柴乃の秘密①
核ミサイル着弾まで、残された時間はあと三分。
柴乃は元凶であるコンピューターウイルス『ルシファー』の討伐ミッションに参加していた。しかし、ルシファーの策略にはまり、球体状の仮想空間に閉じ込められていた。仲間はいない。
仮想空間では、無数にコピーされたルシファーが、壁一面隙間なく覆っていた。
柴乃は空間の中心に浮かび、鋭い目で周囲を見渡す。視界を埋め尽くす無数のルシファーの無機質な眼差しが、冷たく心を突き刺すように迫ってくる。逃げ場は、どこにもなかった。
すべてのルシファーが一斉に手を突き出し、柴乃に向けて手のひらをかざした。次の瞬間、空間全体が不気味な唸りを上げ、黒いエネルギー弾が次々と放たれた。
四月十五日、金曜日の午前0時7分。
ネット上のとある場所に突如、小さな灰色の卵が現れた。一分後、その卵がひび割れ、小さくて可愛いらしい灰色のヤギの赤ちゃんが生まれた。一匹のコンピューターウイルスが誕生した瞬間だった。
生まれたばかりのコンピューターウイルスは、お腹を空かしていたため、近くにあったデータを食べ始めた。最初は食が細く、すぐに満腹になった。データを食べ過ぎれば、容量がパンクして死んでしまう。そのため、休憩を挟みながら慎重に食べ続けた。
それから二時間ほど経つと、コンピューターウイルスは急速に進化し、食べたデータの一部を利用して新たなアルゴリズムを学習していた。身体は一回り大きくなり、その灰色の外殻には、わずかに光る回路のような模様が浮かび上がっていた。
このとき、AIウイルスハンターがコンピューターウイルスの存在に気づき、速やかに処理するため、現れた。
コンピューターウイルスはある程度の知恵をつけていたが、戦闘能力はほとんどなかった。自ら攻撃する術はなく、AIウイルスハンターの攻撃を受けるのみだった。一瞬にして、周辺はAIウイルスハンターの攻撃による爆煙に包まれた。
AIウイルスハンターは冷徹な計算のもと、一旦攻撃を止め、爆煙の向こうの結果を見極めるように待ち構えていた。
やがて爆煙が晴れると、傷だらけの子ヤギが姿を現した。ダメージが蓄積し、身動きが取れない状態だった。そこに一切の躊躇なく、AIウイルスハンターはとどめの攻撃を一斉に放った。
コンピューターウイルスは総攻撃を受け、灰色の体が粉々に砕け散り、ネットの闇に溶けるように消滅した。
AIウイルスハンターは、コンピューターウイルスの完全消滅をしっかり確認し、その場を立ち去った。
しかし、その時点でコンピューターウイルスは、完全には消えていなかった。爆煙が舞っている間に、わずかなリソースを使って自らのコピーを幾つか作り出し、本体はその背後に潜んでいた。AIウイルスハンターに見つからないか賭けだったが、運はコンピューターウイルスに味方したのだった。
それから、コンピューターウイルスは影のように忍び込み、ネットの深層へと潜伏しながら、隙を見ては貪欲にデータを喰らい続けた。AIウイルスハンターや人間に気づかれそうになったときは、すぐにその場を去り、新たな空間に移動した。さらに、一度死にかけた体験から、コンピューターウイルスは、生存のための進化を決意した。無数のデータベースをハッキングし、敵の行動パターンを解析しながら、プログラムに戦闘アルゴリズムを組み込んでいった。
時刻は午前4時を過ぎ、夜明け前の静けさがネット空間に漂う中、危険なコンピューターウイルスの存在に気づく者は、まだ誰もいない。
金曜日の午前四時過ぎ。
柴乃は空高く舞い上がり、辺り一帯の森林が見渡せる高さまで一気に上昇した。先端が折れた鍔の広いとんがり帽子をかぶり、膝下まで伸びる黒いローブをまとっていた。風に舞うたび、ローブの裏地から深い紫がちらりと覗き、動きに華やかさを添えている。黒のブーツは戦いの傷跡を刻み込み、背中にはローブの上から鮮やかな紫色の翼が力強く広がっていた。右手は魔法の杖――先端の紫色の宝石が美しく輝き、木と金属の装飾でできた杖を握っていた。そして、左目に黒い眼帯をしていた。
