~ 終ノ刻 眠姫 ~
N県警火乃澤署。
刑事課の一室で、工藤健吾は再び報告書の山と格闘していた。相変わらず、ここの刑事課長は自分のことを快く思っていないようだ。今日もまた、課長の分まで書類の整理をさせられる羽目になっている。
もっとも、今の工藤には、そんな書類よりも先に片付けねばならない仕事が存在した。
公にはストーカー事件として扱われているジョーカー様の一件。現場に居合わせた都合上、今回の件は工藤が解決したということになっている。そのため、事件に関する一連の報告書もまた、彼が作成することになってしまったのだ。
些細な恋愛話のもつれから始まった、今回の事件。それだけならば問題はないが、なにしろ、主犯は未成年である。その上、犯行の一部は霊の力を借りて行ったものとなれば、工藤が頭を悩ませるのも無理はない。
犯人は自らの肉体に霊を降ろして犯行に及びました。こんなことを書いて報告書を出せば、左遷は確実だ。どこか、さびれた村の交番勤務に格下げされ、一生をそこで終えることとなるだろう。
「しっかしなぁ……。幽霊の話を抜きにして、どうやって報告書をまとめたらいいんだ?」
ボールペンの柄で頭をかきながら、工藤は心底困った顔をして椅子にもたれかかった。
数週間前に起こった猟奇殺人事件に加え、今回の一件も相俟って、工藤はすっかり霊的な存在を信じる人間になってしまった。それは事件の事後処理として、倉持優香の家系を調べてから確信していた。
倉持優香は、もともと青森県に住んでいた。小学生の頃に火乃澤町に引越してきたらしいが、実家は青森だ。そして、そんな彼女の祖母が住んでいるのが、かの有名な恐山だった。優香の祖母は、そこでイタコを生業としていたという。
この話を知った時、工藤は改めて背筋に冷たいものが走った。イタコが口寄せで先祖の霊を降ろすというのは、この日本国内でも極めて有名な話である。そして、今回の事件で倉持優香が用いた術もまた、一種の降霊術と呼べるものだった。
偶然にしては、あまりにでき過ぎた話である。恐らく、倉持優香は先天的に、祖母と同じ力を持っていたのだろう。いつ頃からかは不明だが、その力を自分で使いこなせることに気づいたのではないだろうか。
もっとも、紅の言葉を借りるなら、それでも倉持優香はまともに訓練も積んでいない素人だった。その結果、最後の最後で稀に見る大悪霊を呼び出して、命の危険に晒されることとなったのだろう。
「ううむ……。やっぱり、幽霊の話は抜きにして報告書を出すしかないかなぁ……」
そこまで考えて、工藤は再び腕を組んで難しい顔をした。自分としては真実を包み隠さず書きたかったが、大方、誰も信じてはくれないだろう。
――――この世には、科学では解明できないことが確かに存在する。
どこぞの海外ドラマのオープニングに出てきそうな言葉を思い出しながら、工藤は報告書の仕上げに入った。あの石頭の課長の手前、ここは形式だけの報告書を作って終わりにするしかなさそうだ。
時刻は既に、午後の三時を回っていた。その日も残業になることを覚悟しながら、工藤は独り今回の奇妙な一件に関する報告書を書き上げていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
県立火乃澤病院の一室を、九条照瑠は見舞いの品を手に歩いていた。
あの後、倒れた紅は優香と共にそれぞれが救急車で搬送された。それから程なくして紅は意識を取り戻したが、優香に至っては未だ意識を取り戻していない。
紅の話では、優香はトウビョウに憑かれたことが原因で、体内の霊脈と呼ばれるものをズタズタにされてしまったらしい。そればかりか、魂そのものもかなり激しく傷つけられたらしく、意識が戻るのがいつになるのかも分からないそうだ。
だが、それでも優香が命まで奪われなかったのは、紅の力によるものだった。
あの時、優香の体内で黒影を戦わせていたら、その反動で彼女の魂は完全に崩壊してしまうところだったらしい。そのため、紅はあえて自らにトウビョウを憑依させ、その上で相手を自分の身体の中に縛り付けたのだ。
御霊縛り。優香はその素質故に自然と使えるようになっていたようだが、それでも不完全な術に違いはない。それに比べて紅の方は、しっかりと修行を積んで技をものにしていたのだ。完全に抑え込むことは不可能でも、自分の魂を極力傷つけずに黒影を戦わせることはできたということだろう。
もっとも、そんな紅も無傷では済まなかったらしく、やはりそれなりに魂を傷つけられてしまった。そのため、本人の意思とは関係なく、病院のベッドにお世話になることとなったのだ。
307という数字が書かれた部屋の扉を開け、照瑠はそこの病室のベッドで寝ている者の前へと歩いてゆく。そこにいるのは他でもない、犬崎紅だ。
「なんだ、見舞いか。三日もすれば退院できると言っただろうに……律儀なことだな」
