始まらなかった話
ロマンスは始まらなかった。
鳥の可愛らしいさえずりが聞こえた。
くっきりとした明るい光が差し込み、清々しく心地いい空気が流れている。
今日はいい天気になりそう、とキッチンの窓から朝の風景を眺めながらキャリーは思った。いつものようにパンを切り、卵を焼いて、果物とサラダを準備する。娘はよく食べるため、できるだけボリュームのある朝食を用意しなければならない。
お湯を沸かし始めたその時、バタバタと騒がしい足音が聞こえ、キャリーは振り返った。
「おはよう、母さん!」
娘のパメラが髪を整えながら素早くテーブルに向かい、椅子に座る。そしてキャリーがセッティングしていた朝食をすぐに食べ始めた。
「あれ?もう学校に行くの?早くない?」
キャリーがカップに紅茶を注ぎながらそう尋ねると、パンを飲み込んだパメラが答える。
「今日は授業の準備をする係だから、ちょっと早めに行かなくちゃ」
「あらあら」
キャリーはパメラの前にカップを置きながら苦笑した。
「それならもっと早く起きなさいな」
「だって朝は苦手なんだもん」
パメラはカップを手に取り紅茶を飲むと、キッチンから廊下の向こうへチラリと視線を向けた。
「父さんはまだ寝てるの?」
「ええ。昨日は夜遅かったから」
「最近ずっと遅いねぇ。お屋敷、忙しいの?」
キャリーはパメラの質問には答えず、誤魔化すように、
「ほら、それよりも、時間はいいの?」
と声をかける。するとパメラは慌てたように紅茶を飲み干すと立ち上がった。
「行ってきまーす!!父さんに今日の夜ご飯は肉が食べたいって伝えておいてー!!」
「はーい」
パメラは教科書が入っている鞄を手に家を出ると、いつものように街の学校に向かって元気よく駆けていった。
「おはよう」
パメラが家を出ると数分して夫のリードがキッチンに入ってきた。
「あら、おはよう。まだ寝ててもよかったのに」
クリストファーの執事兼秘書であるリードは、本日は久しぶりの休みだ。キャリーの方は午後からの勤務なのでお昼にはコードウェル家に向かわなければならない。
リードはノロノロとした動きでミルクをコップに注ぎながら、答えた。
「いや、今日は久しぶりに買い物に行こうと思ってたから」
「あ、そうだ。パムがね、夕食は──」
「聞こえてた。肉が食べたいんだろ?何にするかな……」
ぼんやりとした顔で椅子に座り、朝食のパンをモソモソと食べ始める。今日はキャリーが夜遅くまで仕事なので、本日の夕食を準備するのはリードの役目だ。キャリーが結婚した時から鍛えたため、彼の料理の腕はなかなかのものである。
「最近忙しいみたいだし、明日は早朝から仕事でしょ?あまり無理はしないでね」
「分かってる。もう少しすれば一段落して余裕もできるだろうから」
リードがそう言ったので、キャリーは苦笑した。最近リードが忙しいのは、務めているコードウェル家のご令嬢、フリーデリーケの婚約が決まりそうだからだ。通常よりも業務内容が増えたらしく、最近はずっと夜遅くまで仕事をしていた。
「仕事が少し落ち着くならよかったわ……婚約1つでこんなに忙しくなるなんて、やっぱり貴族は凄いわね」
キャリーは洗ったばかりの皿を拭いながら呟いた。貴族の屋敷で働いているものの高い身分の人間とは馴染める気がせず、自ら下働きのメイドを望んでいるキャリーにとって貴族の生活は別世界の話同然だ。
「お嬢様も大変だろうけど、伯爵様やあなたも大変ねー。ウェンディ様の時は、婚約とか結婚の話、全然なかったから楽だったものね」
キャリーの言葉に、リードは思わず固まる。そして、苦い薬をたっぷりと飲まされたような顔をした。
「え?何、その顔?」
「…………いや」
キャリーの言葉から、過去のとある記憶を刺激されてリードは頭を抑える。
「どうしたのよ?」
「なんでもない……」
雇い主の事情を、勝手に妻に話すわけにはいかない。リードは妻の視線から逃げるようにミルクを飲み干した。
◆◆◆
リードが思い出したのは、ずっとずっと前のコードウェル家での出来事だ。
メイドのレベッカ・リオンが行方不明になり、その事が原因で当主のクリストファーとその妹であるウェンディは激しい諍いを起こし、長らく不和の状態が続いていた。