上空は風が強く、ローブと紫色の髪が激しくなびいていた。そこから、柴乃は地に這いつくばる傷だらけのレッドドラゴンを見下ろした。
「クックック、くらうがいい。これが、我のとっておきだ!」
柴乃は魔法の杖を空に掲げた。
「光よ、我が願いに応えよ。天の輝き、我が手に宿り、光の刃で闇を斬り裂け。天より降り注ぎて、すべてを炎に還せ! 運命の力よ、今こそ姿を現せ、真の力を示すとき!」
詠唱が進むにつれ、柴乃の周囲には無数の紫色の魔法陣が浮かび上がり、その中心から白い光の矢が現れた。
光の矢は、星屑が弾けるように空間を染め上げ、一瞬で闇を照らし尽くした。
「プリュイ・ド・ルミエール!」
柴乃はそう叫びながら、魔法の杖を勢いよく振り下ろした。すると、空を覆っていた無数の白い光の矢が、レッドドラゴンに向かって雨のように降り注いだ。
光の矢は、レッドドラゴンの固い鱗を貫き、大ダメージを与えた。
レッドドラゴンは轟音のような叫び声を上げ、苦痛に身を捩った。
最初は膨大な量だったレッドドラゴンの体力ゲージも、今は数ミリしか残っていない。
柴乃はニヤリと笑みを浮かべた。
「これで終焉だ!」
柴乃は両手で杖を握り直し、体の前に静かに構える。瞳に宿るのは、揺るぎない決意の炎。一度だけ息を整え、そっと目を閉じた。そして、力強い声で詠唱を始めた。
「万雷の咆哮よ、虚空を裂き、絶対なる破壊の力を示せ! 忌まわしき天の怒りを秘めし雷よ、すべてを焼き払う終焉の閃光となれ――」
詠唱中、杖の先端の宝石が紫色の光を発し、輝き出した。それに呼応するように、徐々に雷雲が空を覆い始め、ゴロゴロと音を立て始めた。
レッドドラゴンは警戒の色を見せたが、深手を負い、もはや動けなかった。
柴乃は詠唱を続ける。
「天と地を繋ぎし轟雷、今ここに我が名の下に解き放たれん! 滅びの光よ、すべてを無に帰せ!」
杖を握る手に力を込め、決意の眼差しで目を見開いた。
「エクラ・デヴァステーター!」
そう叫びながら、柴乃が杖を振り下ろすと、雷雲が唸りを上げ、一瞬の閃光が空を裂いた。次の瞬間、雷光の矛先がまるで巨神の怒りの如く地を叩き、レッドドラゴンに直撃した。
ドラゴンの絶叫が響き渡る中、その体は光の中で砕け、無数の塵となって四方に散らばった。体力ゲージは一気に0へと落ち、完全にその姿を消した。
レッドドラゴンの痕跡が完全に消えた瞬間、柴乃の目の前に「CONGRATULATION」「CLEAR」の文字が鮮やかに浮かび上がった。同時に、周囲にはクラッカーの破裂音が響き渡り、空に花火が咲き乱れる。光と音の祝福が空間全体を包み込み、柴乃の胸に達成感をもたらした。
ゲームクリアの余韻に浸りながら、柴乃は肩の力を抜いた。その瞬間、どこからともなく女性のAIアナウンスが響き渡った。
「ゲームクリア、おめでとうございます、ヴィオレ様。それでは、こちらがクリア報酬のアイテムでございます」
アナウンス後、レッドドラゴンがいた場所に金色の宝箱が現れた。
柴乃は颯爽と宝箱のもとへと降り立った。目を輝かせながらしゃがみ込み、宝箱に手を伸ばす。蓋を開けると、眩い光があふれ出す。思わず目を背けたが、すぐに視線を戻した。
ゆっくりと宝箱の中から現れたのは、伝説の魔法の杖『ケリュケイオンの杖』。その表面は眩い黄金の輝きで覆われ、細かな紋様が魔力の波動を放っているかのようだった。その存在感だけで周囲の空気が震え、柴乃の全身に圧倒的な力が流れ込むような錯覚を覚えた。
