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03

 彼はいつも歩いてやってくる。楽しげに、気楽に。

 僕らは夏の強い日差しの中をよく歩いた。人通りの多い都会のビルの間や、湖のほとりや、駅ビルの地下街を。彼はよく喋った。僕もよく喋った。僕らは喋りながらあちこちを見たのだ。彼の喋り方にはある特徴があった。必ず一度同意するのだ。それから微笑を慎重に崩さないように注意しながら、ようやく自分の意見を言う。

 「僕は――」と。

 彼はよくうなづいた。僕の熱をなだめるように、勢いを丁寧に抑え、進むべき道を示すように。僕はいつも彼に導かれていた。彼は公園のベンチに腰掛けてゆっくりと慎重に話した。指先を握り、爪の伸びを調べながら。それから足元の鮮やかな影を足で追った。彼はいつも足元の何かを追いかけていた。対立は無かった。彼の辛抱強い気配りがあったからだ。僕が興奮して何かを話すと、彼は微笑んだまま何度も頷き、遠い空を眺めたり、木の年齢を調べるフリをして手で触れたりした。それから聞こえてくる音がセミの鳴き声だけになるまで、静かに耳を澄ました。そうすると僕は少しずつ興奮が溶けるのを感じ、彼が何かを言い出すまで待とうと考え始める。誰もいなかった。そこには。さっきまでブランコに腰掛けていた少女も、彼女を見守る日陰の女性もいない。彼は黙ったまま前かがみになって、両手の間に顎をのせていた。

 「良いと思うよ」と彼は言った。いつも同意した。

 僕は時々、車を出した。彼は運転をしなかった。持ってきたCDをかけてそれに合わせて指をとんとんとさせた。彼には不思議と退廃的なムードがあった。疲れた目と、時々曲がったままになっているシャツの襟がそう感じさせるのかも知れない。彼はこらえているように見えた。崩れようとする何かから。気づくと窓の向こうの遠い景色を眺めて、ぼんやりしていることがあった。そんな時、彼は音楽を聴いてはいなかった。指は太ももの上でじっとしていた。僕が話しかけると彼は笑顔を見せて、紳士ぶった態度で僕に接した。彼が何を耐えているのか、自分の中の何を抑えようとしているのか僕にはわからなかった。ただ彼はふとした瞬間に、よくぼんやりとするのだった。

 「僕が払うよ」と彼は言った。

 「出しますよ」と僕が言った。

 「いいんだよ」と彼が言う。

 最初のうち、彼は僕に払わせようとしなかった。僕はいつもお礼を言った。彼はろくに聞かずに先を歩いた。

 そこに皮肉な猫がいた。揺れる髭があった。彼は高いフェンスの上で風を受けていた。夏の夜があったのだ。店の黄色い明りに照らされ、彼の身体の半分は一本一本が鮮明に浮かびあがっていた。風が吹くたびに、その一本一本が揺れて、憂鬱のように金色に波打った。高いビルがあった。石を敷き詰めた床も。それから広い道路があった。過ぎていく知らない人々がいた。それから車が。

 「ときどき!」彼は珍しく興奮して言った。

 僕は彼の後を歩いていた。

 「ときどき、どうにもならないことがあるんじゃないかと思うんだよ」

 「もちろんですよ」と僕は言った。

 「一般的な意味じゃない!」と彼は言う。「一般論はやめてくれ!僕は僕に限った話をしているんだ」

 僕らはビルの間を歩いた。風の強い狭い道を選んだ。

 「どうしようもなくものごとが進んでいくのを感じることがあるよ」

 「わかりますよ」と僕は言った。彼じゃなく、僕が言ったのだ。そして彼は返事をしなかった。代わりに強い風の音が聞えた。マンションの高いところで、誰かの部屋が付いたり消えたりしていた。ここは自虐的な街だ。何かが終わろうとする始まりのところだ。僕らはその街を歩いて足元から自らを腐らせていくのだ。彼は振り返らなかった。僕は後をついて歩いた。

 「わからないよ、君には」彼は言った。

 「なんです?」風が強かった。彼の声は遅れて僕の耳に届いた。

 「どうしようもなく進行するものごとというものがあるんだよ。本人が望んでもないのに進行するものごとが。それは本人にしか止めようがないのにね。彼は自分を傷つける加害者であり、同時に被害者なのさ」

 「わかります」と僕は言った。

 彼は返事をしなかった。振り返らずに歩いた。

 そしてもう、風も吹かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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