選んだ道を
本編終了後から7年後。
“彼”のその後の話。
ミルバーサ島にて。
レベッカはキッチンで皿洗いをしながら、リビングの方をチラチラと伺った。リビングのソファでは、ウェンディが難しい顔をして考え事をしている。その表情を見て、レベッカは首をかしげた。
ここ最近、ウェンディの様子がおかしいのだ。初めは一週間ほど前の事だった。いつものように、ウェンディ宛にたくさんの手紙が届いた。ほとんどは出版社やファンレターだったが、今回はクリストファーからの手紙も含まれていた。兄からの手紙に目を通したウェンディは、
「……えっ」
と突然大きな声をあげた。その顔は驚愕に包まれている。
「どうしました?」
レベッカがそう尋ねるが、ウェンディは小さく首を横に振った。
「なんでもない……」
そう答えたが、どう考えても“何かあった”としか思えないほど表情は曇っていた。
その日からウェンディは口数が少なくなった。食欲はあるようだが、無言で考え事をする時間が増えた気がする。心配したレベッカが声をかけても、固い表情で、
「なんでもないから」
としか答えてくれない。
多分レベッカには知られたくない何か厄介な事が起きたのだろう。気にはなるが、こうなったウェンディは頑固だから、絶対に話してはくれない。無理に踏み込むのは躊躇われるので、結局見守ることしかできなかった。
レベッカがこっそりとため息をつきながら、濡れた手を拭っていたその時、ウェンディが声をかけてきた。
「ベッカ、お願いがあるんだけど」
「あっ、はい」
レベッカは慌てて笑顔を作るとウェンディに向き直った。
「どうしました?のどが乾きました?お茶を入れましょうか」
ウェンディは首を横に振った。
「ううん、それはいいの……。そうじゃなくて……悪いんだけど、明日の午後は少し出かけてくれない?」
「へっ?」
レベッカはキョトンとしながら首をかしげた。
「ダメ?」
「あっ、いえ、ダメじゃないです、けど……」
レベッカはそう言いながら、ウェンディの方へと近づいた。
「えっと、なんででしょうか?」
「あー……」
ウェンディは物凄く言いにくそうにしながら首筋に手を当てる。そのままレベッカから視線を逸らした。
「……客が来るの。少し大切な話がしたいから、ベッカはちょっとここから離れててほしいなって」
「え、お客様が?」
レベッカは驚きながらウェンディの隣に腰を下ろす。この屋敷にリースエラゴ以外の人間が来るなんてとても珍しい。
「えっと……」
誰が来るんですか?と尋ねようとしたが、ウェンディが険しい顔をしているのを見て思わず唇を閉じる。よく分からないが、その客とレベッカが顔を合わせるのをどうしても避けたいようだ。
レベッカは少し考えた後、口を開いた。
「お客様にお茶は出せますか?あとお菓子は?私が準備しておきましょうか?」
その言葉にウェンディは顔をしかめたまま答えた。
「それは大丈夫。ドロシーさんにしてもらうから……彼女にはもう直接頼んであるの」
ドロシーがいてくれるなら安心だ。レベッカは大きく頷くと、
「分かりました。えーと、それじゃあ私はお買い物と……ご近所の牧場のおうちに行ってますね」
そう答える。よくお喋りをする小さな牧場の奥さんの所で最近子牛が生まれたらしく、遊びに来ないかと誘われていたのでちょうどいい。レベッカの答えにウェンディがホッとしたような顔をした。
「ごめんね。ありがとう」
そう言いながらウェンディは手を伸ばすと、レベッカを後ろからそっと抱き締めた。そのまま優しく髪を撫でてくる。
「ウェンディ様?」
レベッカが腕の中で名前を呼ぶが、ウェンディは何も答えなかった。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
小さな鞄を手に、屋敷から出ていくレベッカを見送りながら、ウェンディは手を振った。
レベッカの姿が見えなくなると、屋敷の中に戻りソファに腰を下ろす。キッチンでは通いの家政婦であるドロシーが焼き菓子を作っていた。バターの焼けるいい匂いが屋敷の中に満ちていく。
「……悪いわね」
ウェンディがキッチンに声をかけると、ドロシーが振り返りニカッと笑った。
