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嘘つきは水曜日にやってくる  作者: 白川


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16/22

第16話 二月の助走

 三学期の教室は、二学期までとは別の場所みたいに静かだった。

 一月の中旬を過ぎたあたりから、誰もが机に向かって何かを書いていた。赤本だったり単語帳だったり私大の願書の下書きだったりで、書いているものはばらばらなのに、空気だけは妙に揃って、紙とシャープペンの音だけが粒のように落ちていた。

 窓の外の銀杏は完全に裸で、空はいつも同じ灰色をしていた。

 三年A組の朝のホームルームは、ほとんど連絡事項だけになっていた。担任が「センター試験お疲れさまでした」と言った日があり、「私大の出願、忘れずに」と言った日があり、「卒業式の練習は来月から」と言った日があった。

 誰も大きな声で返事をしなかった。返事の代わりにノートをめくる音だけがした。

 蓮はもう推薦で進路が決まっていた。決まっているからといって浮かれてはおらず、むしろ静かに机の端で文庫本を読んでいた。タイトルは見えなかった。透は何度かそれを横目で見て何も言わなかった。

 昼休み、廊下を歩いていると3-Bの前を通った。茉莉が窓際の席にいて頬杖をついて外を見ていた。透は立ち止まらなかった。茉莉もこちらを見なかった。それでよかった。水曜の校舎裏で会う約束が、こうやって平日を細く支えていた。


 校舎裏は雪こそ降っていなかったが、地面が固く凍っていて、足音が普段の倍ほど響いた。

 透が先に着いて缶コーヒーを買った。微糖の温かいやつだ。それからもう一本、缶のおしるこを買ってベンチに腰を下ろした。座面は冷たくてコートのお尻のあたりが一瞬縮んだ。

 茉莉は五分遅れて来た。手袋をしていなくて両手は赤くなっていた。

「……寒い」

「だろうな」

 茉莉はベンチの端に座って、透が差し出したおしるこを受け取った。プルタブを開ける指先がぎこちなかった。寒さで指が動かないらしい。透は何も言わずに自分の缶を開けてひと口飲んだ。

「今日の嘘」

 茉莉が言った。

「うん」

「朝、ちゃんと朝ごはん食べた」

 透はそれを聞いてちょっと笑った。

「軽いな」

「軽いの。今日はね」

「うん……じゃあ、俺も軽いやつ」

「どうぞ」

「今朝、寒くなかった」

「うっそ」

「ああ、嘘だ」

 茉莉は声を出さずに口の端だけで笑った。それはたぶん本物の笑いだった。透の前で本物の笑いを見せるのが、最近の茉莉だった。

 教室では相変わらず誰も気づかないくらい上手に笑っているらしいが、ここではもうその仮面をかぶる必要がなかった。

 二人とも嘘を出し合った。ただ嘘の重さが初めの頃とは違っていた。あの頃は嘘の中に本当がぎっしり詰まっていて、剥がすたびに皮膚から血が滲むような重さがあった。

 今は嘘がもうほとんど嘘のためだけにあった。皮膚に触っても痛くない、ただの言葉の形をした軽いコミュニケーションだった。

 透はそれを少し寂しいと思った。

 寂しい、という言葉を見つけて、そこから「ああそうか、これは終わりが近づいているからだ」と気づいた。

 重い嘘が出てこないのは二人の関係が薄くなったからじゃない。

 逆だ。重い嘘で確かめなくてもよくなったからだ。

 確かめなきゃいけない関係は、もう終わろうとしている。

 茉莉が言った。

「藤代」

「うん」

「最近の嘘、軽くない?」

「……うん」

「いいのかな、それで」

「いいんじゃないか」

「ふうん」

 茉莉はおしるこを両手で包んだ。湯気が立っていなかった。たぶんもうぬるくなっていた。それでも両手で包む仕草を、茉莉は最近よくやるようになっていた。

「そっか」

 透はそれを横目で聞いて何も言わなかった。


 その水曜からまた日がいくつか過ぎた。気がつくと校庭の隅の梅がぽつぽつと蕾を膨らませ始めた。

 最初は紅い点が枝のところどころにあるだけで花とも言えない小さな膨らみだったが、ある朝、3-Aの教室の窓から見たら、その点がぜんぶ一回り大きくなっていた。

 透はそれをちょっと長く眺めた。

 蓮が机に肘をつきながら言った。

「お前、梅、見るタイプだったか」

「いや」

「だよな」

「うん」

 二人ともそれ以上何も言わなかった。蓮はまた文庫本に目を落とし、透は梅から目を離して机の上の英文を見た。

 受験まであと三週間と少しだった。

 透の本命は東京大学の文学部だった。

 先週、自分で願書を出した。郵便ポストに封筒を入れる瞬間、指が一度だけ震えた。震えただけで迷いはなかった。

 ためらいはあった。ずっとあった。法学部に行けと言われ続けて十七年間、ずっと宙ぶらりんのままだった自分。

 ただ今は、文学部に行くと決めた自分に、何か重いものが乗っていた。それが何かは、はっきりとは言葉にできなかった。

 その週の水曜の放課後、透はいつも通り校舎裏へ向かった。二月最初の水曜だった。

 茉莉は今日は紙パックのリンゴジュースを持っていた。

 ストローを噛む癖は最近はあまり出ていなかった。

「藤代、願書、出した?」

「うん。出した」

「どこ」

「東大の文学部」

 茉莉が半秒止まった。

「……お父さん、なんて?」

「まだ、言ってない」

「ふうん」

「来週、言う」

「……ふうん」

 茉莉はそれ以上訊かなかった。訊かないのは、訊くと壊れそうなものを察したからだろう、と透は思った。

 茉莉はそういうことに敏感だ。

 教室で皆を笑わせている桐谷茉莉と、ここで透の隣に座っている茉莉は、別人みたいに見える瞬間がある。

「あたしのところは──」

 茉莉が言った。

「うん」

「公立。一個だけ」

「一個?」

「うん。受かったらそこ行く。落ちたら働く」

「……そうか」

「うん」

 軽い言い方だった。あまりにもさらりとしていて、逆に、その口調を保つために茉莉がどれだけ言葉を選んでいるかが伝わってきた。

 透はそれ以上訊かなかった。茉莉もそれ以上言わなかった。

 梅の蕾を二人でベンチから眺めた。

「今日の嘘ね」

 茉莉が言った。

「ああ」

「あたし、明日の朝、寝坊しない」

「俺は──」

「うん」

「俺、来週、父と話すの、怖くない」

 茉莉が透を見た。

 茉莉は「うん」とだけ言った。

お読みいただき、ありがとうございました。

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