柴乃は杖を手に取り、その重みを確かめるように軽く振ってみると、指先に魔力が流れ込んでくる感覚があった。すぐに装備し、ステータス画面を開く。
「これは……! 攻撃力+50に、消費MP30%減少……!」
思わず声が漏れた。その性能に、驚きと興奮が胸を突き上げた。
ステータスを確認すると、柴乃はその場で少し魔法を試し撃ちした。
「よし、こんなもんだな。そろそろ終わりにしょう」
柴乃は「ふぅー!」と一息つきながら、メニュー画面を開いた。ログアウトボタンに指を伸ばし、軽快にボタンを押した。その瞬間、柴乃の足元に柔らかな白い光の輪が浮かび上がり、次第にその光が彼女をやさしく包み込んだ。まるで風が吹き抜けるような感覚が体を通り抜け、視界が徐々に暗転する。気づけば、柴乃は現実世界へと帰還していた。
柴乃はゆっくりと目を開けた。目の前には暗闇が広がり、ゲームの余韻がまだ頭の中に渦巻いていた。身にまとっているのは、着慣れた紫色のジャージ。
柴乃はリビングのソファに深く横たわり、虚空を見つめた。眠気を追い払うように上体を起こし、大きく伸びをしてから、ぼんやりと周囲を見渡した。
柴乃は深夜0時にゲームを始めてから、約四時間もプレイし続けていた。
「ふぅー」と息をついた柴乃は、イヤホン型量子デバイスを外してテーブルに置いた。その瞬間、リビングの電気が「パッ」と点灯し、一瞬だけ視界が白く弾けた。
柴乃は思わず顔をしかめたが、次第に眩しさが和らぐと、ふわりと光の中に小さな影が浮かび上がった。
「お疲れ様です、ヴィオレ様」という声が響いた。
柴乃の視界がはっきりすると、イリスが小さな翼を羽ばたかせながら宙に浮かぶ姿が目に映った。イリスの手には、炭酸入りのグレープジュースの注がれたマグカップが握られていた。
「おお、ナイスタイミングだな、イリス。メルシー!」
柴乃は最近ハマっているフランス語で感謝を述べ、手渡されたジュースをゴクリと飲んだ。一息ついてから、彼女は少し得意げな笑みを浮かべ、問いかけた。
「クックック、イリスよ。今宵の我は、どんなものだった?」
「はい、とても輝いていました。レッドドラゴンをただ倒すだけではなく、観ている人を虜にする素晴らしい演出でした。特に、魔法の美しさが際立っていたと思います」とイリスは静かに答えた。
「そうかそうか、フフン!」柴乃は誇らしげに胸を張った。
ところが、イリスはすぐに表情を引き締め、柴乃をじっと見つめた。
「ただし、ヴィオレ様。言葉遣いが少々乱れていた部分がありました。次回はお気をつけください」とイリスは穏やかながらも鋭い口調で指摘した。
「ムッ……! そうか……」
柴乃は自覚があったため、反論しなかった。つい夢中になると、強い言葉を使ってしまうことがある。さきほどの怪獣討伐ミッションでも「死ねぇぇぇぇぇ!」とはっきり言っていたことを覚えていた。
「実は、さきほどのヴィオレ様のプレイが、すでにネット上で話題になっています」とイリスが言い添えた。
「なにっ!?」
イリスはその場で手早くネット検索を始め、柴乃の目の前にホログラムを投影し、コメントを次々と映し出した。
「このレベルを一人で攻略するとは、さすがヴィオレ!」
「今回の討伐もまるで映画のようだった!」
「大魔王様万歳!」
「AMAZING」
「BRAVO」
「マーベラス」
数々の称賛の声が、世界中から寄せられていた。
柴乃は「大魔王」という言葉を目にした瞬間、一瞬だけ顔をしかめ、すぐにそのコメントを放り投げるように視界から消した。
柴乃が熱中しているのは、世界中で一億人以上がプレイするVRMMOゲーム『怪獣狩り』。リアルなグラフィックと高度な戦略性で、ゲーム界の頂点に君臨する。