「これくらい問題ないよ。お菓子はレベッカちゃんの分もちゃんと残しておくからね」
「……」
ウェンディは返事をする代わりに頭を軽く下げた。素っ気ないウェンディの態度を気にする様子もなくドロシーはきびきびと仕事を続けた。
ドロシー自慢の焼き菓子が準備できて、お茶を入れるために戸棚から来客用のカップを取り出したその時だった。
玄関のベルが鳴り響いた。ウェンディがピクリと肩を動かして、玄関の方へ視線を向ける。ドロシーがキッチンから出て玄関に向かおうとするのを、手を上げて制止した。
「私が、出るから」
ドロシーは一瞬驚いたような顔をしたが、言われた通りにキッチンへと戻る。ウェンディはソファから立ち上がるとまっすぐに玄関へと向かった。ドアノブに手をかけると一度だけ深呼吸をする。そのままゆっくりと扉を開けた。
「──こんにちは。久しぶり」
扉の向こうにいた人物が穏やかな声で挨拶をする。ウェンディは固い表情のまま答えた。
「久しぶり、コーリン……いえ、ランバート様」
ニコラス・ランバートはゆっくりとウェンディの屋敷に足を踏み入れた。ウェンディはチラリと彼の顔を見る。優美で上品な顔は学生時代とあまり変わらない。だが、どこか疲れたような血色の優れない顔をしている。それに明らかに昔よりも痩せていた。
ニコラスが勧められるままリビングのソファに腰を下ろした所で、ウェンディが命じるよりも前にドロシーは動いた。てきぱきとお茶を入れてお菓子と共にリビングへと運んでくる。テーブルにそれらをセッティングすると一礼をしてキッチンへと戻っていった。
「本当に久しぶりだ……君は随分変わったね」
先に口を開いたのはニコラスの方だった。学生時代の時と違って、髪を短くし、白いシャツと黒いパンツを身に付けただけのウェンディの姿はニコラスにとってかなり新鮮だった。
ニコラスの言葉にウェンディは無言で肩をすくめる。
「……あの人と暮らしているの?」
ニコラスがキッチンの方をチラリと見て問いかけてくる。ウェンディは小さく首を横に振った。
「いいえ。彼女は通いの使用人」
それ以上は何も言わない。レベッカの事はできるだけ外の人間には話したくない。ニコラスはウェンディが話したくないのを察したのかそれ以上は何も聞いてはこなかった。
「……今日は会ってくれてありがとう」
ウェンディと名前を呼ぼうとして、止めた。それを誤魔化すようにニコラスは言葉を重ねる。
「今でも、君の本は全部買ってるし、読んでるよ。だから、君が元気だってことは顔を見なくても分かってた。まさかこんな遠くの島に住んでるとは思わなかったけど。それに……君が僕とこうして会ってくれるとは思わなかった……」
学生時代は例の契約の事もありそれなりに良好な関係だったが、姉があんな事件を起こしたため、ウェンディはニコラスに対してあまりいい感情は持っていないだろう。それを承知でニコラスはウェンディとの面会を望んだ。
ウェンディは無表情のままお茶を一口飲むと、声を出した。
「会った方がいいと思ったの。あなたがどうしてるか私も少し気になってたから……」
ウェンディは一瞬躊躇うように口を閉じるが、ニコラスを真っ直ぐに見据えると、そのまま言葉を重ねた。
「お姉様の事、残念だったわ。心からお悔やみ申し上げます」
その言葉を聞いたニコラスは顔を伏せて一瞬泣きそうな表情をする。だが、涙はこぼさなかった。
エステル・ランバートが亡くなったのは2ヶ月ほど前の事だった。
あの誘拐事件の後、錯乱状態となり、心のケアが必要になったエステルは専門の病院に入院した。少しずつ精神状態が落ち着きを見せたため、ニコラスが医師を説得して、一度はランバート家に戻ったらしい。しかし、屋敷に戻ると再び精神のバランスが不安定となった。ベッドの上で動くことなくぼんやりしている事が多かったが、突然怒ったり泣き出したりして、激しく暴れるなどの異常な行動が出てきた。とにかく感情の波が激しく自分でも制御ができなかったようだ。ニコラスはそんな姉と必死に向き合い、世話に明け暮れたが、日常生活を送ることさえ困難となったエステルは元の病院に戻ることになった。
ニコラスの脳裏に、白い部屋のベッドで横たわるエステルの姿が浮かび上がる。大きなため息をつくのを必死に堪えた。今でも自分がどうすればよかったのか分からない。
