柴乃の秘密②
午前7時頃、少年が一人で『怪獣狩り』をプレイしていた。彼はソロで活動し、つい先ほどCランクミッションをクリアしたばかりだった。いまは報酬を受け取るため、商会への転移を試みていた。
メニュー画面を開き、商会への転移ボタンを押そうとした瞬間だった。突然、背後から鋭い痛みが走った。首元に何かが喰らいつき、強烈な衝撃が全身を駆け抜ける。
何かが、噛みついている――!
彼はその“何か”を振り払おうと必死にもがいたが、その力は異常で、まるで鉄の爪で掴まれたかのようだった。相手の姿を確認できないまま、彼のHPは瞬く間に削られ、ゲームオーバーとなった。
彼は突然のことに戸惑いつつも、すぐにコンティニューして復活し、ロビーに転移した。襲撃の原因を突き止めようと、ログを確認した。しかし、そこには何の記録も残されていなかった。だが、さらに衝撃的だったのは――彼のすべてのデータ。装備、アイテム、進行状況、その一切が跡形もなく消去されていたことだった。何度ステータスを確認しても、結果は変わらず、彼は呆然と立ち尽くした。
これが、コンピューターウイルスによる最初の人的被害だった。
柴乃とイリスは難なくCランクミッションをクリアし、その後も順調にランクを上げていった。そして一時間後には、最初に挑戦する予定だった砂漠地帯のSランクミッション、サソリ怪獣と超巨大ムカデ怪獣の討伐に挑んでいた。
進む先々で襲いかかるサボテン怪獣や砂の中から突如現れる巨大な蟻地獄。それらを二人は見事な連携で突破し、次々と敵を撃破していった。二人の実力は圧倒的で、危機を感じることさえなかった。
二人は過酷な砂漠地帯の中間地点にあるオアシスで休憩していた。木の実を食べて体力を回復し、湧き水に足をつけてリラックスしながら休んでいると、別ミッションに挑戦中のグループが現れた。柴乃と同じくトップランカーが集まったグループで、顔見知りだった。
先頭を歩くのは大剣を担いだ屈強な剣士『ナブ』、その隣には射手『スイ』。後方には、長身の薙刀使いと、双剣使いが続き、最後には冷静な瞳を持つサポートAIが佇んでいた。
最初に声をかけてきたのは、ナブだった。
「おっ、そこにいるのは『大魔王様』と『スマートプリンセス』じゃないか! こんなところで会うなんて奇遇だな!」とナブは気さくに言った。
イリスは丁寧に一礼したが、柴乃は冷たい視線を向けた。彼女には、ナブに対する個人的な恨みがあった。
「そ、そんなに睨むなよ」とナブは声を震わせた。
「……」柴乃は冷たい目でナブを睨み続け、そのまま一言も発さなかった。
「悪かったって、いい加減許してくれよ。もう何度も謝ってるだろ」
ナブが声を上げるが、柴乃の鋭い視線がその言葉を凍りつかせた。
「謝って済むなら警察いらない」
柴乃は冷ややかに吐き捨てると、顔を背けた。
「お、おれもこんなことになるとは思わなかったんだよ! まさか、軽い冗談で言ったことが、異名として定着するなんて……!」ナブは言い訳みたく言った。
そう、柴乃の異名――『大魔王』のきっかけとなったあの発言をした犯人は、このナブだった。
柴乃は今でもあのときのことを思い出すと、怒りが湧いてくるほどだった。言われたのは三ヶ月ほど前になるが、まだ当分許すつもりもない。ナブにはしっかりと反省してもらおう、と思っていた。
「な、なあ……おれ、そんなに悪いことしたか?」ナブは他のメンバーに助けを求めた。
「うん、正直言って許されないレベルだね」とスイが淡々と告げる。
「右に同じ」と薙刀使いが重々しく頷き、「この罪は一生背負うべきだな」と双剣使いが真顔で呟いた。
「現在の状況を鑑みるに、ここで即座に土下座することを推奨します」とAIが冷静な声で結論を出した。
「お、お前たちまで……」ナブは反論する術もなく、口を閉ざし、申し訳なさそうな視線を柴乃に向けた。
ナブがその場に膝をつきかけたところで、柴乃はため息をついた。
「……そこまでしなくていい」
「えっ……そ、そうか……」
ナブは目に見えてホッとした表情を浮かべ、すぐに立ち上がった。
「ごめんね、ヴィオレちゃん。ナブくんのせいで……」とスイが代わりに謝った。
