気を取り直して微笑み、「お気持ちは嬉しいのですが、さすがに、わたしの頭には入らないかと……」とやんわり断った。
「大丈夫! 翠ちゃんのサイズに合わせて作ったから!」と流香は自信満々に返した。
「えっ、わたしのサイズに合わせて……?」と翠は目を丸くした。
「うん!」
翠はそっと被り物を受け取った。たしかに、流香の被り物より少し大きく、翠でも被れそうだった。どうやら、流香は最初から翠に被らせるつもりだったらしい。
「これ、流香さんが作ったのですか?」と翠は尋ねた。
「うん、手作りだよ!」と流香は即答した。
「そうなんですか。よくできていますね」
「そうでしょ、そうでしょ!」と流香は褒められて笑顔になった。
翠は褒めて話を逸らそうとした。しかし、流香は決して翠から視線を逸らさず、早く被って欲しそうな瞳で見つめた。
翠は無言のプレッシャーに押され、迷っていた。
そのとき、カウンターの奥からモカがひょっこりと顔を出し、「みどりん、早く被ってよぉー」と軽快な声で言った。どうやら、少し前から様子をうかがっていたらしく、いつもの調子で翠をからかい始めた。
「モカも見てみたいなぁ!」
流香の瞳がまるで星のように輝き、無言ながらも強烈な「被って!」という圧力を放っていた。無邪気な圧に押されるように、翠は心の中で深いため息をついた。
(断るのは無理そうですね……)
翠は心の中でそう呟いて観念し、コーヒー豆の被り物をじっと見つめた。
翠が被ろうとしたその瞬間、流香がバックパックの中から色違いのコーヒー豆の被り物を取り出し、モカに差し出した。
「はいこれ、モカちゃんの分だよ!」
「えっ、モカも!?」
モカは思わず後ずさりし、両手を軽く振って抵抗の意思を示した。だが、流香は身を乗り出し、その小さな手でしっかりとモカの腕を掴んだ。
「モカちゃんのは、少し薄めにしたんだ」と流香は嬉しそうに言った。
モカ用のコーヒー豆の被り物は、流香と比べて薄いモカ色だった。
モカは引きつった笑顔で、コーヒー豆の被り物を受け取った。
流香がワクワクした様子で目を輝かせながら見つめる中、翠とモカは覚悟を決めて、コーヒー豆の被り物を頭に乗せた。それを見て、流香は満面の笑みを浮かべた。
そこへ、どこからともなく流香の父親の青山一が現れた。
「おおっ、なんてかわいい帽子なんだ! これは流香が作ったのか!?」
青山が尋ねると、流香は無言で頷いた。
「そうかそうか、良くできているじゃないか」と褒めながら、青山は翠たちを見つめた。流香に目を移し、「で、ぼくの分は……?」と目を輝かせた。
「ないよ」
流香が即答した瞬間、青山の動きがピタリと止まった。口を開けたまま、何も言えず、目には悲しみの色が浮かんでいた。遠くを見つめるその姿は、まるで人生を諦めた人のようで、顔には絶望の影が浮かんでいた。
絶望の青山には目もくれず、翠たちは仕事に取りかかった。
数分後、翠は来店する人々が、皆一様に笑顔を浮かべていることに気づいた。
(これって……流香さんの被り物のおかげ?)と内心で思いつつ、複雑な気持ちが胸をよぎった。
(いや、もしかして、単純に笑われているだけでは……?)と不安を覚えたが、楽しそうに談笑しながらコーヒーを味わう客の姿に、次第にその疑念も薄れていった。
「まあ、結果オーライ……ですね」と、翠は微笑みを浮かべながら呟いた。
最初の戸惑いが嘘のように、翠とモカはコーヒー豆の被り物をつけたまま、自然に接客していた。看板娘の流香はというと、いつも以上に元気いっぱいで、店内を明るく照らしていた。
常連客たちは笑顔で「今日は特別だな」と満足げに呟き、初めて訪れた客は「こんな喫茶店、他にはないね」と感嘆の声を上げていた。
一方、青山だけは隅の席で固まったまま、時折虚ろな視線をテーブルに落としていた。
流香は、こうした突拍子もないことを突然提案しては、みんなを巻き込むことがあった。でも、それも彼女の愛嬌として、誰からも可愛がられていた。流香は、喫茶『色森』に欠かせない存在だった。
呼び出しベルが鳴り、翠は一色こがねが座るカウンター席へ向かった。
「ご注文をお伺いします」と翠は声をかけた。
一色は無言で、じっと翠を見つめていた。
「あの、ご注文は……?」
翠が問いかけると、一色ははっとして、「ブレンドコーヒーをお願いします」と答えた。
「ブレンドコーヒーですね。かしこまりました」
翠は注文を受け、軽く一礼して次の呼び出しベルに向かった。一色は小さな微笑みを浮かべながら、その背中をじっと見つめていた。
勤務を終え、着替えを済ませた翠は、関係者専用の裏口から外に出た。駐車場を歩いていると、突然背後から「あの、すみません」と呼び止められた。振り返ると、一色こがねが立っていた。どこか気品のある佇まいで、彼女は静かに微笑みかけた。
「あなたはたしか……さきほどお店に……」翠は思い出しながら呟いた。
「一色こがねと申します」一色は優雅に一礼した。
「一色こがねさん……」翠はじっと一色を見つめ、「わたしに何かご用ですか?」と問いかけた。
