09
何かの始まりと終わりには不思議な関係がある。それらは僕らの知らないやり方で親密さを保っている。恋人が付き合って初めに行ったレストランを、関係の終わりに彼らは無意識に選ぶ。4年か5年も過ぎて、彼らは付き合いの初めの場にやってくる。それは彼らの記憶や胸の奥にある想いがそうさせるのではない。意識的にそうするのでもない。物語をキリの良いものにするために、僕らの知らないところで、世界がつじつまを合わせているのだ。
僕はあの駅へやってきた。彼を待つために。都会の駅じゃない。田舎のどこにでもある静かな駅だ。ホームを囲う白い柵は錆び付いているし、ロータリーの周りにはコンビニの明かりがひとつしかない。人が来るのを待っているタクシーも一台しかないし、駅のそばを歩くようなロマンチストは一人しかない。男はさっき駅を出て、逆の方に向かって永遠にまっすぐ歩いている。
モリさんがやってくる。いつもの歩き方で。
「昔、犬を飼っていた」と彼は言う。
「僕も飼っていましたよ」
「犬は初めのうちとても元気に走り回っている。僕が彼をおとなしくさせるのも難しいほどに」
「引っ張るように散歩させられ、どちらが散歩しているかわからない」
「犬の表情は笑顔に見え、喜びに溢れて見える」
「好奇心で満ちいて、道にあるあらゆるものを嗅いで回る」
「犬はいつでも元気だった。それが永遠に続くように思われた」
「僕の中でも僕の犬はいつでも若い元気な犬だった」
「ところが、僕が気づくことも難しいほど、こっそりとその犬は衰え始める」
「少しずつ元気がなくなっていく。走らなくなっていく」
「地べたに伏しているのが当たり前になる」
「瞳を上に向けて、しっぽをわずかに振る。身体を起こして甘えたりはもうしない」
「いつからだろう?」彼は言う。「いつからそんなふうにその犬はなってしまったんだろう?僕の中では相変わらず彼は元気な若い犬のはずなのに」
僕らは駅を離れて、深夜の街を歩き始める。僕らの足音が街に響いている。虫の音はしない。風もない。僕らの足音だけが聞こえている。広い道路にぶつかると僕らは左折して上り坂へと向かう。国道を車は走っていない。空に浮かんでいる静かで、軽い雲は、沈黙しながら考えごとをしている。空が持つ濃いブルーの背景と、屋根の赤い血の色。
「小学生の頃、僕は割と優秀な生徒だったんだ。テストの点数は高くて、学校という社会の中でうまく立ち振る舞うコツを知っていた。生徒や先生は僕を信頼し、優秀な人物だとみなすことに抵抗がなかった。誰かと誰かが口論していると、第三者が僕のところに駆け寄ってきて――そういう時、その人物はほとんど気の強い女の子だった――僕に判断を求めるんだ。僕はどちらが正しいのか見極めようとする。二人の意見を聞き入れる。周りが注目して僕を見ているのを感じる。僕は悩む。しかし、こんなことはどっちだって良いんだ。僕がどっちを正しいと認めようと、彼らは納得するのさ。僕は半ば真剣に、半ばいい加減に、彼らを裁く。僕の意見を聞くと彼らはようやく安心し、まるで世界が正しく運営されていることに気づくみたいに、ほっと息をつくのさ」
「それは君が正しい人間だったからだよ」
「僕はいつから正しい人間じゃなくなったんだろう?」
僕は何も言わなかった。
「希望が見えるんだよ。もうずいぶん前からだ。多分、僕が子供の頃にはすでにそれは見えていた。その希望はいつでも手の届くか届かないかのぎりぎりにあるんだ。希望は電球の明かりみたいに、僕の手の先のちょっと向こうで輝いている。その希望が見えるから、僕は自分を必要以上に卑下せずに済む。どんなに現状がみすぼらしくて、自分がくだらない人間に見えても、僕はほんのちょっと手を伸ばすだけでその希望にタッチ出来るんだ。僕がその希望にタッチしたら、世界は反転する。僕の願望は全て叶えられる。僕は立派な人間に戻り、僕の周りには美女と金で溢れかえる。その願望を叶えるには、ほんのちょっと身を伸ばして、その希望にタッチしさえすれば良いのさ。こんな話、馬鹿にせずに聞いてくれるかい?」
「もちろん」と僕は言う。
「希望はとても近い。距離はほんのちょっとなんだ。ほんのわずかに身を伸ばすだけで良いんだ。それはとても簡単なことに思える。あまりにも簡単なことのように思えるから、僕は今すぐに手を伸ばす必要さえ感じ無い。今やる必要なんて無いさ。いつだって逆転出来るんだ。世界を反転させられるんだ。もう少しここでじっとしていても良いだろう?僕はそう考える」
僕は奥に見える信号が点滅するのを見ている。道路や民家に光が反射し、警告を与える。青が消え、赤がやってくる。進めが終わり、止まれがやってくる。