「なによ、それ。そういう犬崎君こそ、試験前なのに学校休んでる場合じゃないでしょ? こっちは犬崎君のことが心配で、ノートのコピーを持ってきたっていうのに……」
そう言って、照瑠は学生鞄を降ろすと、その中からクリアファイルを取り出して紅に渡した。今日の授業で照瑠がとったノートをコピーしたものだ。
「それにしても……」
ベッドの脇にあった椅子に腰掛けて、照瑠が言った。
「倉持さん、ちょっと可哀想だったね……」
「ああ、そうだな……」
紅もベッドから起き上がり答えた。
倉持優香とて、最初から今回のような凶行に走るような人間だったわけではないだろう。自分の気弱な性格と、それでも好きな人を諦められないという気持ち。そして、極めて繊細なバランスの上に成り立っていた友人関係などが複雑に絡み合い、彼女の心を徐々に蝕んでいったのだろう。
――――心病みし者が向こう側の世界にふれた時、病みは闇となり現実を侵食する。
紅を始めとした向こう側の世界に関わる者達の間で語り継がれている言葉である。それは確かに真理なのかもしれないが、紅はそれでも倉持優香を悪人だとは思わなかった。
現世に溢れる闇は、その全てが悪ではない。邪な心を持って神霊に触れたが故に闇に堕ちる者がいるのも確かだが、そればかりが闇を呼ぶ全てではない。
愛情とは、時に悲しみや憎しみを伴うものである。愛するが故に悲しみ、愛するが故に悩み、そして愛するが故に憎む。人を好きになるということは、その全てが薔薇色に輝くような感情で表現できるほど単純なものではない。
ここからは紅の想像になるのだが、倉持優香は入間美月を殺すつもりはなかったのではないかと思うのだ。
美月が初めてジョーカー様に遭遇した時、優香は美月に襲い掛かったものの、命までは奪わなかった。あまつさえ、自分のアリバイを作るために、自ら噴水に飛び込んでジョーカー様に襲われたふりまでしているのだ。
御霊縛りの術を使って超人と化した優香なら、美月を消すことは簡単だっただろう。しかし、最後に追い詰められるまで、優香は徹底して美月を脅すことで、中原雅史のことを諦めさせようとしていた。
結局、優香は肝心なところで非情になりきれなかったのだ。親友と同じ人を好きになってしまい、最後の最後まで悩んだのだろう。
恋愛をとるか、それとも友情をとるか。その狭間で独り悩み、苦しみ続けた結果、彼女の中で少しずつ闇が醸成されていった。そして、彼女の心が決壊を迎えたその時、ジョーカー様という怪物が生まれたのではないだろうか。
「なあ、九条……」
会話が続いていないことを察してか、紅は唐突に照瑠の名を呼んだ。
「俺の見舞いに来る余裕があるんだったら、お前も倉持の見舞いに行ってやったらどうだ?」
「倉持さんの?」
「ああ。看護婦に聞いたが、学校が終わってから、入間がずっと側で見守っているらしいぞ。誤解で襲われたお前の気持ちも分からないではないが……あいつだって、壊れたくて壊れたんじゃないからな」
「そっか……。そうだよね」
一度は闇に飲まれ、全ての邪魔者を排除しようとするまでに至った倉持優香。しかし、そんな彼女とて、始めは一人の恋する少女でしかなかったはずだ。
椅子の横に置いておいた鞄を持ち、照瑠は無言のまま頷いて立ち上がる。無愛想な紅の口から優香のことを心配するような台詞が出たのは意外だったが、照瑠はむしろ嬉しかった。紅は単に口下手なだけで、根は案外といい人間なのかもしれない。そのことに、また一つだけ確信が持てた気がした。
紅のいる病室を抜け、照瑠は再び病院の廊下を歩いてゆく。優香のいる病室は、紅のいる病室とは正反対の場所にある。それだけに、ここから向かうには少しだけ時間がかかる。
長い廊下を抜け、照瑠はようやくお目当ての病室にたどり着いた。紅の病室があった場所とは違い、ここは随分と静かである。辺りには看護婦はおろか、他の患者の姿さえない。優香の寝かされている病室の他は、今は患者のいない空き部屋のようだった。
扉の隙間から中の様子を覗くようにして、照瑠はそっと病室に入る。部屋の中央にあるベッドには優香が寝かされ、その横には椅子に座った入間美月の姿もあった。
「あっ、入間さん」
「九条さん? どうして、ここへ……?」
「ちょっと、犬崎君に言われてね。あんなことがあった後だけど……やっぱり、倉持さんのことも気になっちゃって……」
「そっか……。優しいんだね、九条さんは……」
そう言って、美月は小さなため息をついたまま優香の顔を覗き込んだ。
ベッドの上では、倉持優香が静かに眠り続けている。医者の話では、彼女の意識が不明になった原因はまったく分からないとのことだ。それ故に、目覚めるのがいつになるかもまた分からない。もっとも、真の理由を知ったところで、医者にどうにかできるものではないのは確かだが。
「ねえ、九条さん……」
空いている椅子に腰掛けた照瑠に美月が話しかけた。
「私は……優香にとって、いい友達だったのかな……?」
「それ、どういうこと?」
