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嘘つきは水曜日にやってくる  作者: 白川


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第21話 契約の終わり

 校舎裏は静かだった。

 卒業式の喧騒は校庭のほうから薄く風に乗って届くだけだった。自販機の青白い光はいつもと変わらない明るさでそこにあった。

 ベンチもいつものベンチだった。座面の塗装が剥げて「3-1」の落書きがある。今日、そのベンチに誰も座っていなかった。


 透が先に着いた。

 到着してベンチに向かう前に、いつもの癖で自販機の前で止まった。微糖の缶コーヒー……と指が動きかけて止まった。

 今日はいらない。たぶんもういらない。

 透は缶を買わずにベンチへ歩いて座った。座面がいつもより少しだけ温かい気がした。それが気のせいだとしても、温かいと感じたのは、本当だった。

 しばらくして茉莉が来た。

 卒業証書の入った筒を左手に持っていた。コートは着ていなかった。もうコートなしでも歩けるくらいには温かくなっていた。

 茉莉も自販機の前でほんの一瞬止まったが、何も買わずにベンチへ歩いてきた。

 茉莉はベンチの、透の隣に座った。

 ……いつもより近かった。こぶし一つ分とかの距離ではなかった。肩と肩が触れ合うような、ギリギリ触れそうな距離だった。

 二人ともしばらく何も言わなかった。


 風が吹いた。桜の枝が揺れた。

 ベンチの足元に、誰かが落としていったらしい、卒業式のしおりの紙片が一枚転がっていた。風でそれがちょっと動いて、また止まった。透はその紙片をしばらく見ていた。茉莉もたぶん見ていた。

 透は口の中が乾いていることに気がついた。

 乾きを、唾を呑んでなんとか湿らせた。

 透は言った。

「桐谷」

「うん」

「契約、終わりにしよう」

 声がわずかに震えた。寒さで揺れたのではなかった。校舎裏はもう、声がかすれるほどには寒くなかった。

 茉莉はそれを聞いて、すこし目を伏せて、それから顔を上げた。

 顔を上げて透を見た。視線がまっすぐだった。教室モードの桐谷茉莉のまっすぐさではなく、ここでだけ見せる、本物の茉莉のまっすぐさだった。

「うん」

 茉莉はそれだけ言った。

 数秒、二人ともまた黙った。

 黙っているあいだ、透は自分の喉のあたりが乾いてきていることを感じていた。


 茉莉が言った。

「もう、嘘は、つかなくていいよね?」

 その声は震えていなかった。いつもよりほんの少しだけ低かった。

 丁寧で、まっすぐだった。

 そんな声を聞くのは、初めてだった気がする。何度も似た響きを聞いてきたはずなのに、今日のそれは初めてだった。

 透はその音を聞いて、すぐには返事ができなかった。

 そのあいだ、茉莉は透を見つめていた。

 一秒、目が合った。

 二秒、目が合った。

 三秒、まだ目が合っていた。

 茉莉は目を逸らさなかった。茉莉が透の目をこんなに長く見たのは、たぶん初めてだった。校舎裏で何度も向き合ってきた茉莉だったけれど、目を、こんなに長く、しっかり、合わせてくる茉莉は初めてだった。