「スイちゃんが謝る必要なんてない。全部、こいつが原因なんだから!」
柴乃は鋭い視線をナブに向けた。
「そうだね。全部ナブくんが悪いね」
スイがそう言うと、他三名も頷いた。
ナブは仲間にまで完全に見放され、肩を落とした。
「そんなことより、汝たちは何のミッションなんだ?」と柴乃はスイに尋ねた。
「わたしたちは、スフィンクスの討伐と、砂漠の秘宝を見つけるミッションだよ」
「SSランクミッションか……さすがだな!」
SSランクミッションは、Sランクミッションを百回クリアした者だけが挑戦できる高難度のミッションだ。
スイたちは、最高位ボス・スフィンクスの討伐と、地下迷宮のどこかに眠る未発見の砂漠の秘宝の探索、両方を達成しなければならないという、高難易度ミッションに挑んでいた。
柴乃も、かつてイリスとともに、別のSSランクミッションに挑んだことがある。黒く光る硬い鱗、鋭い背びれ、地面を砕くほどの長い尻尾――その怪獣との死闘は、まさに命を削るような戦いだった。そのときは興奮しすぎて血圧が急上昇し、危険を察知したイリスにより、強制ログアウトさせられた。その悔しさを思い出しながら、柴乃は拳を握り締めた。
スイはそっと柴乃に身を寄せ、口元に手を添えながら囁いた。
「実はね、その砂漠の秘宝が、『光の巨人』を呼び出すアイテムなんじゃないかって噂があるの」
スイの声は、他のプレイヤーに聞かれないように低く抑えられていた。
「ほう……そんな噂があるのか。初耳だ」
スイは少し身を引き、柴乃と目を合わせながら続けた。
「だから、今日はみんなで集まって、それを確かめに行こうってなったんだ!」
その瞳は好奇心に満ちていた。
「まだ誰も会ったことないんだよ。会いたいよね!」
「そうだな」と柴乃は短く返した。
光の巨人――それは『怪獣狩り』の世界に語り継がれる幻の存在だった。その噂の出どころは誰も知らない。だが、このゲームを遊ぶ者なら、一度はその名を耳にしたことがある。ゲーム発売から現在に至るまで、まだ誰も目撃したことがない。にもかかわらず、「一千万分の一の確率でドロップするアイテムを得る」「SSミッションをノーダメージで千回クリアする」など、常軌を逸した条件の噂ばかりが飛び交っていた。公式もノーコメントを貫いているため、その存在は謎のままだ。
噂のおかげで一部の熱狂的なプレイヤーが盛り上がっているので、言わない方が得だと判断したのかもしれない。
「でも、本当にいるのかな?」とスイは首を傾げながら小声で呟いた。「ヴィオレちゃんはどう思う?」
「そうだな……正直、わからない。が、いてほしいとは思う。伝説がただの噂で終わるのはつまらないからな」
「そうだね」スイは笑顔を浮かべた。「……そういえば! ヴィオレちゃんは、何のミッションなの?」と思い出したように尋ねた。
柴乃は挑戦中のミッション内容を簡単に説明した。
それからしばらく、柴乃とスイはゲームの話題をメインに語り合った。
その間、ナブたちもそれぞれの準備を進めていた。
柴乃とスイが話している間も、イリスは遠くを見つめ、誰かと密かにやり取りをしているようだった。その表情には微かな緊張が見えたが、柴乃が視線を送ると、すぐに気づいて軽く頷き返してきた。
柴乃は、いつもと違うイリスの様子が少し気になっていたが、ミッションに集中することを優先し、深く考えなかった。
二人の会話が一段落ついたところで、柴乃はイリスに目を向けた。イリスが視線に気づき、軽く頷くと、柴乃はスイに視線を戻した。
「では、我はそろそろ出発する」
柴乃は立ち上がり、視線を下げ、スイを見つめた。
「久しぶりに話せて楽しかった。感謝する」
スイもすぐに立ち上がり、目線を合わせた。
「わたしもすっごく楽しかった。ミッション、頑張ってね!」
「ああ」
「また一緒に怪獣討伐しようね!」
「もちろんだ」
「約束だよ」
「約束だ」
スイが笑顔で小指を差し出すと、柴乃もわずかに口元を緩めながら応じた。二人はそっと小指を絡め、静かな誓いを立てた。
スイたちの温かい視線を背に、柴乃とイリスは静かにオアシスを後にした。
砂漠地帯には、どこまでも続く黄金の砂丘が広がり、目印となるものは一切存在しなかった。