「私、確かに中原先輩のことが気になってたけど……どっちかと言えば、好きっていうよりは憧れに近い感じだったんだよね……。だから、優香も当然、そんな風に先輩のことを見ているんだって思ってたんだ」
一瞬、優香の顔を覗き込み、美月は再び照瑠の方に顔を向ける。その言葉には、学校にいる時の彼女が持っている明るさはない。
「でも、本当は違ってた。優香の方が、私なんかよりもずっと真剣に、先輩のことが好きで悩んでたんだよ。そんなことにも気がつかないで、自分の事をアピールするばっかりに夢中になって……。そのせいで、私……優香のことを……壊し……ちゃった……」
最後の方は、涙に混ざって上手く言えなかった。
最近の優香がどのような感情を抱いていたとて、美月にとって優香が親友であることは変わりなかった。が、そんな親友の淡い恋心にさえ気づかず、自分は無意識に優香を追い詰めてしまったのだ。その結果、優香は今回の凶行に走り、全てを失うことになってしまった。
「ごめん……ごめんね……優香……」
寝ている優香の手を取って、美月は泣きながら謝罪した。謝れば済むという問題ではなかったが、それでも美月は優香に戻ってきて欲しかった。そんな美月の姿を見て、照瑠もその手に自分の手を重ねる。
「ねえ、入間さん。私も祈るから、あなたも一緒に祈って。倉持さんが、少しでも早くよくなるように」
「九条さん……」
「はいはい、そんな顔しないの。許すとか許さないとかじゃなくて、大切なのは入間さんの気持ちでしょ? 本当に倉持さんのことを親友だって思っているんだったら……彼女のこと、もう一度信じてあげたら?」
そう言って、照瑠は美月の手に重ねた自分の手をぎゅっと握った。美月も涙を拭いて、無言のまま優香の手を握っている。
時刻は既に夜の七時を回ろうとしていた。さすがに、これ以上病院に残っているのはまずいだろう。
どちらともなく、照瑠と美月は優香の手を戻して椅子から立ち上がった。それでも、病室から去る時に少しだけ気になり、優香の方へと顔を向ける。
ベッドの上で寝ている優香は、相変わらず目を覚ます気配はない。しかし、二人が病室のドアを開けたその時、風に乗って優香の声が聞こえたような気がした。
――――ありがとう……。
空耳かと思い、互いに顔を見合わせる照瑠と美月。病室の窓は閉じられており、風の入り込む隙間はない。
では、先ほどの風と、それに乗って聞こえた声はなんだったのか。まさか、優香が二人の心に語りかけてきたとでもいうのであろうか。
神の右手。嶋本亜衣が命名した、照瑠の持っている不思議な力のことである。触れるだけで病気を治す力があると、亜衣は勝手に思い込んで舞い上がっている。
いくら自分が神社の巫女だからといって、そんな都合のよい力などあるものか。今まではそう思っていた照瑠であったが、今回に限っては、その力の存在を少しだけ信じてみようと思った。自分が倉持優香を目覚めさせることができるとは到底思えないが、それでも何かの力になれればよい。
病室の扉を閉める時、照瑠と美月はドアの隙間から優香の寝顔へそっと視線を移した。遠目から見たためにはっきりとは分からなかったが、それでも照瑠達には、優香の表情が笑っているように思えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
深夜、病室の窓から見える街の灯りを眺めながら、犬崎紅は今回の事件についてのことを考えていた。
倉持優香は、確かに過ちを犯した。が、彼女の罪を一方的に責めることができるかは、また別の問題だ。
相手を想うが故に生まれる不安や嫉妬、そして独占欲。そういった感情は、誰の中にでもあるものだ。ただ、何かのきっかけで心のバランスを失った時、人はその感情を自分でも制御できなくなる。そうして自ら闇の中へ堕ちてゆく者がいることを、紅は痛いほどよく知っていた。
犬崎紅が、闇を用いて闇を祓うことを生業とした理由。それは、自分が初めて闇薙の太刀を振るうことになった、とある事件に由来する。その結果、紅は黒影と闇薙の太刀という力を得たが、同時に一人の少女を失った。
歪められた恋心が、やがては狂気へと変貌してゆく。かつて、それに飲まれて闇に堕ちてしまった少女を、紅は救うことができなかった。
自分が九条照瑠を守ることを決めたのは、そのことに対する贖罪だ。果たしてそれで、自分の背負った咎が無くなるのかどうかはわからない。もしかすると、それは単なる自己満足にしか過ぎないのかもしれない。
だが、一度心に決めた以上、後戻りするつもりはなかった。この、火乃澤町に流れ込む陰の気は、依然としてこの土地全体を侵し続けている。
窓から見える街の灯りが、一つ、また一つと消えてゆく。街はこれから眠りに入るのだろうが、闇は決して眠らない。
月明かりに照らされてできた紅の影が、病室の天井までゆっくりと伸びる。壁から浮き上がるようにして、影は金色の瞳を持った獣へと変化する。
赤と金。それぞれの瞳は窓越しに、消え行く街の灯りを静かに見つめていた。