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天の秘密

四月六日、水曜日の午前十一時過ぎ。

天は自宅のアトリエ兼自分の部屋で、目の前のキャンバスに集中していた。朝から部屋に籠り、すでに三時間以上が過ぎていた。筆を休めることもなく、飲食すら忘れていた。見本などはなく、頭の中に思い浮かんだものを淡々と描いていた。

しばらくして天の手が止まり、筆先がキャンバスからそっと離れた。天は「ふぅ」と一息ついて筆を水に浸し、額の汗を腕で拭った。

完成した絵は、白を基調とした七色の抽象画だった。白はただの余白ではなく、光や気配、感情のかけらを湛えた、静かな主役だった。その白に寄り添うように、黒が輪郭を描き、絵に深みを与える。茜色は夕焼けのように柔らかく滲み、懐かしさと切なさを運んできた。青色は澄んだ朝の空のように穏やかで、白と調和しながら全体に静けさを広げていた。緑は小さな芽吹きのように命の気配を添え、紫は夜のように静かな深みを加えた。そして桜色は、淡く儚く舞いながら、絵全体に、温もりとやさしさをそっと添えていた。見る人の心に応じて姿を変える、不思議な一枚だった。

天が椅子に座って背伸びしていると、部屋をノックする音が響いた。天が「どうぞ」とボソッと応じると、ドアがゆっくりと開き、妖精型ロボット『イリス』が現れた。

イリスはティーカップの受け皿を慎重に持ち、部屋の中に入ってきた。

「お疲れ様、天ちゃん」と柔らかく声をかけながら、丸テーブルにティーカップをそっと置いた。

「ありがとう、イリスちゃん」と天は返し、右手でカップを取って、ゆっくりと口元へ運んだ。紅茶を一口飲むと、張り詰めていた天の表情がふっと和らいだ。

イリスは、天が描いた絵を見つめながら呟いた。

「ついに、完成したんだね」

「うん。真白ちゃんの誕生日に間に合ってよかった」天は、ほっと息をついた。

「タイトルはなんていうの?」

「……『七色の記憶』」天は少し恥ずかしそうに答えた。

「『七色の記憶』……」イリスは腕を組み、難しい表情で絵を眺めた。その表情は、まるで評論家のようだった。隅々まで見回したあと、天に目を向け、「素敵な絵だね!」と笑顔で言った。

「ありがとう」天は照れたように頬を赤らめた。

 天はティーカップを片付けに、一階のキッチンへ向かった。シンクで洗ったあと、その足でリビングに向かい、ふと掃き出し窓から外の様子を眺めた。朝からぽつぽつ降っていた雨は止み、空は灰色の雲に覆われていた。

今にも降り出しそうな空模様だったが、イリスの予報では、しばらく雨の心配はないらしい。気分転換に、天は外出を決めた。

小一時間ほどゆっくり休憩したあと、天は画材道具と白猫のパペットをバッグに詰め、肩にかけた。反対の肩にイリスを乗せ、二人は色神公園を目指して出発した。


到着すると、まずは気楽に散歩を楽しんだ。あいにくの空模様にもかかわらず、鮮やかな花々が咲き誇り、その美しさとほのかな香りに天は心を奪われた。

公園では、遊具で遊ぶ子どもたちの笑い声が響き、芝生の広場では元気に走り回る姿が見える。小さな噴水広場では、水が穏やかに弾け、陽光を受けてきらきらと輝いていた。都会の喧騒から離れたこの場所では、小鳥のさえずりが風に乗って耳に心地よく響いていた。

しばらく散策したあと、天は池のほとりから見える自然豊かな景色を気に入り、そこで絵を描くことに決めた。そばの草むらに腰を下ろすと、肩にかけたバッグを降ろし、準備を始めた。バッグから一二〇色の色鉛筆セットとスケッチブックを取り出し、膝を立ててそれを支えに絵を描き始めた。

天は、一度絵を描き始めると高い集中力を発揮するため、イリスが周りを見張っていた。そして、あっという間に二時間が経過し、進捗状況は八割ほどだった。同じ姿勢で描き続けていたため、天の背中は丸まり、疲労がじわじわと溜まっていた。

少し休憩を挟もうと、色鉛筆を置いた瞬間、背後から「素晴らしい絵ですね」という声が聞こえた。天はビクッと身体を震わせ、恐る恐る振り返った。視線の先には、笑顔でこちらを見つめる金髪の少女の姿があった。天は驚愕の表情を浮かべ、全身が硬直した。

