第1話 九月一日、藤代くんの朝
朝七時、玄関の扉を閉める音が藤代透にとっての一日の始まりだった。
九月一日。
始業式の朝の空気は夏の名残を含んでまだ重たかった。
アスファルトの上にぬるい湿気が居座っていて、シャツの背中にうっすらと熱が貼りつく。
駅までの道は見慣れた住宅街の並木を抜けていく。蝉の声がまだ残っていた。九月になっても鳴き続けている蝉のことを透はいつも少し憐れに思う。取り残された者の声だ、と。
そんなことを考えながら歩いていると、自分も似たようなものではないかと思って口の端だけで小さく笑った。
電車のホームに立ったところで、ブレザーの内ポケットに入れたスマートフォンが震えた。
透は震えた瞬間に肩がほんの少し強張ったのを自覚した。わかっているのに毎回同じ反応をしてしまう。取り出して画面を確認する。
父。
たった二文字の表示の下に、的確に圧をかけてくる文章が並んでいた。
『八月の模試はA判定だったそうだな。担任から連絡があった。だが東大法学部志望の同期はみなA判定だ。A判定は安全圏ではない。トップ三位以内が安全圏だ。九月の模試までに判定の意味を取り違えるな。油断は敗北だ』
透はホームの白線の手前でそれを二度読んだ。
二度読んだ自分が嫌だった。
一度で頭に入っているのに、確認するように読み返す自分が嫌だった。
既読をつけ返信は短くまとめる。
『ありがとうございます。次回までに修正します』。
送信ボタンを押す前にもう一度だけ文面を見直した。「ありがとうございます」が先に来ているか。自分が主体的になっているか……。
父は息子が自分の責任で動いていない返信を嫌う。
送信。
スマートフォンをポケットに戻すとちょうど電車が滑り込んできた。透は人の流れに合わせて乗り込みつり革に手をかけた。
窓の外を見慣れた線路沿いの風景が流れていく。住宅の屋根、コンビニの看板、駅前のロータリーで信号待ちをするスーツ姿の人たち。
誰もがどこかへ向かっていて、誰もが今日のノルマを抱えている……そんな気がした。
透は自分の顔が窓に映るのを見て無意識に表情を整えた。微笑む、というほどではない。だが口角は下げない。眉間に皺は寄せない。瞳は適度に開いて適度に明るく。
『藤代くん』の顔だ。
藤代家の長男、藤代透。高校三年A組、生徒会副会長。学年三位以内。授業中は質問を受ける側で、休み時間は相談を受ける側で、放課後は委員会か塾。完璧な高校生。完璧な息子。完璧な、何か。
つり革にぶら下がりながら透は小さく息を吐いた。
まだ朝の七時半だ。今日のノルマはここから始まる。
学校までは電車を乗り換えて二十分、駅から徒歩八分。校門をくぐった時点で午前八時十分。校門のところで生徒指導の先生に挨拶をし、昇降口で運動部の一年生に挨拶を返され、廊下で吹奏楽部の後輩二人にお辞儀をされる。透はそのすべてに過不足のない返事をして過不足のない笑顔を返した。
三年A組の教室に入ったのは八時十八分のことだった。
教室の中は夏休み明け特有の少しだけ浮き上がったような空気で満ちていた。日焼けした男子が後ろの席で笑っていて、髪を切ってきた女子が窓際で他の女子に取り囲まれている。誰もが「久しぶり」を口にしていて、誰もが「久しぶり」を口にしないと損だと思っているような、そういう種類の朝だった。
透が自分の席に向かって歩き出すと、後ろの方からのんびりした声が飛んできた。
「おー、藤代。今日も完璧だな」
振り返らなくても誰かわかった。
新名蓮。中学からの付き合いで、今はサッカー部のレギュラー。日に焼けた顔が夏休み前よりさらに黒くなっていた。前髪が少し伸びていてそれを鬱陶しそうにかき上げる仕草が新名らしかった。
「おはよう、新名」
透は鞄を机に置きながら振り返って軽く笑った。
「夏休み、どこ行ってた? 真っ黒だな」
「合宿。三泊四日。地獄」
「お疲れ」
「お疲れじゃねえ。お前は塾の合宿か?」
「うん。三泊四日。地獄」
蓮が一拍置いてから声を立てて笑った。
「お互いの夏休みが地獄かよ」
「地獄じゃない夏休みなんて、高三にあるわけないだろ」
「だな」
蓮はそう言って透の机の縁に軽く腰をかけた。蓮はいつもそうする。透の席に来ると必ず椅子ではなく机の縁に座る。それが蓮の癖で透はそれをやめさせたことがない。やめさせる理由がない。
「で、模試は?」
「A判定」
「うわ、出た。藤代の『A判定』」
「お前は?」
「B判定。サッカー部の合宿明けに受けたやつだから、こんなもんかな」
「次でA行けるだろ」
「お前が言うと嫌味に聞こえねえのが、ほんとずるい」
蓮はそう言って透の机の上に置かれたシャープペンシルを指で弾いた。シャープペンシルが机の上をくるりと回って止まった。透はそれを目で追ってまた蓮を見た。
「ずるいって……何が」
「お前って、たまに目が遠くなる時あるよな」
透は自分の表情がほんの0.1秒だけ遅れて動いたのを感じた。
すぐに笑った。
「何それ。寝不足かな」
「だな。お前、寝てないんじゃね?」
「夏休みの最後に塾の宿題が残ってたな」
「お前が宿題残すとか、世界が終わるんじゃないのか」
「世界はそんな簡単に終わらないよ」
蓮はもう一度笑ってようやく机から降りた。
「とりあえず、今日は始業式と大掃除とあと生徒会の打ち合わせか?」
「うん。文化祭の最終調整がある」
「副会長、しっかり頼むわ」
蓮は手を上げて自分の席へと戻っていった。
透はその後ろ姿を見送ってから椅子に座った。鞄から教科書を取り出し机の引き出しに整然と並べる。シャープペンシル、消しゴム、付箋、マーカー。ひとつひとつの位置をいつも通りに揃える。揃え終えた頃には自分の表情も完璧に元通りになっていた。
『たまに目が遠くなる時があるよな』
そう言った蓮の声が頭の片隅に小さく残った。
蓮はいつもこうだ。深追いはしない。気づいた素振りを残してそのまま流していく。それが蓮の優しさで、それが蓮の限界だった。透にとってはちょうどよかった。深く入ってこられたらたぶん『藤代くん』が保たない。
始業式のチャイムが鳴る五分前、担任が教室に入ってきた。
透は背筋を伸ばし机の上の手を組んだ。
──午前八時三十分。
藤代くんの一日が本格的に始まる。
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