結局、エステルはその後の人生を全て病院で暮らすことになってしまった。
「1年くらい前かな……医師がいろんな検査をしてくれて、脳の中にね、腫瘤を発見したんだ。もしかしたら、常に情緒不安定だったのもそれが原因だったのかもしれない。本当のところはよく分からないけど」
治療は不可能だった。医師の技術や魔法でも腫瘤は摘出不可能と診断された。処方された薬も効果はなく、腫瘤は少しずつ大きくなり、エステルの生命を削っていった。意識状態が徐々に悪くなり、ほとんどベッドから出ることはできなくなった。ニコラスはそんな姉にずっと寄り添い続けた。
「何もできなくて不甲斐なくて……ずっとね、ベッドで眠る姉の手を握って、声をかけることしかできなかった。もう、僕ができることなんてそれくらいしかなかったんだ」
日に日に顔色が悪くなり痩せていくエステルの顔を見るのは辛く苦しかった。それでも、ニコラスは決して目を逸らさず、最期まで姉の手を握り続けた。
「最期の姉の表情は穏やかだったよ。……痛みもほとんどなかったと思う。最期に少しだけ目を覚まして、僕の名前を呼んでくれたんだ。それで……そのまま安らかに」
逝ってしまった、とニコラスは手を組みながら目を閉じた。ウェンディも無言で顔を伏せる。
しばらく沈黙が続いた。次に口を開いたのはウェンディだった。
「……本当に大丈夫?」
ニコラスは目を開くと、小さく頷いた。
「うん。覚悟はしていたから」
エステルの死が大きな話題になることはなかった。元々、ウェンディの誘拐事件の後、エステルが社交界には顔を出すことがなかったので、ほとんど忘れられた存在となっていたからだ。葬儀も親族だけでひっそりと終わらせた。かつて社交界の華と呼ばれた女性の葬儀としては小さくて寂しいものになってしまったが、仕方ないだろう。
ウェンディにエステルの死を知らせてくれたのはクリストファーからの手紙だった。クリストファーを通してニコラスから面会を申し込まれたため、この場を設けることとなった。この屋敷に他人を招くのは避けたかったが、ウェンディは外に出るのはもっと嫌だったので仕方なくニコラスにこちらへ来るよう頼んだ。レベッカにはニコラスに絶対に会ってほしくないため、外出してもらう形にはなったが。レベッカは何も聞いてこないし、ウェンディに従うように外に出てくれたが、家から排除してしまったような感覚になってウェンディはちょっと後ろめたくなる。彼女が帰ってきたら、今夜は思い切り甘やかそう。
ウェンディがそんな事を考えていることなど知るよしもなく、ニコラスは表情を引き締めて、頭を深く下げた。
「もう一度謝らせてくれ。どんなに謝っても許されることではない。だが、姉が君を傷つけたこと、本当に申し訳なかった」
ウェンディは首を横に振る。
「それはもうあの時に決着がついているわ。もう気にしなくていいのよ。それに……あれは私にも責任があった」
「だが──」
ウェンディは、険しい表情をしているニコラスと目を合わせながら言葉を重ねた。
「いろいろあったけど、私は、今、幸せだから。だから、本当に、もう終わりにしましょう。あなたがこれ以上抱える必要はない」
ニコラスの体が一瞬固まる。すぐに力を抜いて、ソファに身を預けた。
「……君が幸せで本当によかった」
しばらく2人とも無言だったが、しばらくしてからお茶とお菓子を口にしながらポツポツと近況を語り合い始めた。
「あなたのお父様はお元気?」
「一応ね。相変わらずだよ。仕事の事しか興味ないから、もう諦めてる。あの人はきっと死ぬまで変わらないだろうな。君の仕事は順調そうだね。また本を出すんだろう?」
「ええ。次は女の子向けの妖精の話を……」
「いいね。絶対に人気がでるよ」
「あなたの仕事は?確か王宮で働いているんでしょう?」
「うん。書記官の補佐だけど……でも法律の勉強をしているんだ。できれば今後は法官とか、法律関係の仕事をしたいと思ってる」
しばらくは和やかな時間が続いたが、やがてニコラスは少し緊張したような表情で話を切り出した。
「実は……家を出ようと考えてる」
その言葉にウェンディは思わずお茶を口にしようとした手を止めた。