「突然お声をかけてしまい、申し訳ありません。あまりに素敵な絵でしたので、つい足を止めてしまいましたの」と彼女は丁寧に言った。

 天が黙ったまま固まっていると、彼女はさらに続けた。

「わたくし、一色こがねと申します」と柔らかな笑みを浮かべながら名乗り、「差し支えなければ、あなた様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」と問いかけた。

しかし、天は答えることができなかった。突然のことに驚き過ぎて、心の中でパニック状態に陥り、一色の声が耳に届いていなかった。

どどど、知らない人に絵を見られたうえに、いきなり話しかけられるなんて……! 何を言ってるのか全然聞こえないし、何を話せばいいのかもわからない。もし変なことを言ったら、秘密がバレるかもしれない……! でも、無視したら怒られるかもしれないし……。どうすればいいの!? 誰か、助けて!

天が頭を抱え、一人で悩んでいると、一色が「あの……」と心配そうに声をかけた。その瞬間、イリスが二人の間に割って入った。

「すみません、一色様。少しお待ちください」とイリスは丁寧に返し、画材道具を入れたバッグの中に飛び込んだ。しばらくして、白猫のパペットを手にしたイリスが、バッグの中から飛び出した。イリスは天のそばまで飛び、白猫のパペットを彼女の左手に被せた。

天は白猫のパペットを動かし、その小さな手を自分の右肩に添えた。まるでパペットがやさしく慰めているようだった。

天は少しずつ落ち着きを取り戻した。天が落ち着いたタイミングを見計らい、イリスは飲みかけの水を差し出した。それを白猫のパペットが受け取り、天に手渡した。天は残っていた水を一気に飲み干し、空になったペットボトルをイリスに渡した。

イリスは空のボトルを持ち、近くのリサイクルボックスへ向かった。

ぽかんとした顔で立ち尽くす一色に、白猫のパペットが視線を向けた。

「あ、ごめんね。待たせちゃったニャ……」

「えっ、あ……いえ、大丈夫ですわ」と一色は答えた。

「一色こがねちゃん……だったかニャ?」

「は、はい」

「この子のニャまえは、そらニャン!」

ましろんは天を指しながら元気よく紹介し、次に自分を指差して言った。

「で、ましろんのニャまえは、ましろん。よろしくニャ!」

そう言って、小さな手を差し出した。

「えっ、は、はい。よろしくお願いします」一色は少し戸惑いながらも握手に応じた。

「ましろんは、そらニャンの親友だから、ニャンでも聞くといいニャ!」

「親友……?」一色は少し困惑したように眉を寄せた。

そのとき、ゴミ捨てから戻ってきたイリスが冷静に補足した。

「ましろんは、天ちゃんの代弁者みたいなものです」

「代弁者……ですか……?」一色は少し首を傾げながら繰り返した。

「そうニャ! ましろんとそらニャンは、一心同体ニャ!」とましろんは誇らしげに胸を張った。

 ましろんは、AIが搭載されたものではなく、ただの白猫のパペットだ。つまり、天が腹話術で声を出している。

近年では、会話のできるAI人形やロボットが普及し、人々と自然に会話したり、子どもと遊んだりするのが当たり前の光景になっている。昔ながらの一方的なスタイルはほとんど見られず、双方向のコミュニケーションが主流だ。そのため、天が腹話術を使っていることに、一色は気づくのに少し時間がかかった。

少しの沈黙のあと、一色はようやく頭の整理ができたようで、「そうでしたのね。よろしくお願いします。天様、ましろん様……」と微笑んだ。「それから……」とイリスに目をやった。

「イリスです」イリスは丁寧にお辞儀をした。

「イリス様!」と一色は笑顔を向けた。

 軽く挨拶を交わしたあと、ましろんが改めて尋ねた。

「ところで、一色ニャン。ましろんたちに何か用があるのかニャ?」

「あ、はい。最初、天様をお見かけしたときは、後ろ姿が知人に似ていましたので、お声掛けしよと思ったのですが、わたくしの勘違いでした」と一色は申し訳なさそうに答えた。「ですが、そのあと天様が描いていらした絵を拝見して、その繊細な美しさに心を奪われましたの」と優雅に微笑んだ。

「そ、そうかニャ……」とましろんは返した。

「はい。とても繊細なタッチで美しく、わたくしの心の中にグッと入ってきましたの」と一色は真っ直ぐな視線を向けた。

「ニャハハ……」ましろんは小さな手で後頭部を掻き、照れた仕草を見せた。その様子につられるように、天の頬も赤らんでいった。

「どこかで習っていらっしゃるのですか?」

一色が興味本位でそう問いかけた瞬間、場に微妙な緊張感が漂った。

 天は激しく動揺していた。

 こ、この人、わたしのことを探ろうとしてる!? ま、まずい……ヘタなこと言ったら、秘密がバレちゃうかもしれない……!