その当時のコードウェル家の空気は最悪としか言いようがなかった。ウェンディはクリストファーと会話をするどころか視線を合わせるのさえ拒否し、屋敷全体が重苦しく張り詰めたような冷たい雰囲気に満ちていた。リゼッテがなんとか2人の間を取り持っていたが、ピリピリとした空気はずっと続き、息苦しさに耐えきれずに逃げ出したくなったのも一度や二度ではない。冗談ではなく、気の弱い使用人はそんな屋敷の空気に耐えきれずに数人は辞めていった。
とある日のこと。
リードは出勤して、いつものようにすぐにクリストファーの書斎に向かった。業務の内容を頭の中で思い浮かべながら扉をノックする。
「どうぞ」
クリストファーのその声がいつもより固いような気がして、首をかしげながらリードは扉を開いた。
「失礼します」
部屋に入って驚く。クリストファーは書斎の真ん中にあるソファに座っていた。クリストファーだけではなくその妻のリゼッテもいる。2人とも険しい表情をしており、クリストファーに至っては頭を抱えていた。部屋の空気がどんよりと濁っているような気がする。
「あの……どうされました?」
リードがその様子に気圧されながら尋ねると、リゼッテが大きなため息をついた。
「ちょっと……いやかなり面倒くさい事になりそうなの」
「はい?」
クリストファーが頭から手を離し、顔をしかめながら口を開いた。
「婚約の話が来た。ウェンディに」
リードは驚いて目を見開く。
「それはそれは……珍しいですね」
コードウェル家の令嬢、ウェンディの立場とその境遇はかなり複雑である。由緒ある伯爵家の生まれであり、社交界では三大美人の1人として知られている。令嬢としての品格を持ち、どこか人間離れした危うい雰囲気の美貌を誇る女性だ。その一方で、極度の人間嫌いであり、孤独を好み、人との関わりをほとんど避けている。必要最低限にしかパーティーなどには顔を出さず、出席してもほとんど話すことはない。性格も無愛想で氷のように冷たいと有名だ。
そんな彼女にも、過去に何度か婚約の話が来たことがある。伯爵家の令嬢としてはかなり少ないが。
理由は分かっている。ウェンディの性格や気性が問題だが、何よりも小さい頃のウェンディの噂が原因だ。
ウェンディは幼い頃、『呪われた令嬢』と呼ばれ、敬遠されていた。呪いの存在はもうないが、現在でも噂を気にして避けている家も少なくない。それゆえに、ウェンディに対しては婚約の申し出はほとんどなく、あっても家格の低い令息からばかりだった。
当たり前ではあるが、ウェンディは婚約を断固拒否したため、クリストファーも無理に勧めることはせずに当たり障りなく断りを入れていた。
だが、今回は──
「婚約の話を持ちかけて来たのは、王弟殿下だ」
クリストファーの言葉に、リードは思わず絶句した。
「それは……またすごい所から……」
「先日、ほら公爵家のお茶会があっただろう?流石に立場上断るのはマズいから、ウェンディも出席したんだ。渋々だったけど。そのお茶会に王弟殿下も出席していて、ウェンディに一目惚れしたらしい。それで……殿下から直接婚約の申し出があった」
クリストファーが顔を青くしながら経緯を説明する。リゼッテもまた複雑な顔で両手を組んだ。
「厄介な事になったわね……まさか王族から婚約の打診だなんて」
「全くだ……普通だったら大喜びの縁談なんだけどな」
「ああ……そうよね……正直とてもいいお相手ではあるんだけど……」
リゼッテとクリストファーは顔を見合わせてまたため息をついた。
今回、婚約の話を持ちかけてきた王弟殿下は、王宮専属の魔術師でもある。少しウェンディと歳は離れているが、魔力が強く、性格も誠実で穏やかな人物だと評判だ。今も独身なのは、幼い頃から身体が少し弱いのと、仕事や魔法の研究が楽しくて婚期を逃してしまったらしい。
王位に全く興味がないらしく、王位継承権は放棄しているが、現国王は年の離れた末っ子である弟を溺愛しているという。
リゼッテの言う通り、身分も立場も人柄も申し分のない最高の縁談だ。もしもウェンディが普通の貴族の娘だったら、クリストファーは躊躇うことなくこの婚約を妹に勧めていただろう。