「ランバート侯爵家を?」
「ああ」
意外な話ではないな、とウェンディは思った。ニコラスがあの家も、父親も嫌っているのは知っている。母親と姉の心を崩壊させたランバート侯爵家は、ニコラスにとって忌むべき場所だろう。事情を知った学生の時から、いつかニコラスはランバート家を捨てることになるだろうと予想はしていた。
ニコラスは少し躊躇ってから、言葉を続けた。
「この事を直接君に伝えたかった。姉の事もあるし、まだまだ先の話になるけど……実は……結婚しようと思ってる」
流石にウェンディは驚いて目を見開いた。
「あなたが?結婚を?」
ニコラスはいろんな感情が入り雑じったような表情をしつつ頷いた。
「その……うん。本当に、まだまだもう少し周りが落ち着いてからの話になるけどね」
あまりにも突然すぎる話にどう返していいのか分からずウェンディは困惑する。ニコラスは拳を握り、緊張した表情で声を絞り出した。
「……僕は、好き、なんだ。その人が」
その手は小さく震えていた。ウェンディは小さく息を呑む。この言葉が言えるようになるまで、彼はどれだけ苦労したのだろう。きっとウェンディでは想像もできない苦悩や葛藤を乗り越えてきたに違いない。
「……お相手は?どんな方なの?」
ウェンディがそう尋ねると、ニコラスは困ったようにしながらも答えてくれた。
「今の職場の上司……僕よりも10歳上の人。明るくてまっすぐで、さっぱりしているというか……すごく強い人だよ。僕の事情も知ってて、いろいろと配慮してくれたり、細かく気遣ってくれる。心から尊敬している人なんだ」
そう話すニコラスの声は柔らかくて、優しさを感じる。きっとその人がニコラスに寄り添い、支え、心を解きほぐしたのだろう、とウェンディは悟った。
「年上なの?意外ね……」
ウェンディがそう言うと、ニコラスが難しい顔をした。
「実は、向こうは再婚なんだ。離婚してて……その、連れ子の男の子がいる」
ウェンディは今度こそ愕然とした。
「あなた、お父様になるの?」
ニコラスは少し困ったように笑って頷いた。
「うん。何度か息子さんとも顔を合わせてる。……男爵家出身の方だから、あちらのご家族とも話し合って、僕が婿養子になるつもりなんだ」
「それじゃあ、あなたの家はもう……」
ウェンディが言い淀むと、ニコラスは一瞬顔をしかめて首を横に振った。そして感情を込めずに淡々と語る。
「ランバート家はボロボロだよ。もうずっと前から機能不全になっている。今まで見て見ぬふりをしてきたけど、限界が来たんだ。今はなんとか父が無理やり維持してる。父は反対するだろうけど、僕は結婚して正式に縁を切るつもりだ。そうなったらきっと父は親類から跡継ぎを探すだろう。それでも、きっともう長くは持たない。遠からず、あの家は没落すると思う」
ニコラスは複雑な表情をしながら手を組むと、
「姉の事を思うと、僕はもうあの父の後を継ぎたいとは思わないんだ。絶対に」
そうキッパリと言葉を重ねた。
「僕にも大切にしたいと思える人ができた。……家族になりたいと思える人達がいる。これからは、僕がその人達を護りたい。だから、僕は……自分の人生を自分で選ぶことにした。どんなにつらくても苦しくても、自分が選んだ道を切り開いて進んでいく。誰になんと言われようが関係ない。止まらずに歩いていくんだ」
決意に満ちた揺るがない瞳だった。
ウェンディはその瞳を見つめながら穏やかに微笑むと、言葉を紡ぐ。
「……やっぱりあなたは強い人だわ」
その言葉を聞いたニコラスは一瞬瞳を揺らせ、静かに笑みを返した。
その後少しだけ話をしてから、ニコラスは立ち上がった。
「そろそろ戻るよ。長く居座ってしまってすまない。お茶とお菓子をありがとう」
「いいえ。あなたに会えてよかった」
ニコラスとウェンディは話しながら玄関へと向かう。玄関にて、ニコラスはウェンディに、躊躇いながら問いかけてきた。
「君は……その、好きな人と暮らしているの?」
ウェンディは眉をピクリと動かし、少し考えてから渋々頷いた。
「ええ……恋人と暮らしているわ。今日は不在だけど」
それを聞いたニコラスは朗らかに笑った。
「そっか。よかった」