二人は慎重にマップを確認しつつ、一歩一歩確実に進んだ。足元の砂は熱を帯びており、少し油断すると足を取られそうだった。途中、蛇やバオバブ怪獣などの中級ボスに襲われたり、急な悪天候に見舞われたりしたが、それらも着実に乗り越え、ついにボスの住処へと辿り着いた。目の前にそびえる巨大な岩の裂け目から、低くうねる怪物の咆哮が聞こえた。
砂嵐の中、柴乃の目が巨大なサソリ怪獣を捉えた。周囲の砂がその足元で渦を巻く中、柴乃は一瞬の判断で魔法を放った。炎の矢が砂塵を切り裂き、怪獣の背中に直撃した。だが、サソリ怪獣はわずかに後退しただけで、すぐさま反撃に転じた。その鋭い毒針が砂を切り裂きながら、柴乃目掛けて突進してくる。
イリスの情報によると、気をつけるべきところは毒針だった。
柴乃は距離を取って魔法攻撃を浴びせていたが、相性が悪くあまりダメージが入っていなかった――有効な攻撃は打属性である。しかし、それは承知の上だったので、柴乃は炎の矢、氷の槍、そして風の刃と、様々な属性の魔法を巧みに使い分けながら攻撃を続けた。見ている人たちを飽きないための演出だった。
HPが半分を切ると、突然サソリ怪獣が両手のハサミで地面を激しく叩き出した。サソリ怪獣が地面を叩きつけるたび、鈍い振動が柴乃の足元に響いた。
突如、地面が割れ、深い裂け目が生まれた。柴乃が身構える間もなく、その裂け目から巨大なムカデ怪獣が飛び出してきた。
ムカデの体が砂嵐の中で不気味にうねり、まるで地獄の底から這い出してきた悪夢そのもののようだった。その複数の赤い眼が柴乃を睨みつけた瞬間、背筋が凍るような咆哮が砂漠を揺るがした。
ムカデ怪獣は、頭と尻尾にそれぞれHPがあった。イリスの情報によると、尻尾を先に倒してもすぐに復活するため、意味がない。頭を集中して攻撃すると有効。電撃ボールを撃ってくることがあるため、注意が必要。さらに、電気魔法は一切通用しないという。
柴乃はイリスの指示をもとに、効果が高い火属性の魔法攻撃を放ち続けた。まずサソリ怪獣を片付け、次に巨大ムカデ怪獣のHPを着実に削り続けた。ムカデ怪獣のHPメーターが赤く点滅し始めたその瞬間、柴乃はとどめを刺す決意を固めた。
柴乃は空高く舞い上がり、そこからムカデ怪獣を見下ろした。瀕死の状態で動きが鈍っているため、今が絶好のチャンスだった。胸の前で杖を構え、そっと目を閉じ、詠唱を始めた。
「燃え盛る業火よ、滅びの旋律を響かせ、その焔の舞を激しく踊れ。不死鳥の魂よ、煉獄の炎を纏い、灰より蘇りし破壊の翼を天へと広げよ――」
詠唱を続ける柴乃の周囲で、空気が熱を帯び始めた。砂漠の風が炎に煽られるように渦を描き、柴乃の頭上に赤い光が集まり始める。最初は小さな火種だったそれは、瞬く間に大きな炎の塊となり、羽ばたく鳥の姿を形作っていく。羽根一枚一枚が燃え上がる業火でできており、その熱気は遠く離れた砂丘の影さえ揺らすほどだった。
柴乃は続ける。
「灼熱の怒りよ、我が魂と共鳴し、この世のすべてを灰燼と為せ!」
柴乃は目を見開いた。
「フェニックス・インフェルノ!」
そう叫びながら杖を振り下ろすと、不死鳥のような巨大な炎の鳥が、ムカデ怪獣に向かった。炎の鳥がムカデ怪獣の頭部に直撃した瞬間、爆発音が轟き、火の粉が四方に弾け飛んだ。その炎は怒涛の勢いでムカデ怪獣の全身を飲み込み、灼熱の熱波が周囲の砂をも焼き焦がす。
ムカデ怪獣は激しい咆哮を上げながらのたうち回ったが、その巨体は徐々に黒い灰となり、最後には崩れ落ちるように跡形もなく消え去った。
砂漠には静寂だけが残り、わずかに焦げた砂の匂いが漂っていた。
「任務完了」と柴乃は小さく呟いた。
いつもならここでイリスが、「お疲れ様です、ヴィオレ様」と労いの言葉をかけてくるはずなのだが、今回はそれがなかった。柴乃がイリスに目を向けると、彼女は遠くの地平線をじっと見つめていた。眉間に深いシワを寄せ、その瞳には、いつもの冷静さとは異なる、不安げな光が宿っていた。何かに動揺しているのは明らかだった。
「イリス、何かあったのか?」と柴乃は声をかけた。
イリスは一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。