 少し間を置いてから、ましろんが真剣な表情で答えた。

「……それは、秘密、ニャ」

「そう……ですか……」一色は気まずい表情を浮かべた。「申し訳ありません。不快にさせるようなことを尋ねてしまいました」と申し訳なさそうに頭を下げた。

 ましろんは、なぜ謝られたのかわからずに、一瞬目を丸くしたが、すぐに真剣な表情で返した。

「……気にしニャいでいいニャ。ましろんは、そらニャンが褒められて嬉しかったニャ!」

一色は胸に手を当て、安心したように息をついた。すぐに気持ちを切り替え、真剣な表情で天とましろんを見つめ、「あの……」と声をかけた。

「ん?」

 ましろんが応じると、一色は控えめに続けた。

「会って早々、非常に恐縮なのですが、一つ、よろしいでしょうか?」

「ど、どうぞ……」ましろんは固唾をのんで、待ち構えた。

 一色は落ち着かない様子で、躊躇っていたが、やがて、意を決したように天を見つめ、口を開いた。

「……もしよろしければ、わたくしと、お友達になっていただけませんか?」

「ニャッ!?」

ましろんは驚きのあまり耳までピンと立たせたまま硬直した。天も同じく目を丸くして固まったが、その内心は嵐のように揺れていた。

えっ、ど、どういうこと!? わわ、わたしと友達になりたい!? な、なな、なんでそんな話に……!?

天とましろんが呆然としている中、一色はさらに続けた。

「わたくし、天様に魅力を感じましたの。ぜひとも、お友達になりたいですわ!」と目を輝かせた。

天の耳に一色の言葉は届いていたが、そのせいで、落ち着きを取り戻すどころか、さらに戸惑いが増していた。

 みみ、魅力!? そ、そんなこと、翠ちゃんたち以外の人で、は、初めて言われた。う、嬉しいけど、でも……。

 天は思わずましろんと顔を見合わせ、無言のまま深呼吸を繰り返した。その間も心の中は混乱が渦巻いており、どうにかして頭を整理しようと懸命に努めた。

しばらくして、落ち着きを取り戻すと、ましろんは真剣な表情で一色を見つめた。

「……そのお誘い、とっても嬉しいニャ。でも……ごめんニャ……」

ましろんが申し訳なさそうに静かに答え、天は斜め下に視線を下げ、一色と目を合わせないようにした。

「……理由を、お聞きしてもいいですか?」と一色は冷静に尋ねた。

「それは――」ましろんは目を逸らし、「……言えニャい」と答えた。

気まずい沈黙のあと、一色は残念そうに呟いた。

「そうですか……わかりました」

一色の悲しげな表情を目にした瞬間、天は心の奥に鋭い痛みを感じた。他人の感情に敏感な天は、その痛みと重なるように、強い罪悪感に襲われた。それでも、表情に出さないよう必死に自分を抑えた。

「すまニャいニャ……」とましろんは心苦しそうに謝った。

「いえ、お気になさらないでください」と一色は気遣いの笑顔を向けた。「突然のことで困らせてしまい、申し訳ありません」と頭を下げた。

「そんなこと、ニャいニャ!」ましろんは強く否定した。

一色は顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべながら、「お話しできて、本当に楽しかったですわ。ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。

「ましろんも、とっても楽しかったニャ!」

「あの、もしまたお会いすることがあれば、お声掛けしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんニャ!」ましろんは親指を立てた。

「ありがとうございます」一色は笑顔を浮かべた。

 最後に、一色は満足そうな表情を浮かべ、ゆっくりと一礼してからその場を後にした。


一色がいなくなったあと、天はしばらくその場でボーっとしながら遠くを見つめていた。久しぶりに人と話したため、一気に緊張が解け、疲れがどっと押し寄せていた。

その間、イリスは手際よく荷物を片付けていた。ましろんは天の手から外され、バッグの上にぽんと置かれると、うつ伏せになってじっとしていた。

しばしの何もない時間を過ごしていると、空から小雨がポツポツと降り始めた。

「天ちゃん、雨が降り出したよ!」というイリスの声に、天はハッと我に返った。慌てて画材道具の入ったバッグを肩にかけ、左手にましろんを装着し、右手で傘を差した。しかし、雨が突然勢いを増し、まるで滝のように降り始めたため、天たちは慌てて雨宿りできる場所を探し始めた。周囲を見渡しながら走っていると、イリスが東屋を見つけ、二人は急いで向かった。