柴乃は生粋のゲーマーで、現在は日本のトップランカーの一人として、一定の知名度を誇っている。プロではないものの、コツコツとフリーで活動を続けた結果、いつしか大会で注目を浴びる存在に成長していた。その名声は国内外を問わず、多くのゲーマーから尊敬を集めていた。ゲーム世界での名は『ヴィオレ』。フランス語で紫という意味だ。
ゲーム好きの柴乃は、小さい頃からジャンルを問わず、気になった作品は片っ端からプレイしてきた。そのため、格闘対戦、RPG、レース、シューティングなど、どのゲームもある程度上手くこなせる。それらの中で今一番気に入っているのが、魔法が使えるVRMMOゲームだった。
柴乃は届いたコメント一つひとつに目を通していた。そのとき、ふと『ドレ』という名前のプレイヤーから送られてきたメッセージが目に留まった。
「ヴィオレ様。今回のあなた様の戦いも、とても素晴らしく惚れ惚れしました。ありがとうございました。いつまでも応援しています」
そのコメントを目にし、柴乃は口元を緩めた。
ドレからのコメントが届き始めたのは、三ヶ月ほど前。ちょうどその頃、柴乃が『怪獣狩り』で一気に注目を浴び始めたタイミングだった。ドレのメッセージはいつも礼儀正しく、温かみのある言葉ばかりだった。顔も知らない相手だが、その誠実さに、柴乃は自然と良い印象を抱いていた。
(ゲームを続けていれば、いつかきっと会えるはずだ)
柴乃はそう心の中で呟き、次の冒険への意欲を新たにした。
それからしばらくの間、柴乃はグレープジュースを飲みながら、好意的なコメントに目を通した。
一通り読み終えたあと、リプレイ映像を再生し、映し出された自分の動きに目を輝かせた。グレープジュースの甘い香りが鼻腔をくすぐり、ひんやりとした液体が喉を滑り落ちるたびに、柴乃はゲームの余韻とともに幸福感に包まれた。満足げな笑みが自然と浮かぶ。
「このゲームにもすっかりハマってしまいましたね」とイリスが微笑みながら声をかけた。
「ああ、なかなか面白くて我好みだ。特に、魔法を使ったときの爽快感が最高だ! 我もいつか、現実の世界で使ってみたいものだ」
「ふふ、そうですね」
イリスは、まるで子どもの無限大な夢を応援する母親のようにやさしく笑った。
「まだ遊び足りないな……」
柴乃は小さく呟き、様子を探るような目でイリスを見た。少し間を置き、「もう一狩り行こうと思うのだが、イリスも一緒にどうだ?」と慎重に誘った。
「はい、ご一緒します」
イリスが笑顔で応じると、柴乃の表情がパアっと明るくなった。
しかし、イリスは冷静に言い添えた。
「……ですが、二時間の休憩を挟みましょう」
「なにっ、二時間も……!?」
「はい、二時間です」とイリスはきっぱりと言い切った。キリっとした目つきで柴乃を見つめると、さらに指摘した。
「ヴィオレ様は、すでに四時間続けてプレイしています。これ以上は、さすがに脳に負担がかかります」
「我なら問題ない!」と柴乃は反発した。
「いけません!」とイリスも譲らない。
「では、三十分でどうだ?」
「二時間です」
「四十分なら……?」
「二時間です」
「せめて一時間で!」
「二時間です」
イリスの毅然たる口調に、柴乃はついに降参した。しかし、心の中で彼女は勝者のような気持ちで笑っていた。
クックック……イリスよ、これで我を制したつもりとは、甘いな。なぜなら、明日、土曜日は、我の番……! つまり――明日も一日中、ゲームに没頭できるということだ……! イリスはそれをまだ知らない。クフフ、明日が待ち遠しいぞ。
柴乃は嬉しさのあまり、怪しい笑みが漏れていた。
しかし、イリスの言い分もしっかり理解しているつもりだった。
たしかに、イリスの意見には一理ある。近年、VRゲームの依存症が社会問題化しており、過度な没入による体調不良や救急搬送の事例も後を絶たない。
一方で、VR技術は、医療や防災シミュレーションなど、多くの分野で恩恵をもたらしている。ただ、その利用には個々の節度が求められるのが現状だった。
