十六歳の誕生日
十六歳の誕生日を迎えた朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には、まだ朝の淡い靄が残っていた。初夏の庭は夜露に濡れ、白や淡桃色の薔薇が重たそうに花を垂らしている。東の空から差し始めた光が、その向こうに広がる木々の葉を一枚ずつ浮かび上がらせていた。
誕生日だからといって、屋敷の朝が特別なものになるわけではない。使用人たちはいつも通り静かに働き、厨房からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。廊下を行き交う足音も、食器を運ぶ小さな物音も、普段と変わらない。
それでも、私にとっては特別な朝だった。
十六歳。
去年、十五歳になったときに私は社交界へ正式にデビューした。それまでも家同士の付き合いで夜会や晩餐会に顔を出すことはあったけれど、あの日を境に、周囲の人々が私を見る目は少し変わったように思う。
もう子供ではないのだ、と。
公爵家の一人娘である私には、いずれ家のために果たさなければならない役割がある。その最も大きなものが結婚だということも、もちろん分かっている。母のもとへ届く手紙の数が、十五歳を過ぎた頃から目に見えて増えたことも、その中身に「縁談」という言葉が混じるようになったことも、私は知っていた。
けれど今朝、私の頭にあるのはそんなことではなかった。
鏡の前に立ち、侍女に整えてもらった髪を眺めながら、私は今日これからすることを考えていた。
淡い桃色の髪は、朝の光の下では白に近く見える。肩から背中へ流れる髪の先だけは、生まれつき水色に染まっていて、瞳も薄紫に青を溶かしたような珍しい色をしているらしい。幼い頃から、妖精のようだとか、春の精霊みたいだとか、ずいぶん好き勝手なことを言われてきた。母は私の容姿を社交界での武器だと言い、父はそんなことより本人が元気ならそれでいいと笑う。
私は父の考え方の方が好きだった。
ただ、今日ばかりは、その容姿も少しくらい役に立ってほしいと思っている。
なにしろ、今日は年に一度の大事な日なのだから。
私は寝室を出ると、いつものように一人で廊下を歩いた。向かう先は決まっている。朝食の前に、どうしても会っておきたい人がいるのだ。
長い廊下の突き当たりにある執務室の扉を開けると、案の定、アルヴィンはそこにいた。
窓際の机に向かい、父から預かったらしい書類を整理している。黒と白の執事服はすっかり彼の身体に馴染んでいて、十八歳という年齢よりもずっと落ち着いて見えた。焦茶色の髪はきちんと整えられ、その下にある同じ色の瞳は、朝の光を受けても派手さのない穏やかな色をしている。
顔立ちだけを見れば、かなり整っていると思う。
鼻筋はすっと通っているし、目元も綺麗だ。横顔なんて、私は昔から好きだった。けれど、不思議なことに人目を引く顔ではない。髪も瞳も暗い色で、本人も目立とうとする性格ではないから、華やかな貴族たちの中に混じれば、おそらく誰も彼を気に留めないだろう。
私には、それが少し不思議だった。
こんなに格好いいのに。
「おはよう、アルヴィン」
声をかけると、彼はすぐに顔を上げた。「おはようございます、お嬢様。それから、お誕生日おめでとうございます」と、いつもと変わらない落ち着いた声音で言う。その言葉に私は礼を言いながら、彼の机のそばまで歩いていった。
「ありがとう。覚えていたのね」
「忘れる理由がございませんので」
「でも、去年も一昨年も覚えていたでしょう?」
「当然です。お嬢様が何月何日にお生まれになったかくらい、把握しております」
そう言って、アルヴィンは何でもないことのように書類へ視線を戻した。
私はその横顔をしばらく眺めた。
この男は、昔からこういうところがある。
私が十歳の頃、アルヴィンは執事見習いとしてこの屋敷へやってきた。当時はまだ子供同士と言っていい年頃だったから、彼も今ほど礼儀正しくはなかった。敬語は怪しいし、私が何か命令すれば「嫌です」と平然と言う。仕事を手伝わせようとすれば、逆に「お嬢様もご自分でなさったらどうですか」などと生意気なことまで言っていた。
それが今では、父の仕事を任されるほどになっている。
人間というのは、六年もあれば変わるものだ。
……私の方は、あまり変わっていないかもしれないけれど。
「何をしているの?」
「旦那様からお預かりした書類の整理です。昨日の分が少し残っておりまして」
「誕生日なのに?」
「私の誕生日ではございませんから」
「そういうところがつまらないのよ」