「急に激しくなったね」と天は呟いた。

「ごめんね、もっと早く言えばよかった」とイリスは申し訳なさそうに言った。

「ううん、大丈夫だよ。わたしがぼんやりしてたせいだから……」

 天はベンチに腰を下ろし、畳んだ傘を立てかけた。肩にかけていたバッグを置き、ましろんをバッグの上に置いた。視線を上げ、暗い雨空を見つめると、「雨、止むかな……?」と呟いた。

「十分もすれば、弱まると思う」とイリスは即答した。

「そっか……」

天は安堵の表情を浮かべた。そっと目を閉じ、東屋の屋根を激しく打つ雨音に耳を傾けた。その音は心の奥まで深く響き渡り、屋根が今にも突き破られそうなほど激しく降り続けていた。ゆっくりと目を開き、周辺を見渡すと、さきほどとは景色が違って見えた。ただのゲリラ豪雨が、まるで自然が奏でる壮大な交響曲のように思えた。天には少し刺激が強すぎる演奏だったが、気分転換にはちょうど良かった。そんな自然が奏でる音に耳を傾けながら、周囲を見渡していると、天はあることに気づいた。

「イリスちゃん、あれ!」

天が並木道の方を指差すと、その声に応じ、イリスも目を向けた。

二人の視線の先には、木陰にぽつんとたたずむ二十センチほどの人形の姿があった。

人形は空を見上げ、雨が止むのを待っているようだった。生い茂る木が雨を防いでいるが、枝や葉の隙間からポツポツと雨水が漏れていた。急な大雨に逃げ遅れたのだろう。AI搭載の人形は、稀に持ち主のもとを離れて勝手に行動し、迷子になることがある。

天は人形の様子を見て「もしかして、迷子なのかな?」と呟いた。「あの人形、誰のものかわかる?」とイリスに尋ねた。

イリスは東屋の中から人形を凝視し、狙いを定め、遠隔でハッキングを仕掛けた。しかし、上手くできず、「ごめん、わかんない」と答えた。

イリスがハッキングできないということは、人形の神経回路が故障している可能性がある。このまま放置すれば、人形は雨に濡れて壊れるだけ……。そんなこと、天が黙って見過ごせるはずもなかった。

天は傘を手に取ると、素早く開き、激しい雨の中、急いで人形のもとへ向かった。外に出るとすぐに足がびしょ濡れになったが、その程度、まったく気にならなかった。

天が人形の前に立つと、濡れた顔を上げた人形と視線が交わった。遠目ではよく分からなかったが、それは騎士の格好をした少女の人形だった。その人形からは、普通のAI搭載人形にはない、不思議な存在感が漂っていた。

「そこだと濡れちゃうから、こっちにおいで」天はやさしく声をかけ、しゃがんで手を差し伸べた。

人形は一瞬躊躇ったが、やがてその手を掴んだ。

天はそっと人形の手を握り、その小さな体を慎重に引き寄せると、自分の肩にやさしく乗せた。人形が肩に座ると、天は傘をしっかりと掲げ、彼女を雨で濡らさないよう慎重に歩を進めた。反対側の肩には冷たい雨が容赦なく降り注いだが、天は気にも留めず、歩き続けた。

無事に東屋へ戻ると、人形はすぐに天の肩からベンチに飛び降りた。

人形は視線を上げ、天を見つめた。「ありがとう、助かった」

「濡れなくて良かったね」と天は微笑んだ。

「ああ、あのままだと、びしょ濡れになるところだった」人形は両腕を横に伸ばし、濡れている箇所がないか隈なく確認し始めた。背中側は腰を捻って確認した。「よし、大丈夫だ」人形は再び見上げ、天と目を合わせた。「助けてくれて感謝する。わたしの名は『ランスロット』。主からは『ランちゃん』と呼ばれている」と誇らしげに胸を張りながら自己紹介し、小さな手を差し出した。

「あ……天、です。よろしく」と少し緊張しながらも、天はそっと人形の小さな手を握り返した。握手を交わしたあと、天はイリスを指し、「この子は、イリスちゃん」と紹介した。イリスはそれに合わせ、丁寧にお辞儀をした。

「天と、イリス……」ランスロットは名前を呟きながら、二人の顔をじっと見つめた。その瞳には尊敬の色が宿り、「きみたちは素晴らしい騎士道精神を持っている。きっといい騎士になるだろう」と褒め言葉をかけた。