だが──
「ウェンディが婚約なんて受け入れるわけない……!絶対に嫌がるに決まっている」
クリストファーは青い顔で、拳で殴るようにテーブルを叩いた。
問題はウェンディが非社交的かつ極度の人間嫌いということだ。ウェンディが心を開いた人間は、今までほとんどいない。会ったこともない人間との縁談など絶対に嫌がり、拒否するのは明白だ。
だが今回の相手は身分が高すぎる。王族からの申し出であり、辞退するのは難しい。下手をすれば家名に傷がつく。
「王命じゃないから、まだなんとかなる……。絶対に断らなくては……相手に失礼にならないような理由を作って……」
クリストファーが再び頭を抱えて何やら考え始める。そんなクリストファーにリードは声をかけた。
「あの、万に1つの可能性に賭けて、一度お2人の顔合わせをセッティングしてみては?王弟殿下はとてもお美しい方と噂で聞いたことがあります。ウェンディ様も、もしかしたら、お会いすれば気に入る可能性が──」
「本当にそう思うか?あのウェンディだぞ?今までどんな美青年に声をかけられても、ゴミにたかる羽虫を見るような視線を向けるような子だぞ?」
クリストファーの言葉にリードは口を閉じる。リゼッテは、険しい顔をして腕を組んだ。
「難しいわね……本当に。もしも、あなたがこの申し出を断れなくて、婚約を受けることになったら……」
「ウェンディは家を出る……確実に!!」
クリストファーは確信したようにキッパリと言った。
クリストファーは妹の性格をよく知っている。ウェンディは物静かで冷静な娘に見えるが、実際は苛烈で荒々しく激しい炎のような気性の持ち主だ。無理に婚約の話を進めようとすれば、今度こそウェンディはクリストファーを完全に見限り、どんな説得にも応じることなくコードウェル家から逃げ出すだろう。どんな良縁でも──それが王族であっても──ウェンディにとっては不愉快で嫌悪感しかないに違いない。
そして、厄介な事に、ウェンディは家出をしたとしてもウェンディ本人にとって支障はないし、あまり困らないだろう、とクリストファーは予想した。ウェンディ個人の資産があるからだ。
ウェンディは学生の身でありながら、小説家だ。これまで書いた小説はほとんど高く評価され、飛ぶように売れた。特に近年発売された『エランの剣』シリーズは舞台化までしたため、爆発的にヒットし、ウェンディの個人資産はとんでもないことになっている。そのお金は厳密に管理されており、ほとんど使われてはいない。ウェンディがその資金を何に使おうとしているのか、クリストファーはなんとなく見当がついている。恐らくはウェンディにとって大切な相手……行方不明になったレベッカを捜索するために貯めているのだろう。
クリストファーが断りきれずに縁談を受け入れてしまったら、恐らくウェンディはその資金を使って家出を決行する。簡単に学校も自主退学するし、屋敷からも出ていくだろう。今まで稼いだ莫大なお金を躊躇いなく使い、この家から確実に逃げ切るに違いない。
貴族の立場も捨てて、平民になってでも、自分の意思を貫き通す。──ウェンディはそんな娘だ。
クリストファーは妹の行動を想像しながら、顔を手で覆う。そしてリードに声をかけた。
「……リード、便箋を用意してくれ」
リードは眉をひそめたが、すぐに命じられた通り書斎に設置された棚に向かうと便箋を探す。リゼッテは首をかしげながらクリストファーに問いかけた。
「便箋?何をするの?」
「手紙を書くんだ。エヴァンに」
久しぶりにクリストファーの口から出たその名前に、リードは驚きで一瞬チラリと振り返った。
「あ、そういえば、あのチャラチャラした人、王子だったわね。すっかり忘れていたけど」
リゼッテがポンと手を叩いてそう言うとクリストファーは複雑そうな顔をした。
「元王子だよ……。あいつに頼るのは癪だけど……なんとか断れないか相談してみる……」
クリストファーの友人・エヴァンも現国王陛下の弟であり、王弟殿下の兄に当たる。学園を卒業してすぐに他国の公爵令嬢と結婚したため、直接会うことはほとんどないが、今でも手紙のやり取りは続けていた。
エヴァンだったら、うまい言い訳を考えてくれるかもしれない。