さらに、賛否はあるが、仮想世界では亡くなった人と“再会”することも可能だ。
問題はそれを使用する人間側であり、技術はとても素晴らしいものだ。
柴乃の健康管理は、すべてイリスに一任されていた。健康データは常に監視され、異常があれば即座に強制ログアウトされる仕組みだ。それがたとえボス戦の最中であろうと、容赦はない。そのたびに悔し涙を流すこともあったが、イリスの厳格なサポートのおかげで、柴乃は常に健康を維持できていた。
柴乃はソファに深く身を沈め、ホログラムを軽く指で操作した。検索で見つけた漫画――『龍球オメガ』を選び出すと、薄暗いリビングの中でその光のページをめくりながら、時間が過ぎるのを静かに待った。
二時間後、柴乃はソファから飛び起きると、テーブルに置いたイヤホン型量子デバイスを手に取り、隣の畳の部屋へと足早に向かった。そこには、イリスが敷いた布団が広がっていた。床の間には、名刀さながらの風格を放つ刀が飾られていた。
柴乃は軽く飛び跳ね、布団の上に仰向けに寝転んだ。イヤホン型量子デバイスを耳につけていると、イリスがふわりと現れ、柴乃の顔の横にある小さな椅子に静かに腰を下ろした。
柴乃は横を向き、「じゃあ、行くか。イリス!」と声をかけた。
「はい」
イリスが頷くと、二人はそっと目を閉じ、声を揃えて「コネクト・オン」と宣言した。その瞬間、イヤホン型量子デバイスが柴乃の脳と量子無線で繋がり、イリスとともにデジタルの世界へと一気に飛び込んだ。
二人は周囲が真っ白な空間に立っていた。目の前にいくつかのゲームパッケージが漂っている。その中から柴乃は『怪獣狩り』を探し出し、イリスとともにパッケージにそっと手を触れた。すると、二人はゲームパッケージの中に吸い込まれた。
少しして、ゆっくりと目を開けると、二人は『怪獣狩り』の世界のロビーに立っていた。目の前には、勇者、戦士、エルフ、僧侶、魔法使いなど、様々な職業にプレイヤーたちの姿が広がっていた。
このゲームでは、敵が怪獣であるため、プレイヤーのアバターは人型に限定されている。獣人や悪魔風のアバターは、敵と誤認される恐れがあるため禁止されていた。また、プレイヤー同士の争いも厳しく制限されており、違反者には重いペナルティが科される。協力が重要視されるこのゲームでは、対人戦を求めるプレイヤーに対して、別のタイトルが推奨されていた。
ロビーには、日本人だけでなく、世界各国から集まったプレイヤーたちで溢れていた。彼らは会話を楽しんだり、他プレイヤーの映像を観てくつろいだりしていた。ゲーム内には同時翻訳機能が備わっており、言語の壁を越えて交流が可能だ。
柴乃はこのゲームをとても気に入っている。ルールがしっかりしているため、治安がいいからだ。しかし、一つ悩み事があった。それは――。
「あっ、大魔王だ!」という男の声がロビー内で響き渡ると、周りにいた人たちが一斉に辺りを見渡し始めた。
「えっ、どこ!?」
「どこに?」
言葉が飛び交う中、次第に柴乃に注目が集まり始めた。やがて、ロビー中の視線が一斉に柴乃に注がれた。
一瞬の静けさのあと、さきほどまでの賑わいとは違うザワザワがロビーを覆った。彼らは手で口を覆い、柴乃を一瞥しながら小さく口を開いた。
「えっ、本物?」
「あの姿は、どう見ても本物だろ」
「さっきのプレイ、すごかったよね」
ヒソヒソ声が聞こえると、柴乃は嬉しさと照れ半分、恥ずかしさ半分の感情を抱き、思わず頬を染め、目を逸らしてしまった。
この世界で注目されるのは嫌いではない。なにしろ、本来の姿ではないのだからな。むしろ、もっと褒めてもらいたいくらいだ……! だが――。
柴乃は唇を噛みしめた。
なぜ、我の二つ名が――『大魔王』なのだ!