「……いえ、少し考え事をしていただけです」
イリスの声は普段より硬く、どこか感情が遮断されているように感じられた。だが、一拍置くと、いつもの調子で「お疲れ様でした、ヴィオレ様」と声をかけた。
イリスはボス戦の最中もどこか心ここにあらずで、時折深い考え事に没頭しているようだった。それでもサポートは的確で、ミッションも無事クリアしたので、指摘するほどでもない、と柴乃は判断した。
ミッションをクリアし、ドロップアイテムを回収すると、柴乃はメニュー画面を開き、ロビーに転移した。
ロビーに着くと、いつもの活気に満ちた雰囲気は影を潜め、プレイヤーたちの怒号が飛び交い、空気は緊迫していた。中心には運営担当のAIアバターが立ち、それを取り囲むように数十人のプレイヤーが詰め寄っていた。
「どうなってるんだ! ゲームオーバーでデータが全部消えたぞ!」
「おれもだ!」
「これってバグじゃないのか!?」
次々に怒りの声が飛び、AIアバターは冷静を装いながらも、機械的に答えていた。
「ただいま原因を調べておりますので、もうしばらくお待ちください」
だが、その声は不安と怒りに満ちたプレイヤーたちの怒号にかき消されてしまっていた。そのせいで、プレイヤーたちは一向に落ち着く気配がない。その混乱を、他のプレイヤーたちは遠巻きに見守るしかなかった。
その光景を見たイリスは、目を大きく見開き、肩がわずかに震え、明らかに動揺していた。
「イリス、大丈夫か?」
柴乃がすかさず声をかけると、イリスはハッと我に返り、ゆっくりと目を向けた。その瞳には、覚悟を決めた鋭さが滲んでいた。
「ごめん、柴乃ちゃん……急ぎの用ができたから、ちょっと外すね」
真剣な表情でそう言うと、柴乃が返答する間もなく、イリスはどこかへ転移し、ロビーを後にした。
あんなイリスを見たのは初めてだった。イリスがゲーム中にもかかわらず、柴乃のことを「ヴィオレ」ではなく「柴乃ちゃん」と呼んだのは、それだけ動揺していた証拠だ。
イリスがいなくなったため、柴乃は自分で情報を集めることにした。周囲を見渡すと、ロビーの片隅に腰を下ろすスイ姿が視界に入った。どうやら、柴乃よりも早くミッションをクリアしていたようだ。
スイの表情にはいつもの無邪気な笑顔がなく、代わりに戸惑いと不安が浮かんでいた。
柴乃はスイに歩み寄り、声をかけた。
「スイちゃん、一体何があったんだ?」
「ヴィオレちゃん! わたしもよくわからないんだけど、みんな謎の怪獣に襲われたって言ってるみたい」
「謎の怪獣……?」
「うん……その怪獣に突然襲われて、ゲームオーバーになった人たちが、コンティニューしたら……すべてのデータが消えてたみたいなの」
「データが……消えた?」
柴乃は思わず息をのみ、スイは静かに頷いた。
柴乃はスイの話と、周囲から聞こえるプレイヤーたちの声を整理しながら、徐々に状況を把握していった。
ロビーの前に集まるプレイヤーたちは、何かしらの原因でゲームデータが消えてしまったことを運営に訴えていた。しかし、運営側は原因がまだわからず、調査中のため、「しばらくお待ちください」としか答えることができない様子だった。
柴乃はプレイヤーたちに共感した。
原因がどうであれ、ずっと続けてきたゲームデータが突然消えたら、誰でも戸惑うだろう。もし自分のデータが消えていたら、きっと取り乱していただろう。いや、それだけでは済まなかったかもしれない。
柴乃はふと、発狂してゲーム会社に乗り込む自分の姿を思い浮かべた。ゲーム会社の受付で椅子を投げ、パソコンを叩き壊す自分の姿が脳裏をよぎり、思わず苦笑が漏れた。意外とあり得そうだったので、自分が被害に遭わなかったことに柴乃は安堵した。
だが、原因が不明というのがどうにも引っかかる。単なるバグなら運営もすぐに発表するはずだし、ドッキリのような仕掛けでもなさそうだ……となると、これは――陰で何か巨大な組織が動き出している前触れなのかもしれない。
「これって、まさか……悪の組織の陰謀か?」
柴乃は思わず口元をほころばせた。胸の奥で、好奇心の火花が静かに燃え上がっていく。何かが起ころうとしている――その確信が柴乃の中で膨らんでいった。