私が言うと、アルヴィンはほんの少し口元を緩めた。「申し訳ございません」と言いながら、まるで反省していない顔をしている。
私は机の上の書類を覗き込んだ。細かな数字が並んでいるけれど、何について書かれているのかさっぱり分からない。アルヴィンはこういうものを読むのが得意だった。数字の計算も、魔術に関する難しい書物も、私なら何日かけても理解できないような内容を、彼は驚くほど早く読み解いてしまう。
そういうところも、昔から変わらない。
ただ、昔はその賢さを本人が自覚していなかった。
「ねえ、アルヴィン」
「はい」
「今日くらい、仕事をしないで私といてくれてもいいんじゃない?」
「旦那様に叱られてしまいます」
「私が頼んだと言えばいいでしょう?」
「旦那様は私よりお嬢様を叱ると思います」
「……それは困るわね」
「でしょう?」
淡々と答えながら、アルヴィンが笑った。
私はその顔を見るのが好きだった。
だから、毎日のように言っている。
「好きよ、アルヴィン」
「ありがとうございます」
これもいつもの返事だった。
私が彼に好きだと言うのは、もう特別なことではない。朝の挨拶のついでに言うこともあるし、食事の前に言うこともある。アルヴィンも最初の頃こそ少し困った顔をしていたけれど、最近ではすっかり慣れてしまったらしい。
けれど、「結婚して」と言うのは今日だけだ。
これは私の中で、誕生日の恒例行事になっていた。
だから私は、少しだけ姿勢を正した。
「……ところで、アルヴィン」
「はい」
「今日が何の日か、さっき言ったわよね」
「お嬢様の十六歳のお誕生日です」
「そう。十六歳よ」
「はい」
「去年は十五歳だったけれど、今年は十六歳」
「それは存じております」
「十六歳になったのだから、去年までとは違うと思わない?」
アルヴィンは書類を整理する手を止め、私を見る。その表情には、ほんの少しだけ警戒するような色が浮かんでいた。
どうやら察したらしい。
「……お嬢様」
「何?」
「今年も、でしょうか」
私は満面の笑みを浮かべた。
「もちろん」
アルヴィンは小さく息を吐いた。呆れているのか、それとも諦めているのか、そのどちらとも取れる顔だった。
「では、どうぞ」
「ええ。では遠慮なく」
私は彼の目をまっすぐ見つめた。
「アルヴィン。私と結婚して」
言った。
これで六回目――ではない。私がこの言葉を口にするようになったのは、もう少し後だったから、これは、今年で二度目だ。
去年も同じことを言った。
そして、今年も同じ答えが返ってくることは、半分くらい分かっていた。
それでも、誕生日くらいは期待してしまう。
アルヴィンはしばらく黙っていた。焦茶色の瞳が私を見つめ、それからほんの少しだけ視線を逸らす。
私は息を詰めて、その答えを待った。
「……お断りいたします」
やっぱり。
「どうして?」
「去年も申し上げましたが、お嬢様はまだお若いですから」
「私はもう十六歳よ」
「はい」
「子供ではないわ」
「存じております」
「じゃあ、どうして?」
思わず身を乗り出すと、アルヴィンは困ったように眉を下げた。
「なぜ、そんなに結婚を急がれるのですか」
「急いでいるわけではないわ」
「では、なぜその話をなさるのでしょう」
「決まっているでしょう?」
私は少しだけ胸を張った。
「誕生日だからよ」
アルヴィンは黙って私を見る。
「一年に一度くらい、あなたが私と結婚する気になったか確認したっていいでしょう?」
「……確認されるたびに、お断りすることになりますが」
「分かってるわ」
「でしたら――」
「でも、いつか変わるかもしれないじゃない」
そう言うと、アルヴィンは何も答えなかった。
その沈黙が少しだけ気になったけれど、私は深く考えなかった。きっと来年も、再来年も、私は同じことを聞く。そしてアルヴィンは困った顔をしながら断るのだろう。
それでも構わない。
私が十六歳で、彼が十八歳。
まだ時間はいくらでもある。
私には、そう思えていた。
この先もずっと、アルヴィンは私のそばにいるのだと。
誕生日が来るたびに私は「結婚して」と言い、彼は「まだ早い」と答える。そのやり取りを、何年でも繰り返していけるのだと。
だから、この日の私は知らなかった。
数年後、私が本当に結婚を考えなければならない年齢になったとき、アルヴィンが私の前からいなくなることを。
何の相談もなく仕事を辞めて、私の手の届かないところへ行ってしまうことを。
そして私は、その日から初めて知ることになる。
自分が思っていたよりずっと、彼のことを何も知らなかったのだということを。
グイグイ系お嬢様とやれやれ系執事です