心の中でそう叫ぶと、わずかな怒りが徐々に膨らんでいった。
柴乃はこのゲーム内で『大魔王』の異名を持っていた。それが、彼女にとって唯一の悩みだった。そしてその原因も、自覚していた。
「くっ、まさかこの翼のせいで、こんなことになるとは……まったくもって想定外だ!」
背中に広がる紫色の翼を見つめ、柴乃は過去の自分の浅はかさを悔やんだ。
このゲームで使用するアバターは、カスタマイズできる。柴乃は、アバターに翼をつける際、豊富なデザインの中から一番かっこいいと思ったものを選び、さらに自分の好きな紫色に染め上げた。当初は大満足だった。
だがある日、ひとりのプレイヤーが「その姿、“女神”っていうより、“悪魔”だな」と言ったのを皮切りに、『悪魔』という呼称が広まっていった。そしていつの間にか『眼帯の悪魔』、さらには『眼帯の魔王』と変化し、最終的に『大魔王』という異名に定着してしまったのだった。
本来なら、翠のように“女神”と称えられていたはずなのに……。
柴乃は拳を握り締めながら、ふと、“女神”として称えられる自分を想像した。その姿は清らかで美しく、誰からも尊敬の目で見られる理想そのものだった。しかし、徐々に雲行きが怪しくなり、「大魔王」と呼ばれる声が聞こえ始めた。そして、姿までもが本物の魔王さながらに変貌していった。
はっと我に返った柴乃は、思わず顔を覆った。想像の中でも『大魔王』に浸食されるほど、柴乃は思い悩んでいた。
クッ……このままでは、『真白』に顔向けできぬ!
柴乃は真白に申し訳ない気持ちを抱いた。
「さすが有名人ですね。大魔王様」とイリスはからかうような声で言った。
「それは嫌みか? イリス」柴乃は眉をひそめた。
「滅相もありません、大魔王様」
「だから、その呼び方をやめろ!」
「これは失礼しました、大魔――あっ!」イリスはわざとらしく驚いてみせた。
「イ~リ~ス~!」柴乃は目を細め、イリスをじっと見つめた。
「すみません、つい」イリスは頭を下げたが、反省しているようには見えなかった。
ネット世界のイリスも、現実の姿とほとんど変わらない。ただし、大きさだけが違っていた。柴乃や他のプレイヤーと同じ、人間サイズになっていたのだ。さらに、ドレスを身に纏い、姫のような格好をしていた。普段しない格好を選ぶことで、新しい自分を見つけることができるらしい。
だが、イリスはこのゲームで怪獣と戦うことができない。
このゲームでは、AIによる戦闘参加は厳禁だ。不正行為によってゲームバランスが崩れるのを防ぐためである。特にマルチプレイでは、AIが他のプレイヤーの功績を横取りするなどのトラブルが懸念され、厳重なルールが設けられている。ただし、AIがまったく何もできないわけではない。AIは情報収集や助言役として、プレイヤーのサポートをすることが許可されている。例えば、怪獣の属性や弱点を教えたり、アイテムの位置を特定したりすることが可能だ。他にも、ただ一緒にプレイしたいだけという、現実世界や仮想世界に友達がいない人の孤独感を減らすことにも貢献している。
柴乃は孤独を感じているわけではない。ただ、気づけばいつもイリスと一緒にゲームをしていた。決して友達がいないわけではない――たぶん。
柴乃とイリスのやり取りを見ていた人たちのヒソヒソ声が、ふと柴乃の耳に届いた。
「ねぇ……大魔王と話してるあの人、もしかして……『白銀のスマートプリンセス』じゃない?」
「本当だ! こんな近くで見るの初めて。めちゃくちゃ可愛い!」
「本物の姫様みたいだ!」
イリスの異名は『白銀のスマートプリンセス』。白銀の髪と純白の翼、姫衣装で知られ、柴乃に的確なアドバイスをすることから、その名がついた。