これは――絶対に面白くなる。
柴乃の直感が、静かに確信を告げていた。
柴乃はさらに情報を得るため、スイの目を真っすぐに見据え、質問をぶつけた。
「スイちゃん、さっき言ってた謎の怪獣って、どんな姿なんだ?」
スイは困ったように眉を寄せた。
「それが、誰もはっきりと見てないんだって……」
「映像データがあるだろ?」
「それも全部消えてるらしいの。まるで、初めから何も記録されてなかったみたいに……」
映像データがないなんて、おかしい。通常、ゲーム内の出来事はすべて記録される仕組みのはずだ。となると、誰かが意図的に消した可能性がある。だが、そんなことができるのは運営側くらいだ。いや、それとも運営の内部に協力者――まさか、スパイが……? もしそうなら、これは単なるゲームのトラブルではない。何か大きな陰謀が動き出そうとしているのかもしれない……。
柴乃の思考は、次々と仮説を立てながら広がっていった。
しばらく迷推理をしていると、女性プレイヤーの声が、ロビーの喧騒を貫くように響いた。
「あたし、灰色のヤギみたいな怪獣に襲われたの!」
「灰色のヤギ……?」柴乃は思わず耳を澄また。
その発言を皮切りに、周囲からも「おれもそんなやつを見た気がする」「わたしも……小さなヤギの怪獣がいたかも」と、曖昧ながらも一致する証言が次々に飛び交った。思い込みが混ざっている可能性もあったが、柴乃は少し気になっていた。
ん? なんだ……? 今、何か重要なことを思い出しそうな……。
柴乃は腕を組んで考え込んだ。
「灰色のヤギ……小さなヤギ……」
柴乃はその言葉を繰り返すうちに、一つの記憶が呼び起こされた――数時間前、子ヤギの怪獣に襲われた瞬間のことだ。その瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
「まさか、あれが……!」柴乃の目が見開かれた。
柴乃はすぐさまメニュー画面を開き、過去の映像データをチェックした。だが、期待していた記録の部分だけがぽっかりと消えていた。あたかも、その瞬間だけを誰かが狙って消したかのように……。
「何てことだ……!」柴乃は拳を握りしめた。
我も、謎の怪獣に襲われていたではないか……! あいつが犯人だったのか。クッ、気づかないで普通に倒してしまった。知っていたら捕縛していたのに……。
知らずに倒してしまったことへの悔しさがこみ上げる。しかし、柴乃は深く息を吸い、冷静さを取り戻すように軽く頭を振った。
たしか、我が襲われたのはCランクエリアだったな。
柴乃は三度スイに尋ねた。
「スイちゃん、被害に遭ったプレイヤーはどこで襲われたんだ?」
「それがね、場所はバラバラみたいなの」
「エリアは? 何ランクの人が襲われたんだ?」
「襲われたのは、ほとんどがCランクとBランクのプレイヤーだ」
不意にナブが割って入った。
「場所もCランクエリアかBランクエリア。狙われたのは、みんなソロで行動してたときだったらしい。卑怯なやつめ」ナブは悔しそうに歯を噛みしめた。
「やはりそうか……」
柴乃が納得したように呟くと、ナブが問いかけた。
「ん? 何か知っているのか?」
「ああ……実は我も、さっきその怪獣に襲われていた」
スイとナブは一瞬、ぽかんと口を開けて硬直した。だが次の瞬間、「えぇぇぇぇ!?」と声を揃えて叫んだ。
スイは柴乃の両肩を掴み、心配そうに声を上げた。
「大丈夫だったの?」
「ああ、返り討ちにした」
柴乃が親指を立てると、ナブは目を丸くしながら、「さすがだな」と呟いた。
「そのとき、イリスが運営に報告したはずだが、上手く伝わらなかったのか?」柴乃は首を傾げた。
「どうなんだろう? 運営側は現在調査中としか答えないし、まだ詳しい状況がわからないみたいだね……」スイは不安な表情を浮かべた。
「お前、いつ襲われたんだ?」とナブが冷静に尋ねた。
柴乃は改めて、自分のデータ記録を確認した。
午前七時から八時半まで、およそ一時間半分の映像データが消えていた。
それを見ながら、柴乃は自信なさげに答えた。
「正確には覚えてないが、たしか……七時くらいだったはずだ」