そんな希望に縋るようにクリストファーはリードから便箋を受け取ると、万年筆を手にし、文字を綴り始めた。
◆◆◆
本当にあの時は大変だったなぁ、とリードは洗面所で髭を剃りながら遠い目をした。
あの日から数日間、クリストファーとリゼッテと顔を突き合わせ、ああでもないこうでもないと、角を立てずに婚約を断る理由を考えたものだ。
特にクリストファーはあの時期、重圧と心理的不安が重なりほとんど寝ていなかったに違いない。エヴァンに相談しながら、縁談を阻止するために必死になっていた。恐らくは、これ以上ウェンディに嫌われたくなかったのだろう。
これはリードの想像だが、最悪の場合クリストファーは爵位返上も考えていたかもしれない。
結局その婚約の話は本格的に進む前にあっさりと流れる形になった。どうやらウェンディの“呪い”の噂を知る王宮の上層部が婚約に大反対したらしい。多くの貴族から反感を買うことを不安視した国王陛下も難色を示し、王弟殿下は泣く泣く諦めてくれたようだ。
その知らせを聞いたクリストファーとリゼッテとリードは、救われたような気分になりホッと胸を撫で下ろした。クリストファーは安心のあまり、ちょっと泣いてさえいた。
そんな裏の事情を、クリストファーとリゼッテは全力で隠していたため、今でもウェンディは何も知らない。
「……ちょっともったいなかったよなぁ」
鏡で自分の顔を確認しながら呟く。
もう終わったことだし、そもそも執事であるリードに口を挟む権利なんてないのだが。
それでも、リードは夢想する。
もしも、あの時の婚約の話が進んでいたら。
──呪われて心を閉ざした美しい令嬢と、魔力が強くて優しい王弟殿下。2人が出会い、恋に落ちて、結ばれていたとしたら。
それは、まるでロマンス小説のように、美しい物語になっていたかもしれない。
そんな事を考えて、リードはフッと笑った。
「……まあ、ないか。ウェンディ様は一途だしな」
あのお嬢様は幼い頃からメイドだけに心を開き、溺愛している。王弟殿下と会ったとしても、恋をすることなんて絶対にありえないだろう。
現実なんてそんなものだ。
心の中で呟きながら、大きく深呼吸をする。そしてキッチンにいる妻の元へと向かった。
キッチンのそばにあるテーブルで、家事を一通り終えたキャリーはのんびりと手紙らしき物を読んでいた。リードが入ってきたのを見て、ニコニコしながら口を開く。
「レベッカから手紙が届いたの。あの子、元気そうよ!」
そう言いながら、レベッカの手紙を見せてきた。
「ウェンディ様も相変わらず大活躍みたいねぇ。今度ウェンディ様の本をパムのために1冊送ってくれるんですって!サインって頼んでもいいのかしら!?」
──やはりあの婚約話が進まなくてよかった。本当に。
リードは妻の笑顔を見つめながら心の中で呟く。
あの時のクリストファーの判断は間違っていなかった。コードウェル家にとっては、またとない良縁を逃したかもしれない。それでも、クリストファーは正しかった。これ以上ない素晴らしい相手からの申し出だったが、きっと婚約したとしても、ウェンディにとっての幸福には繋がらなかっただろう。
──ウェンディ様の物語には、王弟とのロマンスなど無価値同然であり、不要なのだ。
長い間、クリストファーと共にウェンディを見守ってきた。だから、リードは強く確信しているし断言できる。
ウェンディもレベッカも、裏の事情など、何も知らないし、知る必要もない。全ては、もう終わった話だ。
2人は自分の力で前に進み、身分も性別も乗り越えて、ここから遠く離れた場所で幸せに暮らしている。
それでいいのだ。
現在、コードウェル家は、幼い令嬢・フリーデリーケの婚約が確定しつつあり、とても忙しくなっている。
フリーデリーケと相手との関係が今後どうなるかは分からない。
だが、どうかあの小さなお嬢様にも幸せな未来が訪れますように、と。
リードは妻に微笑み返しながらそう願った。
珍しいリード視点の話でした。
作中でもリードが言及していましたが、ウェンディと王弟のラブロマンスが生まれる可能性はあったかもしれないです。
いや、無理かな……?ウェンディだからな……。




