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嘘つきは水曜日にやってくる  作者: 白川


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13/22

第13話 本気の嘘

 十二月の最初の水曜だった。

 その日、校舎裏のベンチで嘘を交換する時間はいつもの昼休みではなく、放課後になった。

 茉莉から朝、教室移動の途中にすれ違いざまに紙片を一枚渡された。

 手のひらの中で広げると、丸い女の子の字でこうあった。

『今日、放課後でいい?』

 昼休みは人が多い、という意味かもしれなかった。

 もしくは嘘の重さが昼休みに収まらない、という意味かもしれなかった。

 昼休み、透はいつもより少し早く弁当を食べた。食べながら机の中の缶コーヒーの位置を、必要もないのに二度確認した。


 六時間目の終わりのチャイムが鳴った。

 ホームルームが終わった。

 帰りの蓮が隣でカバンを背負いながらちらりと透を見た。

「藤代、今日、塾?」

「いや」

「じゃあ、寄ってくか?」

「ちょっと、用がある」

「用、ね」

 蓮はそれ以上は聞かなかった。聞かない代わりにカバンの肩紐を肩でひと揺すりして教室を出た。出る前にもう一度振り返って、何か言いたそうな顔をして、結局何も言わずに、手を振って出ていった。

 透は誰もいなくなった教室で机の中の缶コーヒーを取り出した。

 いつもの微糖だった。

 それを片手に握って、校舎の北側へ歩いた。

 歩く廊下の蛍光灯は放課後の少し薄暗い光だった。十二月の四時前、外はもううっすらと藍色に近い色になり始めていた。

 校舎の北側の角を曲がった。

 茉莉はもういた。

 いつもの、屋根の張り出しの下のベンチに座っていた。

 今日の茉莉は缶でも紙パックでもなく、何も持っていなかった。

 膝の上に両手を置いて、その両手の上に視線を落としていた。

 ベンチの右端ではなくど真ん中に座っていた。

 左側の、いつも透が座る空間もいつもより少しだけ狭くなっていた。

「来た」

 茉莉がこちらを見て言った。声はいつもよりすこし低かった。

「来た」

 透はいつも通り答えた。

 ベンチの空いている左端に腰を下ろした。古い木が、ぎし、といつも通り鳴いた。

 冬の風が校舎裏の地面の枯れ葉をほんの少し転がした。

 外はもう人の声がしない。グラウンドの部活の声も、放課後の最初の波が引いて二度目の波が来る前の、ちょうど狭間の時間だった。

 

 校舎の北側は放課後のこの時間、特に誰も来ない。

 誰も来ないということを透も茉莉も知っていた。

 今日ここで何が起ころうとも、見るのは二人だけだった。

 しばらく二人とも何も言わなかった。

 透は缶コーヒーのプルタブを起こさず、両手で缶を握った。

 冷たい、という感覚が指先にゆっくり伝わってきた。

 茉莉が口を開いた。

「藤代」

「ああ」

「今日の嘘、聞いて」

「うん」

 いつもの本音モードの淡々とした硬さがあった。

 いつもより声の表面がうっすらざらついていた。

 嘘を置く時の声ではなかった。いつもの茉莉は表面がもう少し滑らかで、台本を読み上げる時のような丸い滑らかさがあった。

 今日の声はそうではなかった。

 初めて聞くような声で、これから嘘を置きに来る。

 透は缶コーヒーを握ったまま茉莉の指先を見た。

 茉莉の両手はまだ膝の上にあった。

 右手の指先が自身の左手の手の甲をごく軽く撫でていた。

 手の甲の皮膚の上を爪の先でごくごく軽く、行ったり、来たり。

 目立たないが、その動きは止まらなかった。

 そうして、茉莉が息をゆっくり吸った。

「あたし」

「うん」

「誰にも、本心、見せられたこと、ないよ」

 短い、間。

「あんたにも、ね」

 校舎裏の冬の風が、ちょうどその一拍に合わせるように、ひゅう、と一度吹いた。

 吹いた風がベンチの上に地面の冷気を運んできた。

 透は缶コーヒーを握ったまま動かなかった。

 目だけが、茉莉の指先から茉莉の横顔へと移った。

 茉莉の右手の指先はまだ、左手の手の甲を撫でていた。

 いつもの「指先の癖」だった。

 今日のそれは紙パックでも缶のプルタブでも手すりでもなく、自分自身の体の上で起こっていた。

 自分の手の甲を噛むみたいに撫でていた。

 嘘だ、と透は改めて思った。

 いつも以上にはっきりと、嘘だ、と思った。

 ただ、嘘だ、という確信のその隣にもう一つ、別の確信があった。


 茉莉の目だけが、今、こちらを試していた。

 言葉では「誰にも、本心、見せられたこと、ないよ。あんたにも、ね」と突き放した。

 突き放しながら、目だけがこちらを見ていた。

 いつもの、本音モードの、淡々とした目ではなかった。

 その目の奥にほんの薄くひとつの問いがあった。

 あんたは、これを、嘘と、見抜くの?