柴乃が会話していたグループを睨みつけると、彼らは慌てて目を逸らした。
「ヴィオレ様、少し怖い顔になっていますよ」とイリスが冷静に指摘した。
柴乃はムスッとした表情でぼやいた。
「なんで我が大魔王で、イリスがプリンセスなんだ……!」
「大魔王も、とても素敵だと思いますが……」
「まったく素敵ではない。むしろ、怖いくらいだ……!」
「その怖さが、ヴィオレ様の強さを引き立てているのです」
その言葉に、柴乃は目を見開いて、一瞬硬直した。ゆっくりとイリスに目を向け、「ほ、本当にそうか?」と恐る恐る尋ねた。
「はい。強くてかわいいヴィオレ様を表現するには、これ以上ないくらいです」とイリスは微笑みながら言った。
「か、可愛いか?」
「はい、とっても!」
「そ、そうか……」
柴乃は一瞬だけ頬を染めて目を伏せたが、すぐに顔を上げ、いつもの鋭い眼差しに戻った。
「――だが、『真白』のイメージには合わぬ!」
「そんなことありません。『大魔王』と言っても、いろんな見た目の方がいます。きっと、『真白様』のように可憐で美しい大魔王もいます」
イリスは柴乃の前に、いくつかの『大魔王』アバター画像を表示した。どれも優雅で華麗で、“大魔王らしさ”からはかけ離れていた。
柴乃はそれを眺めながら、「こんな大魔王もいるのか……!」と目を丸くして呟いた。気づけば、さっきまでの悩みが少しずつ薄れていくのを感じた。
心のモヤモヤが晴れると、柴乃はふっと笑顔を見せた。その瞬間――イリスは彼女の目を盗み、小さくガッツポーズを取った。
「ん? どうした? イリス」と柴乃は声をかけた。
「いえ、何でもありません」
イリスはさりげなく笑みを浮かべ、すぐに話題を変えた。
「それより、次はどのミッションに向かいますか?」
「そうだな……」
柴乃は少し悩む素振りを見せ、掲示板に目を向けた。
掲示板にはSランクからFランクまでのミッションがずらりと並んでいた。Fランクは初心者向けで、比較的簡単な依頼が多い。一方、Sランクは超高難易度で、ボス級怪獣の討伐や伝説級アイテムの収集が主な内容だ。当然、報酬も破格だが、その分命がけの挑戦になる。
柴乃はトップランカーなので、当然Sランクミッションの中から選ぼうとしていた。早速ゲットしたばかりの『ケリュケイオンの杖』を怪獣相手に試したいと思っていた。
しばらく悩んだ末、柴乃はSランクの砂漠地帯での怪獣討伐を選んだ。しかし、イリスのリクエストで、まずはCランクの中級ボス討伐に変更した。AIにも肩慣らしというものが必要らしい。
イリスが慣れた手つきでミッションを受諾し、二人はロビーから草原地帯に転移した。晴天の下、心地よい風に吹かれながら、のんびりと歩き始めた。
しばらく歩いていると、とある村に辿り着いた。そこでNPCの村人たちに討伐対象である怪獣の情報を聞こうとしたが、人の気配がまったくなかった。
柴乃たちは二手に分かれ、村を探索した。
村のどこを探しても人影はなく、それなのに生活の痕跡だけが妙に生々しく残っていた。テーブルには冷めた食事が放置され、干したばかりの洗濯物は風に揺れ、畑には使いかけの農具が無造作に転がっていた。元々あった廃村ではなさそうだ。村人の他にも飼われている牛や鶏の姿もなかった。全体的に、どこか不気味な雰囲気が漂う村だった。
「うーむ……このゲームにこんな村、あったか?」と柴乃は不思議そうに呟いた。
「……」イリスは神妙な面持ちで辺りを見渡していた。
「イリス? 何か気になることがあるのか?」と柴乃が声をかけた。
「えっ、あ……いえ、なんでもありません」
イリスは珍しく、言葉を詰まらせながら返答した。