「き、騎士……?」と天は小さく呟いた。

「ああ、騎士のわたしが言うのだから、間違いない!」とランスロットは断言した。

「あ、ありがとう」と天は控えめに言った。

ランスロットは外に視線を向け、「しかし、この雨には参ったな。これでは身動きが取れない。まだ任務の途中だったんだが……」と困ったように呟いた。

「あっ、この雨なら、あと十分もすれば止むと思うよ」と天は言った。

「本当か!?」

「うん」

「そうか、よかった……」とランスロットは安堵の息を漏らした。

 ランスロットとの会話は滑らかで、とても故障しているようには思えなかった。しかし、最近のAI搭載人形は、複雑な構造で作られているため、どこか一部の部品が故障している可能性がある。

天はランスロットに尋ねようか迷った。AI搭載人形とはいえ、あれこれ詮索するのは失礼かもしれないと、躊躇っていた。機嫌を損ねるかもしれないし、余計なお世話と思われる恐れもある。

天がどうすべきか迷っていると、イリスがその様子に気づき、すぐに彼女の意図を察した。

「あの、ランスロット様……」とイリスは声をかけた。

「ん?」ランスロットはイリスに目を向けた。

「差し出がましいことかもしれませんが、一つ、お聞きしてもよろしいですか?」とイリスは慎重に言葉を選びながら尋ねた。

「ああ、何だ?」

「何かお困りごとはありませんか? たとえば、道に迷っているとか……?」

「ん? 特にないが……」

「そうですか。では、体調はいかがですか? 頭が痛むとか、何か大事なことを忘れているなど、ありませんか?」

「何か大事なこと……うーん……」ランスロットは真剣な表情で考え込み、小さな手をあごに当てた。しばらくして、「ないな!」と明るく声を上げた。

「そうですか、失礼しました」イリスはお辞儀して、天を一瞥しながら頷いた。少なくとも、ランスロットには目立った異常は見られなかった。それがわかると、天は胸に手を当てホッと胸を撫でおろした。

「心遣い、感謝する」ランスロットは、二人に向かって礼儀正しく一礼した。顔を上げると、「ところで、きみたちはこんな天気の悪い日に、公園で何をしていたんだ?」と興味本位で尋ねた。

「あっ、えーっと……絵を、描いてました」と天は答えた。

「へぇー、絵か……」

 天はバッグに手を伸ばし、スケッチブックを取り出した。ページをめくって絵を見せると、ランスロットは目を輝かせながら見入って、次々と褒め言葉を口にした。天は素直に嬉しくなり、頬を赤らめた。ランスロットに「他の絵も見せてくれ」と言われたため、天はさらにページを捲った。

ランスロットは天の描いた絵を見つめ、「おお! これはまるで命を宿しているかのようだ!」「なんと美しい線だ!」「見事な腕前だな!」と、次々に感嘆の声を上げた。その言葉に、天は照れながらも少し自信を得たように、次々とスケッチブックのページを捲り続けた。

そんな風に過ごしているうちにあっという間に十分が経過し、いつの間にか大雨は止んでいた。灰色の雲が徐々に散り、その隙間から漏れ出す太陽の光が水溜まりに差し込むと、光はきらめき、まるで地面に宝石を散りばめたかのように輝いた。

雨が止んだことに気づくと、ランスロットは勢いよく外へ飛び出し、空を仰いで満足そうに頷いた。その場で振り返ると、「天、イリス! 二人のおかげで楽しい時間を過ごせた」と満面の笑みを浮かべた。「もし再び会うことがあれば、この恩は必ず返すと約束する!」ランスロットは胸に手を当て、力強く誓った。その言葉には、騎士としての誇りが滲んでいた。

「そんな、恩なんて……」と天は遠慮しながら呟いた。

「じゃあ、またな」ランスロットは軽やかに一礼すると、駆けるように去っていった。

ランスロットを見送ったあと、「わたしたちも帰ろうか」とイリスが声をかけた。

「うん」と天は返し、二人はその場を後にした。

 

帰り道、天はふと空を見上げた。すると、視線の先に大きな虹の橋が架かっていた。鮮やかな色彩は、まるで空全体をキャンバスにしたかのようで、見る者を引き込む壮大な美しさに満ちていた。ほうき型ドローンに乗った子どもたちが虹に向かい、まるで夢を追いかけるように空高く飛び回っていた。その無邪気な姿に、天は心が温かくなるのを感じた。



読んでいただき、ありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしています。

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