 透は自分の右手が膝の上で軽く震えていることに気がついた。

 震える右手を、透は膝から上げて、茉莉のほうへ伸ばした。

 茉莉の左手は自身の膝の上で握られていた。透の右手はその茉莉の左手の上にゆっくりと重ねた。

 瞬間、茉莉の手が一瞬震えた。それからゆっくりと動いた。

 茉莉の左手の指が、透の右手の指の隙間に、ひとつずつ入っていった。茉莉の手は思っていたよりも冷たくなかったし、思っていたよりも小さかった。

 茉莉はしっかりと、透の手を握り返した。

 二人は何も言わなかった。

 ただ手を握っていた。

 透は指を動かし、茉莉の手の平に自分の親指で軽く触れた。皮膚の薄さを、指の腹で感じた。

 茉莉が息を吐いた。息はもう白くなかった。

 三月の風がまた吹いた。

 桜の蕾はまだ開いていなかったけれど、もう開く準備はできていた。

 うちの桜は、いつも卒業式が終わってから一週間くらいで咲く──と誰かが言っていた気がする。

 それをいつ、誰から聞いたか、透はもう思い出せなかった。けれど桜はたぶんそのとおりに咲くのだろう。


 しばらくして茉莉が言った。

「もう、嘘、つかない」

「うん」

 透は答えた。

 答えてからもう一度答えた。

「……うん。俺も」

 茉莉は口の端で軽く笑った。

「うん」

 笑った口の端がほんの一瞬だけ震えた。震えてからまたまっすぐに戻った。

 茉莉はもう泣いていなかった。流すものは十二月にぜんぶ出しきった。あの校舎裏で透の前で初めて目を濡らしたあの日と違って、もう涙になるものがもうなかった。

 

 透は茉莉のその顔を見て、別の何かを自分の中に感じた。それが何かを見ようとして、すぐには見えなかった。けれどそれが何かは、もう自分で知っていた。

 茉莉が好きだ。

 たぶんもっと前から好きだった。

 いつから、と訊かれたら答えられない。

 九月の校舎裏で最初に茉莉に出会って互いの演技を見抜き合った、あの瞬間からだ、と言えば、たぶん嘘になる。あの瞬間はまだ好きではなかった。

 契約の日、乾杯のような仕草をしたあの日からだ、と言えば、それもたぶん違う。あの日もまだ好きではなかった。好きの種すらまだなかった。

 茉莉の指先の癖に気づいた日からだ、と言えば、近いかもしれなかった。けれどまだ好きではなかった。でも、気になり始めたのはあの時だ。

 茉莉が透の前で初めて泣いた日からだ、と言えば、そうかもしれなかった。好きの始まりだったと思う。

 一月、雪の校舎裏で「次の週も来る?」「来る」と確認したあの日からだ、と言えば、もっと近いかもしれなかった。あの夜、家に帰って布団に入る瞬間、自分の胸に何か温かいものが残っていた。もう、この時には茉莉が好きだった。

 願書のことで父と対話したあと、この頃にはもう認めるしかなかった。あのとき、自分は明らかに茉莉が好きだった。

 そして今日、茉莉の手を握り返している今、自分は茉莉が好きだった。

 いつから?と聞かれたら「ずっと前から」と言うくらいには。

 言わなくても、たぶん茉莉には伝わっていた。茉莉も感じたことを透に言葉で言わなかった。言わなくても、透には伝わっていると分かっていたから。


 二人はただ手を握っていた。

 握っているあいだ、茉莉がゆっくりと透のほうへ肩を傾けた。透の肩に茉莉の肩が触れた。茉莉の頭が透の肩の少し下のあたりにもたれた。

 茉莉の髪が透の首筋のあたりに触れた。

 その毛先は思っていたよりも柔らかかった。

 思っていたよりもいい匂いだった。何の香りか、透には分からなかった。

 茉莉が、家のお風呂は寒い、とさっきの水曜に言っていたのを、透は思い出した。二日に一回しか洗わない、とも言っていた。だから、それはシャンプーのものではなかった。それでも茉莉のそれはいい匂いだった。

 透は茉莉の頭を肩でしっかりと受け止めた。

 肩のブレザーの越しに、茉莉の頭の重さが伝わってきた。ずしりとはこなかった。けれど軽くもなかった。確かにそこにある質感だった。桐谷茉莉を感じるには、十分な重さだった。