「そうか……実は最初の被害者も、七時ごろに襲われたと言っているらしい」
ナブは顎に手を当てて考え込んだ。
「どうやら、あの怪獣は一体じゃなく、複数体で同時に動いているようだ。被害はまだ広がるだろう……一刻も早く、手を打たねぇと」
そのとき、ひとりの男性アバターがロビーに転移してきた。
彼は転移直後から、慌ただしくステータス画面を操作していた。突然、彼の顔が青ざめ、大きな声で「な、なんだこれ!?」と叫んだ。その声はロビー全体に響き渡り、柴乃たちは自然と視線を向けた。彼はステータス画面を凝視し、手を震わせていた。
ナブがいち早く彼に駆け寄り、事情を尋ねた。
「どうしたんだ?」
「お、おれのデータが……全部……消えてる!」彼は絶望した表情を浮かべた。
「あんた、ランクは?」
「え、Aランクだ……」
ついにAランクの被害者が出たことに、柴乃たちは衝撃を受けた。さらに、彼の話を聞いていると、新たな情報を得られた。
「場所は、Aランクエリアだ。……襲ってきたのは、ヤギ頭の人型怪獣だった」
彼は言葉を詰まらせつつ、ヤギ頭の人型怪獣の特徴を断片的に語った。だが、その怪獣は怪獣図鑑に記載されていない未知の存在だったという。
彼は突然背後から襲われ、戸惑いつつも必死に抵抗したが、敵わずにゲームオーバーとなった。ロビーに戻り、ステータスを確認したときには、すでにすべてのデータが消えていたという。
「ついにAランクプレイヤーまで……」ナブの声には、驚きと怒りが滲んでいた。
「ヤギ頭の人型怪獣……? それって、あのヤギの怪獣が進化した姿……?」とスイが疑問を口にした。
「おそらくな」とナブが返した。
「その怪獣に負けると、どうしてデータが消えるの?」
「わからない……ただ、一つはっきり言えるのは……これが、完全に異常事態だということだ」
ナブは運営の対応を見て、そう確信していた。
「こうしているうちにも、襲われている人がいるはずだ。我は助けに行く!」
柴乃は高らかとそう宣言した。
「わたしも行く!」とスイが即座に応じ、ナブも頷いた。
柴乃たちがロビーから転移しようとしたその瞬間、オーロラ色の髪のメイドが静かに歩み寄ってきた。立ち振る舞いはAIのようだったが、ロビー前で被害者対応をしていたAIたちとは明らかに違う、どこか格の違う雰囲気を纏っていた。
「ナブ様、スイ様、そして、ヴィオレ様。お願いしたいことがございます。わたしについて来ていただけませんか?」とメイドは言った。
柴乃たちは目を見開き、互いの顔を見つめ合った。メイドが何をお願いしようとしているのか、みなそれぞれに察しているようだったが、その瞳には、一抹の不安と好奇心が混じっていた。全員無言で頷きを交わし、メイドについて行くことを決めた。
柴乃たちはロビーを出て、廊下を少し歩いた先の部屋に案内された。
メイドに続いて部屋の中に足を踏み入れると、広大な空間が広がり、Sランクプレイヤーが百人以上集められていた。中には、名を馳せる手練れの戦士たちの姿や、昇格したばかりのSランクプレイヤーの姿もあった。肩をすくめて緊張を隠しきれない者もいれば、静かに状況を見定めるように目を光らせる者もいた。その場の空気は、他のランクでは決して味わえない、張り詰めた緊張感に満ちていた。さすがSランクということもあり、皆なんとなく状況を察しているようだった。
しばらくして、メイドが正面の台に上った。
「お集まりいただき感謝します」
メイドは、機械のように正確でありながら、人間らしさも滲ませる所作で、華奢な体を折りたたむように深々と頭を下げた。顔を上げると、オーロラ色の髪が光を反射し、部屋の空気が一層張り詰めるようだった。
「これから皆さんには、特別ミッションを依頼します。今までで最も過酷なミッションになるため、参加するかどうか、しっかりとお考えください」
Sランクプレイヤーたちは、それぞれに異なる反応を見せた。挑戦を楽しむかのように薄く笑う者、額に汗を浮かべて不安げに沈思する者、腕を組み状況を冷静に見極めようとする者、そして、事態の深刻さに気づいていないのか、能天気な笑みを浮かべる者までいた。その中で、柴乃は目を輝かせながら、心の中で静かに呟いた――面白くなってきた、と。