そのとき、近くの草むらからカサカサという音が響いた。
その音を聞いた瞬間、二人は反射的に振り返り、警戒態勢を取った。柴乃は杖を構え、いつでも攻撃できる体勢だ。
草むらに目を凝らすと、そこから一匹の灰色の子ヤギがぴょこんと飛び出した。小さな体は震え、大きな瞳は怯えているように見えた。
「なんだ、ヤギか……」
柴乃は警戒心を解き、息をついた。
「どうしたんだ? 迷ったのか?」
柴乃はゆっくりと子ヤギに近づいた。
その間、イリスはまだ警戒心を解いていなかった。何か考え事をしながら、鋭い目つきで子ヤギを睨んでいた。そして、柴乃がヤギに手を差し伸べたその瞬間、イリスは目を見開き、慌てて叫んだ。
「柴乃ちゃん、危ない! 離れて!」
「えっ……!?」
柴乃がイリスに目を向けた――次の瞬間、子ヤギの表情が一変した。可愛らしい瞳は赤黒く染まり、口を大きく開けると、そこには鋭い牙がびっしりと並んでいた。まるで悪夢のような異形の姿に変貌したヤギは、柴乃に猛然と飛びかかってきた。
柴乃は即座に杖を構え、魔法でヤギの頭上にテレポートした。直後、杖の先端から炎の魔法を容赦なく叩き込んだ。
真紅の炎はヤギを包み込み、バチバチと激しく音を立てながら地面を焦がしていった。やがて、ヤギの異形の姿は、そのまま焼き尽くされて消え去った。
「ヴィオレ様! ご無事ですか?」とイリスは心配そうに駆け寄った。
「ああ、大丈夫だ」
「良かった……」
イリスは安心したように息をついた。
「……それにしても、何だったんだ? あのヤギ……体力ゲージがなかったから、ただの家畜だと思ってたんだが……」
柴乃は焼け跡を見つめながら呟いた。
「わかりません。わたしもこんなことは初めてです」とイリスは眉間にシワを寄せ、真剣な表情で答えた。
「イリスでもわからないのか……! まさか……新種の怪獣?」
柴乃は独り言のように呟いたが、すぐに首を横に振った。
「――いや、運営からそんな告知はなかったはず……」
「……可能性としては、バグかもしれません」とイリスが静かに言った。
「――念のため、運営に報告しておきます」
「ああ、頼む」柴乃は軽く頷いた。
その瞬間、二人の背後からカタカタという微かな音が響いた。
二人は素早く振り返り、構えたが、ボロボロの木の家が静かに佇むだけで、他には何の姿も見えなかった。
柴乃は警戒しながらゆっくりと木の家に近づき、視線を下げて何かを見つけた。
「……これ、なんだ?」
柴乃はその場でしゃがみ込み、木の家の傍らに落ちていた細長い物体を拾い上げた。
それは、ペンライトのような形状をした銀色のカプセルだった。
「イリス、これを見てくれ」
柴乃がカプセルを手渡すと、イリスは目を光らせ、即座にスキャンを開始した。
「このアイテム……図鑑には登録されていませんね」
「もしかして、これもバグか?」と柴乃は続けて問いかけた。
「わかりません」
「あとで運営に渡すか……」
柴乃は慎重にカプセルを胸元にしまい込んだ。
その後、二人は不気味な村を出発した。
二人が村を離れ、遠ざかる足音が消えかけた頃、静まり返った村の入り口近くで草むらがわずかに揺れた。そこには、子ヤギのような小柄な影が潜んでいた。しかし、その瞳には先ほどのヤギと同じような赤黒い光が宿っている。影はじっと二人の背中を見送り、不気味な微動を残して草むらの奥へと姿を消した。
読んでいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。
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