 あんたは、あたしが、本心を、見せたことが、あんたにも、無いと言ったら、それを、信じるの?

 信じないよね。

 信じないで欲しい。

 そういう問いだった。

 言葉で突き放しながら、目で引き留めていた。

 矛盾しているように見えた。

 茉莉は自分の本心をずっと誰にも見せないで生きてきた。

 今、茉莉は、見せないで生きてきた、ということを誰かに見抜いて欲しかった。

 誰にも本心を見せないで来た自分自身のことを、誰か一人だけ見ていて欲しかった。

 その願いは自分の口からは言えない。

 言えないからその願いを嘘の中に隠して置きに来た。

 ……嘘は嘘と知って頷くのが契約だ。

 頷いて終わりにしないのは契約違反だ。

 でも、契約違反でもいい、と透は思った。

「……そうか」

 透は短く言った。

 短くしか言えなかった。

 短く言って、その後は何も続けなかった。

 しばらく二人とも動かなかった。

 校舎裏の冬の風がまた一度、短く吹いた。

 夏の風と違って長く留まらない。短く来て、短く行く。短い風だけが二人の間を何度か抜けていった。

 長い沈黙だった。

 長い、というのは何分、という単位の問題ではなかった。

 たぶん実際の時間は一分もなかった。

 一分もなかったが、その一分の中で、二人の間には静寂だけがあった。


 茉莉がもう一度口を開いた。

 今度はこちらをはっきり見た。

 手の甲を撫でていた指先がようやく止まった。

 止まった指先が左手の指を軽く握った。

 握って、また緩めた。

「藤代」

「……ああ」

「気づいてるよね?」

 短い、けれどはっきりした声だった。

 契約を結んだ日の「契約しない?」と同じくらいはっきりした声だった。

 茉莉の目はもう沈んでいなかった。

 ただこちらを確かめていた。


 あんたは、あたしの嘘を嘘と知って、それでも頷くことに決めた人間で。

 あたしの嘘の中の本当のところまで見抜いて、それでも何も言わずにここにいる人間で。

 その人間は、あたしのことに気づいているはずだ。

 気づいているなら、それを、今、一度だけ、あたしに、見せて。


 そういう、確かめだった。


 透は缶コーヒーを握ったまま息を一度深く吐いた。

 吐いた息は十二月の空気の中で薄く白くなった。

「うん」

 透は言った。

「気づいてる」

 言葉数を増やさなかった。

 増やせなかった、というよりは多く語ってはいけない場面だった。

 ここで何かを長く話すのはたぶん間違いだ、と本能で感じた。

 言葉を足すと嘘の周りに解釈の枠を勝手に組み上げてしまう。

 その枠の中に茉莉の嘘を押し込めることになる。

 それは違う。そうはしないと決めた。

 ただ、気づいている──とそれだけ返した。

 茉莉の目がほんの一拍だけ止まった。

 止まった目の奥で何かがゆっくりと湿り始めた。

 ゆっくりと、内側から外側へ。

 茉莉は声を上げなかった。声を上げない泣き方だった。

 まばたきが──まばたきのまつげの根元のあたりに薄く光るものがたまった。たまったまま零れなかった。その手前で止まった。

 自然と、薄く零れた。

 それは、涙と呼んでいい量ではなかった。

 透は手を出さなかった。

 肩に手を置く、とか。

 頭に手を当てる、とか。

 そういうことをしなかった。

 しないことに決めた。

 その代わりに、缶コーヒーの缶をベンチの上の自分と茉莉の間の空いた板の上に置いた。

 ことん、と軽い音がした。

 見たあと、ゆっくり両手で缶を取った。

 両手で缶の側面を包んだ。

 包んだ手の中で缶はひんやりと冷たかった。缶の冷たさが茉莉の手のひらの熱をゆっくりと吸っていた。茉莉は缶を両手でずっと握っていた。

 握ったまましばらく何も言わなかった。しばらく二人とも何も言わなかった。

 校舎の北側の十二月の薄暗い空気の中で、放課後の音はもう完全に引いていた。

 遠く、運動部の終わりの掛け声が一度聞こえた。聞こえたが、それもすぐに消えた。


 二人の足元の枯れ葉が、風でまた少しだけ転がった。

 茉莉の目の縁の薄い光はもう零れなかった。

 透は茉莉の指先をもう見なかった。見る必要がなかった。

 茉莉の両手は缶を握っていた。手の中の缶はもう、噛むものでも弾くものでもなかった。ただ、温めるものだった。