そう呟いて、扉を開いた。外へ出ると、空を見上げて軽く深呼吸をする。そしてウェンディへと向き直ると、正面から緑の瞳をまっすぐに見つめた。
「さようなら、ウェンディ」
「さようなら、ランバート様。どうか幸せに」
「うん。ありがとう」
きっと二度と会う機会はないだろう。お互いにそれを分かっていたが、別れの挨拶はすぐに終わる。
そうしてニコラス・ランバートはミルバーサ島から去っていった。
ニコラスが去った後、ウェンディはぐったりとソファに横たわった。見知った相手とはいえ久しぶりに他人と会って、とても疲れた。少し頭痛もする。しばらくは何もしたくない。
それでも、今日彼と会えてよかったと素直に思えた。
「大丈夫かい?」
ドロシーがリビングに入ってきて、ウェンディの顔を覗き込む。ウェンディは頭を抑えながら、軽く頷いた。
「ええ……今日のこと、ベッカには──」
ウェンディがそう言うと、ドロシーが肩をすくめる。
「あたしゃ何も聞いてないよ。キッチンで仕事をしていたからね」
そう言いながら、下手なウィンクをした。
「……ありがと」
ウェンディがそう言うとドロシーはニカッと笑った。表には出さないが、彼女のこういう所をウェンディはとても気に入っている。
ウェンディは静かに目を閉じた。しばらく物思いに耽る。
もうすぐレベッカが帰ってくる。そうしたら、夕食の席で、レベッカの外出の話を聞こう。そして、一緒にお風呂に入って、ベッドの上で本を読もう。明日になったら、一緒に散歩に行って、あの美しい丘の上で過ごしたい。仕事の事は忘れよう。
ウェンディがそんなことを考えていると、想像通りにガチャリと玄関の扉が開く音がした。すぐに元気な声が響く。
「ただいま帰りました!」
レベッカが大きな荷物を抱えて入ってきた。明るい笑顔でウェンディの方へと駆け寄ってくる。ウェンディは身を起こして、レベッカのために腕を広げた。
「お帰りなさい、ベッカ」
レベッカは「えへへ」と笑いながら、ウェンディに抱きつく。そして、ふと腕の中でウェンディの顔を見上げた。
「ウェンディ様、なんだか顔が明るいですね」
「え?そう?……ちょっとね、いろいろあったから」
何も知らないレベッカは首をかしげた。
ウェンディは自分でも心が晴れやかになってるのを感じて、笑いながら目を閉じた。レベッカを抱き締めながら、ニコラスの未来に思いを巡らせる。
幼い頃から苦難が続き、つらい事がたくさんあった彼に、幸せになってほしい、と思う。今の自分のように。きっとこれからもたくさんの大変なことが待っているかもしれない。それでも、彼と、彼の大切な人が、幸せになってほしいと心から願った。
ウェンディはそのまま愛する人の髪を撫でると、額にキスを落とす。
レベッカはウェンディの顔を見て、嬉しそうに笑いながら、唇にキスを返してくれた。
数年後、ニコラス・ランバートは男爵家の娘であり王宮の書記官でもあるファーン・エルメと正式に結婚した。ニコラスとファーンの間に子どもはできなかったが、ニコラスはファーンの連れ子であるマーティを実の息子のように愛し慈しんだ。マーティもニコラスを本当の父のように心から慕い、良好な親子関係となったという。
家族になった3人はそれなりに苦労はしたが、幸せな家庭を築いた
「僕は弱いよ。いつもバカみたいに迷って揺れている。だけどね、いつだって前を向いて、強くありたいと願っているんだ」
ニコラスは息子の手を握りながら、そう語った。
そして、2人がお互いに予想した通り、ウェンディとニコラスが顔を合わせることは二度となかった。
裏設定
※ファーン・エルメ
男爵家次期当主。王宮の書記官でありニコラスの上司。記憶力に優れ、とにかく仕事ができる女性。前夫に妊娠中に浮気されて、家から叩き出した。行動力があって失敗を恐れない強い性格の持ち主。姉の事で身も心も不安定になっていたニコラスを支え続けた。
※マーティ・エルメ
ファーンと前夫の息子。物静かで優しい性格であり、動物が大好き。ニコラスとは性格が似ているため、とても仲が良く、ファーンとニコラスが結婚したことを心から祝福した。ニコラスと一緒にいるとよく周囲から“父親似だね”と言われ、どう返せばいいのか分からないのが悩み。