「僕はある時気づいた。こんなもの本当にあるんだろうか、と。光はいつでも僕の手の少し先にあって、僕を励ましてくれるけど、こんな光が本当にあるんだろうか?実際にこんな光は存在しなくて、僕はありもしない希望にすがりついているんじゃないだろうか?それから、こうも考える。光が実際に存在するとして、僕は実際に手を伸ばすことなんて出来るんだろうか?僕は致命的に堕落していて、一生その光に手を伸ばさずに終えるんじゃないだろうか?」
「簡単なことじゃないですか」僕が言う。
「君はそう言うだろう」
「手を伸ばしさえすれば良いんだ。ただそれだけだ」
「君はそう言うだろう」彼はそう言った。「何度手を伸ばそうとしたと思う?何度自分を奮い立たせようとしたと思う?そうする度に、僕が味わうのは辛い自己嫌悪だ。僕の手はちっとも動きはしないし、身体はがちがちに重い。まるでイスに縛り付けられているみたいに僕は身動きがとれない。なぜだろう。僕はそう思う。たったこれだけの距離なのに、ほんの少し努力するだけなのに、なぜ僕に出来ないんだろう。僕はそう思う。そうして自己嫌悪の中でぎりぎりしている僕を、希望は相変わらず照らし続けるのさ。さあ、手を伸ばせ、なぜ出来ない、光はそうやって輝いている。あれは希望だろうか。僕には罰に感じられるんだ」
僕は何も言わなかった。
「光は目を閉じた時に最も強く光る。眠ろうとまぶたを閉じると光は強く光る。僕を責めるために。手を伸ばせと急き立てるために。僕は眠れなくなる」
僕らは坂を登り切り、レンガ詰めの道を歩いて行く。外人墓地を過ぎ、西洋風のすでに閉じたカフェを過ぎる。街を見下ろせる高台に僕らはやってくる。深夜に車でやってきたカップルが数組座っている。彼らは互いにもたれあって夜が地面に溶けていく音を聴いている。
「アツコになんて言われたんだ?」彼が言う。
「なにも」僕は言う。
「隠さなくて良い」
「本当ですよ、何も聞いてません」僕は嘘をつく。
「彼女になんて言われたか知らないが、これだけは言っておく必要がある。彼女の言うことはすべて嘘だ」
「嘘をつく必要が無い」
「あるんだよ」
「どうして?」
「昔僕らは付き合っていたんだ。君と僕が出会う前に。彼女は僕の評判を落とすことに必死なのさ。そのためにどんな嘘でもつく」
「まさか」僕は言った。
「本当だとも。彼女は酔っ払ったり、マリファナを吸うと僕が恋しくなるんだ。けれど僕はそばにいない。そこで僕の悪口を言い始めるのさ。君が彼女から僕の話を聞いた時、彼女は酔っていたかい?」
僕は何も言わなかった。
「あの女は堕落に蝕まれているんだ。堕落のソファに座り、自分の話を聞いてもらうために蜘蛛のように網を張っている。そうして誰か一緒に落ちていく相手を探しているのさ。君は立ち止まったかい?」
「ええ」
「隣に座った?」
「いいえ」
「誘惑されたかい?」
「わかりません」
「きっとされただろう。彼女が足を組み替えるのを見たはずだ。君は彼女を抱いた?」
「いいえ」
「よくやった。彼女に抱かれたら終わりだ。君は彼女とともに永久にあのソファから抜け出せなくなる。君は注意しなくちゃならない。彼女の嘘に、身体に、誘惑に。世界のあちこちに穴が空いていて、君を引きずり降ろうとチャンスを伺っているんだ。これは親友からの忠告だ」
彼はそう言った。
それから僕を連れて高台の柵のすぐ側までやってくる。ぽっかり空いた穴が暗闇の中に深く根ざし、樹々が密集している。遠くになだらかに家が並び、そのさらに奥に工場が並んでいる。赤と茶色の鉄の交差。もっと奥で海が揺れ動き、水平線の向こうで暗い空と交わっている。
「親友じゃあないか!」突然、彼が言う。
僕は黙っている。
「君と僕は親友だろう!」
僕は黙っていて、彼を見ている。
「人間と人間の縁というのは、極めて奇妙だ。数値化したり、説明は不可能だ。会った瞬間に全てが決まり、僕らを関係付ける。君を初めて見た瞬間から僕は感じていたんだ。僕らの関係は普通で終わらないということに。君に会えて良かったよ……」
彼はそう言って涙を滲ませた。そこには興奮がある。セックスに似た喜びがあり、汗の滲む火照りがある。彼は循環の中にいる。自分の言葉に感激し、喜び、さらなる感動の言葉を引き出す。ある種の尊敬を求め、先に自分から提示する。僕の手を取り、肌の感触を求めようとする。カップルが空き缶を地面に置く音が聞こえ、海のそばで巨大な船の影が動く。機械によって動かされる関係と関係。垂れていくひとしずく。錆びついた柵と、行き先のわからないボート。人間の嗅覚。
僕は彼を見ている。
おわり
これでおしまいです。しばらく連続して投稿していましたが、三ヶ月ほど投稿できなくなります。しばらくお別れいたします。読んでくださった方々、ありがとうございました。