 どれくらいの時間が経ったのかは分からなかった。

 茉莉が口を開いた。

 声はもうほんの少し表面の滑らかさを取り戻していた。

 取り戻していたが、いつもの本音モードの硬さの、その手前でまだ留まっていた。

「ありがとう」

 茉莉が言った。

 短い一言だった。

 ありがとうとたったそれだけだった。

 透は空いた両手の片方をゆっくり膝の上で握った。

 握って、開いた。

 もう一度、握って、開いた。

 その動きで自分の声を整えた。

「礼は、やめろ」

 透は言った。

「契約だ」

 短く、ぶっきらぼうに言った。

 言ったあと茉莉が笑った。

 声を立てない笑い方だった。

 口の端がふっと上がった。

 上がった口の端の、片方だけがわずかに震えていた。

 震えながら笑った。

 茉莉の目の縁にはほとんど消えかけた涙の、最後のかすかな湿りが残っていた。

 その湿りの上に笑いの口の端が重なった。

 それを見ていることに、透は自分の胸の奥のあたりがほんの少しだけ痛むのを感じた。

 痛む、という単語が自分の中にこんな形で出てくるとは、これまでの透は知らなかった。

 茉莉の手の中の缶はまだプルタブを起こされていなかった。茉莉の両手の中に、ただあるだけだった。

「藤代」

「ああ」

「これ、開ける?」

 茉莉が缶をすっとこちらに傾けた。

「開けない」

「飲まないの?」

「お前が、持ってろ」

「ええ?」

 茉莉がもう一度笑った。

 今度は最初の笑いよりも、ふっと声に近い息が漏れた。

「あんた、そういうとこ」

「どういうとこ」

「いい」

「いい、って何だ」

「いいんだ」

「説明する気ないだろ」

「ない」

「お前な」

 茉莉は最期まで缶を両手で持ったままで、プルタブには指をかけなかった。

 開けないことにたぶん自分でも意味を持たせていた。

 校舎裏の十二月の放課後の冷たい空気の中で、缶コーヒーの中身はたぶんもう冷めるしかなかった。

 茉莉は何かをその缶に預けたのかもしれなかった。透にははっきりとは分からなかった。

 ただ、茉莉の手の中の缶を見ていた。

 自分の胸の奥のあたりがもう一度かすかに痛んだ。

 痛みの種類はさっきと少しだけ違っていた。

 それは誰かのために何かをしないでいる、という痛みだった。

 その痛みを抱えていられる自分のことに驚きがあった。でも、ほんの少しだけ信じたいと思った。


 二人の沈黙の上に、十二月の夕方の最初の暗さがゆっくりと降りた。

 校舎の蛍光灯が今いくつ点いているのかは分からなかった。

 校舎裏には光はほとんど届いていなかった。

 届かない暗さの中で、茉莉の白い指の輪郭だけが缶の側面の銀色をそっとなぞるように見えた。

 その指はもう噛む動きも弾く動きも止めていた。ただ、缶を握っていた。

 握り続ける指のことを、透はもう見なかった。

 かわりに、自分の足元のベンチの下の枯れ葉を見ていた。

 枯れ葉がもう一度、風でほんの少し転がった。

 

── ◇ ──


 ベンチを立った時、茉莉は缶を両手でもう一度握った。

 握ったあと、ゆっくりこちらに缶を返した。

「返す」

「ああ」

「飲んで」

「家で、飲む」

「冷めるよ」

「もう、冷めてる」

 茉莉がふっと息で笑った。

「うん」

 二人は別々の方向に歩いた。

 茉莉は校舎の北側を東に。

 透は校舎の北側を西に。

 歩きながら、透は缶コーヒーを片手で握っていた。

 缶の中身はもう冷たかった。


 透はその夜、家の自分の部屋で、冷たい缶コーヒーのまだ開けられていないプルタブを起こした。

 プシ、といつもの音がした。

 いつもの音の中の微糖の甘さはたぶん冷め切っていて、いつもよりも薄かった。

 飲み下したあと、缶を机の上に置いた。

 机には昨夜の続きで伏せたままの文庫本があった。透はその本をいつもより少しだけ早く手に取ると読み始めた。明日も明後日も東大法学部のための過去問を解くのだろうが、今夜はいつもの十分か十五分よりも少しだけ長く文庫本の方を開いていた。

 置いたまま、明日の朝までに缶の残りを飲み切るかどうかは決めなかった。

お読みいただき、ありがとうございました。

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