メイドは説明を続けた。
「では、ルールを説明します。現在、各エリアには、図鑑に未記載の怪獣が次々と出没しています。その背後には、ヤギ頭の人型怪獣『ルシファー』が潜んでいるのです。ルシファーは、これまで確認された怪獣とは一線を画す存在です。極めて高度な知能を持ち、緻密な計画を立ててプレイヤーを襲撃します。奪われたデータは彼らの進化の糧となり、その力はさらに増していくのです。さらに、負けてしまうと、今までの個人データがすべて消えてしまいます」
その発言の瞬間、部屋の中がざわついた。しかし、メイドは淡々と続ける。
「ルシファー及びその配下の怪獣には、HP表示が一切ありません。そのため、攻撃がどの程度効果を発揮しているのかも不明です。さらに、一部の報告によれば、通常の攻撃ではまったくダメージを与えられない場合もあるとのことです」
ここで一度間を置き、息を吸った。再びキリっとした目つきで前を見ると、はっきりとした口調で言った。
「皆さんには、ルシファー及びその配下怪獣の討伐を依頼します。すべての怪獣を倒すとミッションクリアとなり、生き残ったプレイヤー全員に報酬が与えられます。なので、協力して討伐することをお勧めします」
一呼吸置き、真剣な表情で言い添えた。
「とてもリスクが高いミッションです。よく考えてから決めていただきたいのですが、こちらの都合であまり時間がありません。今から三分以内にご決断してください」
メイドは深々とお辞儀をして頼んだ。
しばらくすると、ゆっくりと頭を上げ、最後に補足した。
「なお、参加される方はこの場に残ってください。不参加の方は、速やかにログアウトをお願いします」
部屋の空気は一瞬で重たくなり、沈黙が広がった。決断を迫られる焦燥感が、Sランクプレイヤーたちを無言の緊張で包み込んでいた。
「クリア報酬は何だ?」
部屋の一角から、低く響く声が飛んだ。声の主は、巨漢の戦士だった。彼は腕を組んだまま、鋭い眼光でメイドを睨みつけた。
メイドは冷静に答えた。
「報酬内容は現在調整中ですが、運営が提供できる最高のものをお約束します」
その曖昧な答えに、戦士はわずかに眉をひそめたが、それ以上追及しなかった。
「データが奪われてしまったら、もう元には戻らないの?」と美しい蝶の羽を持つ小柄な少女が尋ねた。
「はい」とメイドは頷いた。
「参加しない場合、どうしてログアウトしなければならないんだ? 他のミッションに行ったらダメなのか?」と槍使いが問いかけた。
「他のミッションは現在メンテナンス中で、今はこのミッションしか受け付けておりません。また、ミッションが始まると、この部屋とロビーもメンテナンスしますので、ログアウトしていただく必要があるのです」とメイドは淡々と答えた。
しばしの沈黙が流れた。この間、数名のプレイヤーが不参加を選択し、静かにログアウトをした。リスクが高いと判断したようだ。
「どうして、ルシファーたちのHPは非表示で固定なんだ? 本来、このゲームは、HP表示をするかしないか、プレイヤー側が選べる仕様だっただろ?」と眼鏡の少年が冷静に尋ねた。
「それについては――」とメイドが言いかけた、その瞬間――。
「クックック、くだらない質問ばかりだな!」
突然、低く不敵な柴乃の笑い声が部屋に響き渡った。
柴乃が一歩前に進み出ると、Sランクプレイヤーたちは驚きと警戒の入り混じった視線を彼女に注いだ。
「そんなこと、どうでもいいではないか!」と柴乃は言い放った。
鋭い目つきの者や、目を丸くして驚いている者たちが見守る中、柴乃はさらに続けた。
「トッププレイヤーなら余計なことは考えず、ただ高みを目指すのみ……。リスクが高い? クフフ、くだらん! そんなことは、弱いやつの言い訳だ。挑む価値のある戦いかどうか、ただそれだけだ! 我は、参加する!」
柴乃はまるで刺激に飢えた獣のように、久しぶりの高難易度ミッションに興奮していた。その姿は、まさしく『大魔王』という異名にふさわしい威容を放っていた。
クックック……これは我を退屈させないために用意されたミッションに違いない。運営め、ついにやりおったな!