少し間を置き、一色はゆっくりと口を開いた。
「……あなた様が、『色森の女神様』、ですね?」と一色は問い返した。
「……は、はい」翠の表情は引きつっていた。
「やはり……そうでしたのね! やっとお会いできましたわ!」一色は満面の笑みで言った。さらに、一色は目を輝かせながら身を乗り出す勢いで、翠に迫った。
「女神様を一目見た瞬間、わたくし、心を奪われましたの。接客されるお姿や、お客様に向ける真摯な態度――そのすべてが美しくて、感動しましたわ!」
「は、はあ……ありがとうございます」
翠は身を引きながら返した。
「あの、お名前をお伺いしても?」
一色の問いかけに、翠は一瞬迷ったが、「……翠、です」と小さく答えた。
「翠様……! 素敵なお名前ですわ!」
「どうも……」
一色の強い圧に、翠は思わずたじろいだ。
今までにも、女神様関連で話しかけられたことはありましたが、ここまで積極的な方は初めてです。このまま素性を探られたら、さすがにまずいですね。秘密がバレる前に、早くここから立ち去りましょう。
そう決心し、翠は「では、わたしはこれで――」と声をかけ、軽く一礼してから踵を返し、足早にその場を去ろうとした。
しかし、その瞬間、「お待ちください!」と一色が声を上げた。
翠は足を止め、ゆっくりと振り返った。
一色は歩み寄り、「あ、あの!」と声を上げた。躊躇うような素振りを見せていたが、やがて、決意を固めたような目で翠を真っ直ぐに見つめた。
「……もしよろしければ、わたくしとお友達になっていただけませんか?」
その問いかけに、翠は思わず「えっ……?」と声を漏らし、目を見開いた。「お友達……ですか?」
「はい! ぜひとも、翠様とお友達になりたいですわ!」一色は満面の笑みで言った。
翠は冷静に考えた。
会っていきなり、友達になりたいだなんて……この方、何か企んでいるのでしょうか。まさか、わたしの秘密を探るために誰かが差し向けたスパイ……? いや、柴乃さんじゃあるまいし、そんなわけありませんね。悪意もまったく感じませんし……でも――。
翠は、一色に声をかけられたことを内心嬉しく思っていた。しかし、彼女には何よりも優先すべきことがあるため、簡単に受け入れるわけにはいかなかった。
「貴重なお誘い、ありがとうございます。ただ、申し訳ありません……あなたと友達には、なれません」と翠は丁寧に断った。
「……どうしてですか?」と一色は尋ねた。
「わたしには、何よりも優先すべき使命があります。だから、友達を作る余裕はないんです。今の状態がベストなんです」
翠は、一色の目を真っ直ぐに見つめながらはっきりと答えた。
「……そうですか。それでは仕方ありませんね」
一色は寂しげな表情を浮かべた。肩を落とし、重い足取りで歩みを進める。しかし、途中で足を止めると、振り返り、「また、お店にお伺いしてもよろしいでしょうか?」と問いかけた。
「もちろんです。いつでもお待ちしています」
そう翠が答えると、一色は名残惜しそうに微笑み、再び重い足取りでその場を後にした。そんな彼女の後ろ姿を、翠はどこか心に引っかかる思いを抱きながら、静かに見送った。
帰り道、翠は一色との会話が頭から離れず、彼女の申し出が本物なのか確かめたいという衝動に駆られ、次第に歩くスピードを速めた。
帰宅するや否や、「おかえり」と出迎えるイリスに、翠は頼んだ。
「イリス、一色こがねさんの情報を調べてくれる?」
「はい、これ」
イリスはすでに、一色こがねの情報を把握していた。翠が仕事をしている間、イリスは彼女がつけているペンダント型デバイスから様子をうかがっていたため、大方の事情を把握していた。すぐに応じ、ホログラムを宙に浮かべた。そこには、一色こがねと色神学園の詳細な情報が映し出された。
翠はそれを見ながら歩を進め、リビングへ向かい、ソファに腰を下ろした。一通り目を通し、翠は一色が本当のことを言っているのだと理解した。念のため、イリスにも意見を聞いた。
「イリスさんは、どう思いますか?」
「たぶん、本心で言ってると思うよ。その人、気に入った人を見つけると、積極的に声をかけ回ってるらしいし……」とイリスは冷静に答えた。
「……そうですね」
イリスが言っているのだから間違いないだろうが、それでも翠は、警戒心を完全に拭い去ることはできなかった。
しばらく沈黙が流れたあと、翠は小さく息を吐き、気を取り直して立ち上がった。
「今さら考えても仕方ありませんね。もう断ってしまったのだから、これで終わりです」と翠は自分に言い聞かせるように呟いた。「切り替えて、晩ご飯を作りましょう」と意気込んだ。
「何を作るの?」とイリスは問いかけた。
「今日は、真白さんの大好きなシチューを作ろうと思います。手伝ってもらえますか?」
「もちろん!」
翠とイリスはキッチンへ向かい、息の合った動きでシチューを作り始めた。
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