 茉莉は目を閉じていた。

 たぶんそうしていた。透の位置からははっきりとは見えなかったけれど、たぶん瞑っていた。透も瞼を伏せた。


── ◇ ──


 風がまた吹いた。

 桜の枝が揺れた。風が止んだ瞬間、自販機の機械音がふっと強く聞こえた。コンプレッサーが動く低い音だった。それからまたすぐに静かになった。

 茉莉が言った。

「藤代」

「うん?」

「次の水曜、もう、来なくていいの?」

「ああ」

「ふうん」

「水曜じゃなくてもいいから、会おう──会いたい。」

「うん。土曜とか?」

「ああ、日曜も」

「いいね」

「あと、火曜とか」

「もう毎日だね」

 茉莉は肩越しに笑った。

 笑った気配が透の肩に振動として伝わってきた。透も笑った。茉莉はそれを肩で感じていた。


 契約は終わった。

 水曜の校舎裏で嘘を一つだけつき合う、あの契約はもうない。

 代わりに別の約束が二人のあいだにあった。

 もう嘘はつかない。

 水曜じゃない日に会う。

 その別の約束を、二人ともまだはっきりとは言葉にしていなかった。言葉にしなくても、もう二人のあいだでそれは決まっていた。

 透は茉莉の手をもう一度軽く握り直した。茉莉も握り返した。指のあいだの温度は、もうお互いに馴染んでいた。それが不思議だった。さっきまでお互いを感じていた気がしたのに、もう一つに馴染んでいた。


 校庭のほうから卒業生たちの声が薄く聞こえていた。

 誰かが誰かの名前を大きく呼んでいた。誰かが笑っていた。誰かが泣いているような気もした。けれどそれが、ここまで届くのは少しだけ遠くの出来事だった。

 それからしばらく、茉莉は透の肩にもたれたままだった。

 しばらく……というのが何秒だったか、何分だったか、透は覚えていない。

 そんなに長くはなかった。けれど短くもなかった。

 卒業式の一日の中で、その時間だけが別の時計で動いていた気がした。

 茉莉が頭をゆっくりと起こした。

 肩から頭の重みが消えた。その瞬間、透の肩のあたりから、何か抜けたような感覚が、残った。それからその抜けた場所に、別の何かがゆっくりと収まった。何が収まったのか、まだはっきりとは分からなかったけれど、たぶんいいものだった。

 茉莉は手を離さなかった。

 そのまま、透の隣でまっすぐ座り直した。

 卒業証書の筒が、茉莉の膝の上で軽く転がりかけた。茉莉は自由なほうの手でそれを押さえた。その動作は普段の茉莉らしい滑らかな動きだった。

「藤代」

「うん」

「あたしたち、もう、これ……契約じゃないんだね」

「うん」

「……ちゃんと、言わなくていい?」

 透は少し考えた。

「……俺は、ちゃんと、言いたい」

「そう?」

「桐谷」

「……」

 透はそこで一拍止まった。

 止まって、もう一度、口の中で組み立て直した。

「桐谷──いや、茉莉」

 茉莉はふっと止まって、それから笑った。今度は口の端だけじゃなくて、ちゃんと目元も笑った。校舎裏でこんな笑い方の茉莉を見るのは初めてだった。

「下の名前で、呼ぶの、初めてじゃん」

「……ああ」

「ふうん」

「呼んでいい?」

「いいよ」

「茉莉」

「うん」

「俺と、付き合ってくれ」

 茉莉は聞いて、目を伏せてそれから顔を上げた。

「うん」

 茉莉はそれだけ言った。

 それだけで、十分だった。


── ◇ ──


 風がまた吹いた。

 桜の蕾が揺れた。今度のはさっきよりも少しだけ長く揺れた。

 枝の先端のほうの一つの蕾の、ほんの先端だけが、ほんの少しだけピンクになっているのが、透の目には見えた。

 それは気のせいかもしれなかった。気のせいでも、そう見えた。

 茉莉はもう一度、透の肩に頭をもたせかけた。さっきよりも少しだけ深くもたせかけた。透ももう一度、肩でしっかりと受け止めた。

 二人ともしばらく何も言わなかった。

 言わなくてよかった。

 契約は終わりだった。

 契約は終わったけれど、契約が運んできたものは、ぜんぶ、ここに残っていた。校舎裏のベンチ、自販機の青白い光、剥げた塗装の「3-1」、桜の蕾、風、互いの指の温度、互いの呼吸の間隔。

 それから、もうひとつ。

 もう嘘はつかない、という新しい約束。

 その約束を、二人とも言葉ではそれ以上繰り返さなかった。繰り返さなくても、もう、ここにあった。


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