柴乃は目を輝かせながら、心の中で歓喜の声を上げた。
……とはいえ、不意打ちでデータを奪うのはやりすぎだ。刺激が強すぎて、心臓に悪いではないか! まあ、クリアすればもとに戻るのは確実だろうが、あとで運営に抗議文を送るべきだな。
柴乃は今回の騒動を、ゲーム会社のサプライズだと思い込んでいた。
クフフ……みなを救ってヒーローとなるのは、この我だ! そうなれば、『大魔王』から『救世の女神』へと異名を変え、称賛の嵐に包まれるはずだ!
頭の中では、巨大なステージの上に立つ自分が浮かんだ。大歓声が会場を揺らし、プレイヤーたちが涙を流しながら柴乃の名を叫ぶ。
「救世主!」
「ヴィオレ様、ありがとう!」
そんな声援を浴びながら、柴乃は優雅に微笑み、片手を軽く振る。
「皆の感謝、確かに受け取ったぞ」と、堂々たる声で言い放つと、さらに歓声が高まる。無数のスポットライトが柴乃を照らし、輝くステージの中央で、柴乃は高らかに笑った――まさに『女神』そのものだった。
妄想が膨らみ、気分が最高潮に達した柴乃は、ご機嫌な蝶になって、きらめく風に乗って、今すぐキミ(ルシファー)に会いに行きたい気分だった。
柴乃の言葉に触発され、他のSランクプレイヤーたちの表情も次第に引き締まり、重かった空気が一気に払拭され始めた。Sランクプレイヤーのゲーマー魂を刺激したようだった。スイやナブも参加する気満々で、迷っていたプレイヤーたちも参加してみようという気持ちに傾き始めていた。
部屋の中全体が、徐々に熱気を帯び、歓声とざわめきが高まる中、ドアが静かに開き、新たなSランクプレイヤーが六人現れた。全身から溢れる覇気と無駄のない洗練された動き――柴乃は直感的に悟った。彼らはただの強者ではない。圧倒的な自信と経験を携えた、本物の戦士たちだと。
六人のうち五人は、ドイツ語数字――アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフという名前で、残り一人は『ドレ』という金髪の魔法使いだった。
彼らもミッションに参加する気満々で、その瞳には「必ずルシファーを倒してやる!」という熱い闘志が宿っていた。
ドレを見た瞬間、柴乃は彼女のことが気になり、見つめ続けた。いつも好意的なコメントを送ってくれる人物と同じ名前だったからだ。もし同一人物なら、一言お礼を言いたいと柴乃は思った。しかし、偶然同じ名前の別人という可能性もあるため、声をかけられないでいた。
どうする……? もし我から声をかけて、別人だったら……恥ずかしすぎるではないか! いや、それ以上に、「調子に乗ってる」って思われる可能性もある。それは絶対に嫌だ! それに、もし本物なら、向こうから声をかけてくるはずだ……。いや、緊張して声をかけられないかもしれない。クッ……! この場での最適解は何だ!? 我のカリスマ性を保ちつつ、自然に確認する方法は……?
柴乃が頭を抱えて悩んでいると、イリスが転移で部屋に戻ってきた。
「おお、イリス、戻ってきたか……! いいタイミングだ。今から突発ミッションに――」
「ヴィオレ様……お伺いしたいことがございます」
イリスは真剣な表情で柴乃の言葉を遮った。その瞳には、まるで何か重大な決断を迫られているような気配が漂っていた。
柴乃は思わず息をのんだ。
(……何だ、このイリスから放たれる異様な威圧感は……?)
心の中で動揺しつつも、柴乃は自分の平静を装った。
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